CPなし小説
風呂からあがった結人がリビングに戻ってくると、凛生がアップライトピアノの前に座っていた。
夜十一時半という時間を憚ってか音こそ出していないが、指はそっと鍵盤の上をやわらかくはしる。
きっと彼も、ライブの余韻の中にいるのだ。
なんとなく息をひそめながら、結人はドアにもたれかかってその様子を見守る。
今日のライブは大成功だった。ライブハウスで知り合った、同じ下北沢を拠点とするアマチュアバンドとの合同ライブ。向こうのファンも、こちらのファンもとても喜んでくれたし、どの曲でもみんな盛り上がっていた。フロアいっぱいの楽しそうな顔を見ると嬉しくなるし、彼らの熱気に当てられるようにステージに立つ演者の演奏や歌にもさらに熱がこもる。そしてまた観客たちの熱狂も大きく膨らむ。そんな、とてもいいライブだった。
アルゴナビスの他のメンバーもみんなそう感じていたようで、シェアハウスでの打ち上げもいつもに増してテンションが高かった。飲んで食べて喋って、たくさんはしゃいだ。そのうち蓮がうとうとしだして、それに付き添う万浬とふたりで二階に引き上げて、航海もさすがに疲れたとあくびしながら自室に戻り、そうして今に至るというわけだ。
結人は、半ばぼんやりしつつ鍵盤の表面を静かに叩く凛生を眺める。たぶん、凛生の心はここにない。もっと遠く、夢のようなところにいるのだろう。いつも冷静な色をしている彼の瞳は、今は熱に浮かされたように鮮やかな光を帯びている。
ふと、彼の長い指の動きがとまった。
「入ってこないのか?」
揶揄うような微笑みを浮かべた凛生が振り返る。
「なんだ、気づいてたのか」
結人はぽりぽりと頬をかいた。
「まあ二回目ともなれば、な」
「二回目? ……ああ、そっか」
「あのときも夜だったな」
思い浮かべるのは、出逢いの夜だ。
忘れ物を取りに夜の大学へ戻った結人は、そこでピアノの音を耳にした。音色を追って辿り着いた先に、凛生がいた。さらりとした静かな後ろ姿なのに、ほんの少し前傾した背中にも、こぼれる音の粒の一つひとつにも、切迫にも似たはげしさがかすかに潜んでいる気がした。熱のかけらを含んだ、いい音だと思った。結人は耳に残る音色を思い出す。
「あのときの凛生のピアノ、夜の雰囲気によく似合っててすげぇ綺麗だった。運命だって思ったよ」
ほんの少し照れを滲ませながら結人は告げる。凛生が小さく目を細めた。
「五稜は最初からそう言ってたな」
「そうだっけ。でも、正しかっただろ?」
「そうだな」
頷く凛生に、結人はほっとかすかに息を吐いた。夜の静謐を揺らした吐息が、ふたりの間で溶ける。時計の音がゆっくりと響く。どこか遠くで犬が吠える声が聞こえた。ぽんちゃんは気にせずソファの横のクッションの上で丸くなっている。
白鍵を指先で撫でながら凛生が呟いた。
「……そう昔のことでもないのに、懐かしく感じる」
「そうだなぁ、いろんなことがあったから」
「荒波の多い航海だったな」
懐かしむような瞳のまま、凛生はくすっと悪戯っぽく笑う。結人はまだ乾いていない髪の先をもてあそぶ。指先に小さな雫がついた。
「まあ、順風満帆とはいかないことも多かったなぁ」
苦笑しつつ、結人は目を伏せる。はだしの足の上に、髪から垂れた雫がぽたりと落ちる。
「でも、それでこそ航海だろ。波のない海を渡っても船は強くならない。それに第一、楽しくない」
凛生の言葉に、結人はまじまじと彼を見た。見つめ返す涼しげな瞳は、とてもまっすぐで尚且つ楽しげだった。結人はガシガシと頭をかいた。
「やっぱ敵わねぇなあ」
「ふふ」
肩を揺らす凛生に、結人は少し目を細めてみせる。
「なんか楽しそうだな、凛生」
「そうか? なら、おまえのおかげかもな」
「え?」
「アルゴナビスはおまえが作った船だろ?」
揶揄うでも茶化すでもない、まるで北極星を指差して北だと言うような明瞭さで凛生は告げる。音の少ないしんとした夜だから、その声は澄んだ硝子玉のように冴えざえとしていた。胸の真ん中にぽんと投げ込まれたその硝子玉に宿る光が、そっと、けれど確かに胸をあたためるのを、結人は感じた。頬がかすかに火照ってゆく。
「……ありがとな」
「こちらこそ」
「なんか凛生とこういう話するときはいつも夜な気がする」
「そりゃはじまりも夜だったからな」
しんと静まり返っていた深い空気に、鮮やかな熱が伝播していく気配がした。顔を見合わせて、ふっと同時に笑う。
「早く次のライブがしてぇな」
「なら、新曲も作らないとな」
航海図を広げつつ星を読んで船の針路を決めるみたいに、二人はこれからのことを話し合う。弾む声が静謐だった時の流れを震わせて、少しずつ夜を伸ばしていく。
ピアノの横の、一センチだけ開いた青いカーテンの向こうには、針で突いたような小さく遠い星々が鮮やかな光で瞬いていた。
