CPなし小説
知らないことは恐ろしい。
それは、人間が持つ当然の感情だ。
だから、大海原という未知の場所へと漕ぎ出していく船乗りたちは、たくさんの情報を集めて様々な状況を想定しながら綿密な計画を立てるらしい。「知らないこと」とそれによってもたらされるリスクを最小限にするために。船に乗るための準備をしながら、父親はいつもそう語っていた。
たしかに、知らないことはできるだけ少ない方がいい、と航海は思う。父親の話とはだいぶスケールが違うけれど、たとえば今朝天気予報をチェックして情報を得ていたおかげで、急な雨でも傘がないなんて失態を犯さずに済んでいるわけだ。文学部の校舎の出入口に立ち、航海は鈍色に染まった空を見上げた。宙に細い線を描きながらひっきりなしに落ちてくる雫たち。バケツをひっくり返したような、とまではいかないものの結構な強さの雨脚だ。そっと横目で周りを窺うと、困り顔で空を見上げる人や開き直ったような表情でリュックを頭の上にかざして走り出す人も多い。朝の時点では気持ちのいい青空が広がっていたから、それに騙された人も多いのだろう。
航海は右手に携えていた黒い傘をばさりと広げた。それをさしながら雨空の下へと足を踏み出す。
雨から逃げるように走る男子学生がすぐ隣を駆け抜けていく。髪のセットがどうこうと喚く女子学生の群れが色とりどりの傘とともに通り過ぎていく。そのなかを、航海はひとり歩く。
今日はもう授業はない。この後はアルゴナビス全員でサブマリーナに集合する予定だけれど、蓮と万浬はもう一コマ授業があるので全員が揃うのはもう少し先だ。とは言え、雨空の下を長時間ほっつき歩く趣味はないので、足早にキャンパスを通り抜けていく。
傘の有無にかかわらず、雨はあまり好きじゃない。足元に雫が跳ねるせいで靴や服が汚れるし、湿気のせいでベースの音にも影響が出るし。それに、天気が荒れると波が高くなる。海に出ているであろう父親を思って、少しだけ落ち着かない気分になるから。
一人きりの傘の中にはうるさいほどの雨音が響いている。ボツボツと響くこもった音を聴いていると、不意に昔の記憶が脳裡に蘇ってきた。たしか、航海がまだ小学生だった頃。窓の外の雨模様を眺めながら、心に言いようのない不安を滲ませていたときだった。
その日、父親はいつものごとく海に出ていて、母親も夜勤で明日の朝まで帰らない予定だった。静かで薄暗い家に、兄と二人きり。本来なら慣れっこだったはずの状況だけれど、窓の外に響く地を打つような雨音がなんだか無性に怖くて、じっと窓の外ばかり見つめていた。父親の安全を祈って作ったてるてる坊主がカーテンレールの下で心許なく揺れていた。灰色に淀む景色の中に船の姿を探すかのように、縋るように目を凝らしていた、そのとき。
肩に優しく乗せられた、ほのかにあたたかい手。
振り返ると、さっきまで部屋の隅で本を読んでいた兄がすぐ隣に立っていた。
「航海、大丈夫だ」
落ち着いた、しっかりとした声だった。兄はいつもこんなふうに、柔らかなのに芯のある声で呼びかけてくる。
「今、父さんがいる予定の地域では、波はそれほど荒れていないみたいだ」
「……なんでわかるの」
「さっき調べたんだ」
ふとリビングを見回すと、隅に置いてあるパソコンがいつの間にか起動していた。ほの白い光を放つそれを見つめながら、「うん」と頷く。
「それに、父さんはいつもいろんな状況に備えてちゃんと準備してるだろう? 少しくらい天気が悪くても、大丈夫だ」
肩に置かれていた手がゆっくりと背中を撫でてくれる。安心させようとしてくれているのが分かるような、ひどく優しげな手つきだった。
「うん、そうだよね」
航海は灰色の景色から視線を移して、兄に向って微笑んでみせたのだった。
足元で茶色く濁った水がぴちゃんと跳ねる。わずかに眉を寄せながら、ふと、札幌では今雨が降っているのだろうかと考える。もし降っていたとしても、あの兄のことだからきちんと大きめの傘をさして何食わぬ顔で颯爽と歩いていることだろう。航海はそっと目を伏せる。
