CPなし小説

 夜の底をひとり歩きながら、桔梗凛生はふと顔を上げて夜空を見た。すべての音を吸い込んでしまいそうな、深い藍色の空。その下にぼうっと聳え建つ校舎は、昼間の喧騒とは裏腹にしんと静まり返っている。それもそのはずだ、こんな時間に大学に来ている人間なんて自分の他に誰もいないだろうから。そっと目を伏せ、自嘲にも似た笑みを口の端に浮かべる。
 夜は好きだ。誰も自分を見ていないから。
 昔から何をするにも要領がよく、人より良い成績を収めることが多かった。それは今も相変わらずで、いろいろなサークルに入ってみては期待や羨望の眼差しを向けられて──けれど最終的には、それらはすべて恨みがましい視線に変わる。仕方ないことだとは、自分でも分かっているけれど。
 校舎の中に入り、階段を上がる。コツン、コツンという自分の足音だけが静まり返った校舎に反響している。沁み入るような、冷たい静寂。
 夜の静けさも好きだ。何に対しても熱くなれない自分でも受け入れられる気がするから。踊り場の窓の外に広がるのは、鮮烈な光などない静かな夜空。ただ、陶器のような冷たい月明かりと針で突いたような星々の白い光だけが、ちらちらと宵闇に舞っている。熱さを持たない自分でも、溶け込めるような気がしてくる。
 ガラリと戸を開くと、白い埃が小さく舞い上がった。普段あまり使われていないのであろうこの談話室の、片隅に佇む古ぼけたピアノ。最近見つけた、お気に入りの夜の定位置。
 指をのせ、ひとつ鍵盤を叩く。こぼれた音はガラス玉のように凛と澄んでいた。勢いづいたように、十本の指を鍵盤の上にはしらせる。儚いだけだった音が旋律へと変わる。
 きっと、ピアノの音は夜に似合うように作られている。そう思ってしまうほどに、夜の底に響くピアノの音は粒が立っていてくっきりとした輪郭を持つ。静謐な空気を震わせる、澄んだ音色。心に沈んだ澱を吐き出すかのように、言いようのない、やり場のないマーブル状の思いを透明な旋律に変えていく。
 ただ無心に鍵盤の上に指をはしらせていると、カラン、と場違いな軽い音が響いた。手を止めて振り返る。
 慌てたような顔をした男が、そこに立っていた。
 男は、あまりにも聞きなれた、代わり映えの無い台詞を寄越してきた。だから、いつの間にかそう呼ばれるようになっていた、自分の代名詞とも言える「天才」を自称してやったのだ。おそらくそれを聞いた男は一瞬困惑し、それから少し引いたみたいに頬を引きつらせて、そそくさと退散していくだろうと推測して。
 けれど男は、想像とまるで正反対の反応を寄越した。立ち去るどころか、困惑するどころか、大声で歓声を上げたのだ。
 運命だ!と恥ずかしげもなく繰り返し叫ぶ男。夜をの空気を満たしていた静寂が途端に喧騒へと変わる。冷たいほどに静謐なピアノの音から、熱をはらんだ騒がしさへ。
「バンドをやる運命なんだ!」
 そう告げる彼の声は、どこまでも本気で、ひどく熱かった。チリ、と指先に微かな感触が走る。まるで火傷でもしたみたいな、焦れったさにも似た奇妙な感覚。
 彼となら――彼のバンドでなら、もう一度熱くなれるだろうか。
 ほんのひとひらの期待に懸けるように、自分自身に確かめるように、こくりと頷いた。


 その後、凛生はすぐに知ることとなる。
 あの夜の選択が間違いではなかったことと、彼の――五稜結人の言う「運命」もまた間違いではなかったこと。それから、小さく見える白い星ほど、存外に熱さを秘めているのだということ。
七星蓮と話したとき、的場航海の歌詞を見たとき、そして三人と音を合わせたときに感じた、じりじりと焦がれるような感覚。指先に灯ったその感触は、やがて熱となってピアノの旋律へと伝播していくだろう。
 夜に映えるピアノの音は、熱さを伴ってもなお凛と澄みわたっている。夜空を彩る無数の星々のように、燦然として。
16/20ページ
スキ