夜十一時半という時間を憚ってか音こそ出していないが、指はそっと鍵盤の上をやわらかくはしる。
きっと彼も、ライブの余韻の中にいるのだ。
なんとなく息をひそめながら、結人はドアにもたれかかってその様子を見守る。
今日のライブは大成功だった。ライブハウスで知り合った、同じ下北沢を拠点とするアマチュアバンドとの合同ライブ。向こうのファンも、こちらのファンもとても喜んでくれたし、どの曲でもみんな盛り上がっていた。フロアいっぱいの楽しそうな顔を見ると嬉しくなるし、彼らの熱気に当てられるようにステージに立つ演者の演奏や歌にもさらに熱がこもる。そしてまた観客たちの熱狂も大きく膨らむ。そんな、とてもいいライブだった。
アルゴナビスの他のメンバーもみんなそう感じていたようで、シェアハウスでの打ち上げもいつもに増してテンションが高かった。飲んで食べて喋って、たくさんはしゃいだ。そのうち蓮がうとうとしだして、それに付き添う万浬とふたりで二階に引き上げて、航海もさすがに疲れたとあくびしながら自室に戻り、そうして今に至るというわけだ。
結人は、半ばぼんやりしつつ鍵盤の表面を静かに叩く凛生を眺める。たぶん、凛生の心はここにない。もっと遠く、夢のようなところにいるのだろう。いつも冷静な色をしている彼の瞳は、今は熱に浮かされたように鮮やかな光を帯びている。
ふと、彼の長い指の動きがとまった。
「入ってこないのか?」
揶揄うような微笑みを浮かべた凛生が振り返る。
「なんだ、気づいてたのか」
結人はぽりぽりと頬をかいた。
「まあ二回目ともなれば、な」
「二回目? ……ああ、そっか」
「あのときも夜だったな」
思い浮かべるのは、出逢いの夜だ。
忘れ物を取りに夜の大学へ戻った結人は、そこでピアノの音を耳にした。音色を追って辿り着いた先に、凛生がいた。さらりとした静かな後ろ姿なのに、ほんの少し前傾した背中にも、こぼれる音の粒の一つひとつにも、切迫にも似たはげしさがかすかに潜んでいる気がした。熱のかけらを含んだ、いい音だと思った。結人は耳に残る音色を思い出す。
「あのときの凛生のピアノ、夜の雰囲気によく似合っててすげぇ綺麗だった。運命だって思ったよ」
ほんの少し照れを滲ませながら結人は告げる。凛生が小さく目を細めた。
「五稜は最初からそう言ってたな」
「そうだっけ。でも、正しかっただろ?」
「そうだな」
頷く凛生に、結人はほっとかすかに息を吐いた。夜の静謐を揺らした吐息が、ふたりの間で溶ける。時計の音がゆっくりと響く。どこか遠くで犬が吠える声が聞こえた。ぽんちゃんは気にせずソファの横のクッションの上で丸くなっている。
白鍵を指先で撫でながら凛生が呟いた。
「……そう昔のことでもないのに、懐かしく感じる」
「そうだなぁ、いろんなことがあったから」
「荒波の多い航海だったな」
懐かしむような瞳のまま、凛生はくすっと悪戯っぽく笑う。結人はまだ乾いていない髪の先をもてあそぶ。指先に小さな雫がついた。
「まあ、順風満帆とはいかないことも多かったなぁ」
苦笑しつつ、結人は目を伏せる。はだしの足の上に、髪から垂れた雫がぽたりと落ちる。
「でも、それでこそ航海だろ。波のない海を渡っても船は強くならない。それに第一、楽しくない」
凛生の言葉に、結人はまじまじと彼を見た。見つめ返す涼しげな瞳は、とてもまっすぐで尚且つ楽しげだった。結人はガシガシと頭をかいた。
「やっぱ敵わねぇなあ」
「ふふ」
肩を揺らす凛生に、結人は少し目を細めてみせる。
「なんか楽しそうだな、凛生」
「そうか? なら、おまえのおかげかもな」
「え?」
「アルゴナビスはおまえが作った船だろ?」
揶揄うでも茶化すでもない、まるで北極星を指差して北だと言うような明瞭さで凛生は告げる。音の少ないしんとした夜だから、その声は澄んだ硝子玉のように冴えざえとしていた。胸の真ん中にぽんと投げ込まれたその硝子玉に宿る光が、そっと、けれど確かに胸をあたためるのを、結人は感じた。頬がかすかに火照ってゆく。
「……ありがとな」
「こちらこそ」
「なんか凛生とこういう話するときはいつも夜な気がする」
「そりゃはじまりも夜だったからな」
しんと静まり返っていた深い空気に、鮮やかな熱が伝播していく気配がした。顔を見合わせて、ふっと同時に笑う。
「早く次のライブがしてぇな」
「なら、新曲も作らないとな」
航海図を広げつつ星を読んで船の針路を決めるみたいに、二人はこれからのことを話し合う。弾む声が静謐だった時の流れを震わせて、少しずつ夜を伸ばしていく。
ピアノの横の、一センチだけ開いた青いカーテンの向こうには、針で突いたような小さく遠い星々が鮮やかな光で瞬いていた。
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