重い鈍色の空から降り注ぐ雫はより一層激しさを増したようだ。傘の中で反響する雨音だけが世界を満たしているような気にさえなってくる。うんざりした気分を隠しもせずに眉間にしわを作りながら、俯いていた顔を上げた、そのとき。
見慣れた背中が、視界に入った。
道の先をゆっくりと一人で歩くその背中は、間違いなく結人のものだ。ざあざあと雨が降り注いでいるというのに、傘もささずに急ぐ様子すらもなく、雨にけぶる街をただぼんやりと歩いている。
思わず足をとめてしまう。心臓に冷たい手でそっと触れられたみたいだった。言いようのない切なさにも似た感情が胸に渦を巻く。
トレードマークでもありお気に入りだという帽子からはぽたぽたと雫が滴り、肩を濡らしている。いつもは溌溂とした雰囲気のせいもあってひどく大きく見える背中も、濡れたコートがへばりついて心なしか丸くなっているように思う。なのに、まるで雨が降っていることにすら気付いていないかのように、彼は足元だけを見てのろのろと歩いている。
どんな顔をしているのだろう。
俯いている彼は何を見ているのだろう。
知らない。こんな背中は、こんな彼は知らない。
航海はぎゅっと傘の柄を握り締める。それから小さく息を吸い込んで、思い切って足を踏み出した。そのまま、水を跳ね上げるのも構わずに遠くに見える彼の背中へと駆ける。走るほどに、肺の中に湿った冷たい空気が浸み込んでいく。顔にかかった雫を拭いもせずに白く霞む景色を裂くように走る。
足音に気付いたのだろう、結人がゆっくりと顔を上げる。その顔がこちらを振り返ろうとしたその瞬間、航海は思わず声を出していた。
「なにしてんのユウ、バカだなぁ」
追いついた背中の隣に並びながら、いつもの調子で背中を叩く。手のひらに伝わる、濡れたコートの感触。
「なっ、バカとはなんだよ!」
振り向いた彼の表情は、いつもの彼と変わらない笑顔だった。
*
今日も天気は崩れがちだ。重い灰色に染まった空を、航海はひとり見上げる。べったりと肌に張り付くような湿った空気は生ぬるくて、かすかに吹く風も水気を含んでいてどこか重たげだ。四限の授業を終えて、今はサブマリーナまでの道のりを歩いているところだった。
空模様は朝の時点ですでにぐずついていて、降らそうか降らさまいか決めかねているようなどっちつかずの曇天だった。予報では夕方から雨になると言っていたから、そろそろ降り出すかもしれない。右手に携えた傘の柄を確かめるように握りしめる。
あの日、雨空の下を傘もささずに歩く結人の姿を見てから、航海のリュックには荷物がひとつ追加された。それは、深い藍色をした折り畳み傘。コンパクトながらも開くと充分に大きいそれは、前から持っていたものではなく新しく買ったものだ。
あの、見かけによらず繊細であまり心の内を見せたがらなくて、そのくせ寂しがりな男のために。
馬鹿な彼が、また天気予報を見逃そうが傘を無くそうがもう雨に濡れないですむように。
ただの自己満足であることは分かっている。航海はそっと自嘲にも似た笑みを口元に浮かべた。
ぽつ、と雫が目の前に落ちる。足元のアスファルトに丸い模様を描いたそれはたちまち数を増やし、地面の色を濃く変えていく。航海はばさりと黒い傘を広げた。それから、きょろきょろと辺りを見回してあの見慣れた背中がいないか探す。ほとんど癖のようなものだ。
と、わき道からひょいと茶色いコートの裾が覗くのが視界のすみに映った。慌ててそちらへ目を向けると、思った通りの背中が現れた。
少し首を曲げて澱んだ空を見上げる彼のだらりと下がった手に、相変わらず傘は握られていない。航海はため息を吐いた。それから、思い切って駆け出す。
彼に降る雨をやませることはできないけれど、傘を差しだすことはできるから。
足音に気付いて振り向いた彼へと駆け寄りながら、いつかと同じ言葉を告げる。
「なにやってんのユウ、バカだなぁ」
驚いたように目を見開く男に、航海は柔らかく笑ってみせた。
それは、人間が持つ当然の感情だ。
だから、大海原という未知の場所へと漕ぎ出していく船乗りたちは、たくさんの情報を集めて様々な状況を想定しながら綿密な計画を立てるらしい。「知らないこと」とそれによってもたらされるリスクを最小限にするために。船に乗るための準備をしながら、父親はいつもそう語っていた。
たしかに、知らないことはできるだけ少ない方がいい、と航海は思う。父親の話とはだいぶスケールが違うけれど、たとえば今朝天気予報をチェックして情報を得ていたおかげで、急な雨でも傘がないなんて失態を犯さずに済んでいるわけだ。文学部の校舎の出入口に立ち、航海は鈍色に染まった空を見上げた。宙に細い線を描きながらひっきりなしに落ちてくる雫たち。バケツをひっくり返したような、とまではいかないものの結構な強さの雨脚だ。そっと横目で周りを窺うと、困り顔で空を見上げる人や開き直ったような表情でリュックを頭の上にかざして走り出す人も多い。朝の時点では気持ちのいい青空が広がっていたから、それに騙された人も多いのだろう。
航海は右手に携えていた黒い傘をばさりと広げた。それをさしながら雨空の下へと足を踏み出す。
雨から逃げるように走る男子学生がすぐ隣を駆け抜けていく。髪のセットがどうこうと喚く女子学生の群れが色とりどりの傘とともに通り過ぎていく。そのなかを、航海はひとり歩く。
今日はもう授業はない。この後はアルゴナビス全員でサブマリーナに集合する予定だけれど、蓮と万浬はもう一コマ授業があるので全員が揃うのはもう少し先だ。とは言え、雨空の下を長時間ほっつき歩く趣味はないので、足早にキャンパスを通り抜けていく。
傘の有無にかかわらず、雨はあまり好きじゃない。足元に雫が跳ねるせいで靴や服が汚れるし、湿気のせいでベースの音にも影響が出るし。それに、天気が荒れると波が高くなる。海に出ているであろう父親を思って、少しだけ落ち着かない気分になるから。
一人きりの傘の中にはうるさいほどの雨音が響いている。ボツボツと響くこもった音を聴いていると、不意に昔の記憶が脳裡に蘇ってきた。たしか、航海がまだ小学生だった頃。窓の外の雨模様を眺めながら、心に言いようのない不安を滲ませていたときだった。
その日、父親はいつものごとく海に出ていて、母親も夜勤で明日の朝まで帰らない予定だった。静かで薄暗い家に、兄と二人きり。本来なら慣れっこだったはずの状況だけれど、窓の外に響く地を打つような雨音がなんだか無性に怖くて、じっと窓の外ばかり見つめていた。父親の安全を祈って作ったてるてる坊主がカーテンレールの下で心許なく揺れていた。灰色に淀む景色の中に船の姿を探すかのように、縋るように目を凝らしていた、そのとき。
肩に優しく乗せられた、ほのかにあたたかい手。
振り返ると、さっきまで部屋の隅で本を読んでいた兄がすぐ隣に立っていた。
「航海、大丈夫だ」
落ち着いた、しっかりとした声だった。兄はいつもこんなふうに、柔らかなのに芯のある声で呼びかけてくる。
「今、父さんがいる予定の地域では、波はそれほど荒れていないみたいだ」
「……なんでわかるの」
「さっき調べたんだ」
ふとリビングを見回すと、隅に置いてあるパソコンがいつの間にか起動していた。ほの白い光を放つそれを見つめながら、「うん」と頷く。
「それに、父さんはいつもいろんな状況に備えてちゃんと準備してるだろう? 少しくらい天気が悪くても、大丈夫だ」
肩に置かれていた手がゆっくりと背中を撫でてくれる。安心させようとしてくれているのが分かるような、ひどく優しげな手つきだった。
「うん、そうだよね」
航海は灰色の景色から視線を移して、兄に向って微笑んでみせたのだった。
足元で茶色く濁った水がぴちゃんと跳ねる。わずかに眉を寄せながら、ふと、札幌では今雨が降っているのだろうかと考える。もし降っていたとしても、あの兄のことだからきちんと大きめの傘をさして何食わぬ顔で颯爽と歩いていることだろう。航海はそっと目を伏せる。
重い鈍色の空から降り注ぐ雫はより一層激しさを増したようだ。傘の中で反響する雨音だけが世界を満たしているような気にさえなってくる。うんざりした気分を隠しもせずに眉間にしわを作りながら、俯いていた顔を上げた、そのとき。
見慣れた背中が、視界に入った。
道の先をゆっくりと一人で歩くその背中は、間違いなく結人のものだ。ざあざあと雨が降り注いでいるというのに、傘もささずに急ぐ様子すらもなく、雨にけぶる街をただぼんやりと歩いている。
思わず足をとめてしまう。心臓に冷たい手でそっと触れられたみたいだった。言いようのない切なさにも似た感情が胸に渦を巻く。
トレードマークでもありお気に入りだという帽子からはぽたぽたと雫が滴り、肩を濡らしている。いつもは溌溂とした雰囲気のせいもあってひどく大きく見える背中も、濡れたコートがへばりついて心なしか丸くなっているように思う。なのに、まるで雨が降っていることにすら気付いていないかのように、彼は足元だけを見てのろのろと歩いている。
どんな顔をしているのだろう。
俯いている彼は何を見ているのだろう。
知らない。こんな背中は、こんな彼は知らない。
航海はぎゅっと傘の柄を握り締める。それから小さく息を吸い込んで、思い切って足を踏み出した。そのまま、水を跳ね上げるのも構わずに遠くに見える彼の背中へと駆ける。走るほどに、肺の中に湿った冷たい空気が浸み込んでいく。顔にかかった雫を拭いもせずに白く霞む景色を裂くように走る。
足音に気付いたのだろう、結人がゆっくりと顔を上げる。その顔がこちらを振り返ろうとしたその瞬間、航海は思わず声を出していた。
「なにしてんのユウ、バカだなぁ」
追いついた背中の隣に並びながら、いつもの調子で背中を叩く。手のひらに伝わる、濡れたコートの感触。
「なっ、バカとはなんだよ!」
振り向いた彼の表情は、いつもの彼と変わらない笑顔だった。
*
今日も天気は崩れがちだ。重い灰色に染まった空を、航海はひとり見上げる。べったりと肌に張り付くような湿った空気は生ぬるくて、かすかに吹く風も水気を含んでいてどこか重たげだ。四限の授業を終えて、今はサブマリーナまでの道のりを歩いているところだった。
空模様は朝の時点ですでにぐずついていて、降らそうか降らさまいか決めかねているようなどっちつかずの曇天だった。予報では夕方から雨になると言っていたから、そろそろ降り出すかもしれない。右手に携えた傘の柄を確かめるように握りしめる。
あの日、雨空の下を傘もささずに歩く結人の姿を見てから、航海のリュックには荷物がひとつ追加された。それは、深い藍色をした折り畳み傘。コンパクトながらも開くと充分に大きいそれは、前から持っていたものではなく新しく買ったものだ。
あの、見かけによらず繊細であまり心の内を見せたがらなくて、そのくせ寂しがりな男のために。
馬鹿な彼が、また天気予報を見逃そうが傘を無くそうがもう雨に濡れないですむように。
ただの自己満足であることは分かっている。航海はそっと自嘲にも似た笑みを口元に浮かべた。
ぽつ、と雫が目の前に落ちる。足元のアスファルトに丸い模様を描いたそれはたちまち数を増やし、地面の色を濃く変えていく。航海はばさりと黒い傘を広げた。それから、きょろきょろと辺りを見回してあの見慣れた背中がいないか探す。ほとんど癖のようなものだ。
と、わき道からひょいと茶色いコートの裾が覗くのが視界のすみに映った。慌ててそちらへ目を向けると、思った通りの背中が現れた。
少し首を曲げて澱んだ空を見上げる彼のだらりと下がった手に、相変わらず傘は握られていない。航海はため息を吐いた。それから、思い切って駆け出す。
彼に降る雨をやませることはできないけれど、傘を差しだすことはできるから。
足音に気付いて振り向いた彼へと駆け寄りながら、いつかと同じ言葉を告げる。
「なにやってんのユウ、バカだなぁ」
驚いたように目を見開く男に、航海は柔らかく笑ってみせた。