CPなし小説
カラカラ、と軽い音がかすかに聞こえた。隣室の、ベランダへと繋がる掃き出し窓が開いた音だ。
万浬はスティックを握る手を止めた。ドラムの代わりにしていたクッションを脇に置いて、ペットボトルの水を飲みつつちらりと窓を見やる。さっきまで夕焼け色に染まっていた空には、藍色の夜の気配がにじんでいた。
万浬は両手を突き上げて伸びをすると、ひょいと立ち上がった。スティックをそばのローテーブルに置いて、ベランダへと向かう。
サンダルを引っかけて外に出る。夕方の涼しい風にふわりと髪をなびかせながら、万浬は衝立越しに声をかけた。
「蓮くーん、なにしてるの?」
「万浬。えっと、空の色が綺麗だったから、なんだか外に出てみたくなったんだ」
穏やかな声が応える。顔は見えないけれど、きっといつものように柔らかく微笑んでいるのだろう。まるでつられるように万浬も口許を緩める。
「ねえ、俺もそっち行っていい?」
「うん、もちろん」
大きく頷く姿が目に浮かぶようだ。万浬はベランダから戻り、サンダルを持って隣室へと向かう。
一応ドアをノックして、「入るね」と声をかけてドアを開ける。
青を基調としたシンプルな部屋を通り抜けて、彼のいるベランダへ。「お待たせ」と笑うと、蓮も「うん」と微笑んだ。並んで腰を下ろす。
「だんだん陽が長くなってきたよね〜」
「うん、春だなぁって実感するね。風はまだちょっと冷たいけど」
「蓮くん、寒くない?」
「平気だよ。ありがとう」
同い年の男だとわかっているけれど、蓮に対してはついつい世話を焼きたくなってしまう。「万浬、お兄さんみたい」と蓮が笑うから、万浬はぽりぽりと頬をかいた。
「そういえば万浬、さっきドラムの練習してたでしょ」
「音、聴こえてた?」
「うん。新曲だよね、昨日できたばっかりの」
淡い夜色に変わりはじめる空を映した彼の瞳が、瞬く星の光を宿す。きらり、とまるで内から生まれた衝動のかけらが零れるみたいに。万浬は苦笑するようにちいさく笑った。
「蓮くん、歌いたいんでしょ」
ささやくように、けれど確信を持って問いかける。彼が少し目を見開いた。それから、照れたようにはにかむ。
「うん、ちょっとだけ」
「なら俺、クッション叩いてドラムしようか?」
スティックを取ってこようと腰を浮かしかけた万浬に、蓮が「それもいいけど……」と何か言いたげな様子を見せる。万浬は首を傾げてみせた。
「僕、万浬と一緒に歌いたいな」
「え、一緒に?」
「うん。……だめかな?」
おずおずと見上げてくる、夕陽と夜を混ぜ合わせたような色の瞳。万浬は小さく眉を下げた。そんな目をされてしまえば、いつだってもう断ることなどできないのだ。
「いいけど、前も言ったけど俺そんなに歌、得意じゃないよ」
「そんなことない。それに僕、万浬の歌声好きだよ」
まっすぐな言葉に胸の裏側がむずがゆくなる。「しょうがないな」と少し照れの混じった苦笑をもらしつつ、万浬はもう一度蓮の隣に腰を下ろした。
「何の曲にする? やっぱり新曲?」
「うん!」
「じゃ、いくよ──」
万浬は抱えた膝を四回叩く。すう、と息を吸う音が重なって、そして歌がはじまった。
いつもは後ろで聴いている歌声が今はすぐ隣から聴こえること。その歌声に、自分の声が重なること。なんだか不思議な感覚だ。前にライブで一緒に歌ったことがあるけれど、それとも少し違う。
慣れないリズムを紡ぎながら、万浬は隣を窺った。視線に気づいた彼が振り返り、それからにっこりと微笑む。その間も、もちろん歌は止まらない。
澄んだメロディーが、夜のはじまりの涼しい空気を震わせる。夜空をとびかう蛍の光のように無数に散らばる星々にさえ届きそうな、まっすぐな歌声。
ふと、万浬は以前聞いた話を思い出した。合唱部に入っていたという、中学時代の蓮の話。
けれど詳しく聞けたわけではなく、「他の部員との熱量差によって退部した」という大まかな顛末しか知らない。ぬるま湯に馴染めなかった彼の心境も、どんなふうに退部を決意したのかも、何も知らない。
重なって一つになった歌声を紡ぎながら、万浬はもう一度そっと彼を見る。きらきらと瞳を輝かせてて、楽しそうに、嬉しそうに歌う彼を。
蓮が抱える「誰かと一緒に歌いたい」という思いは強くひたむきだ。もはや渇望と呼ぶのがふさわしいほどに。きっと、それが叶えられない期間が長かったからこそのまっすぐな願いなのだろう。
その渇望があったから、今、自分はここにいる。万浬は静かに噛みしめる。
一緒に歌う誰かを求めていた彼が手を引いてくれたから、バンドに入ったのだ。この手を握ってくれたあたたかな力強さを、まだ手のひらに憶えている。
二人ぶんの歌声が弾んで、重なって、ずっと遠くまで響いていく。楽しい、とても。冴えた一番星の光を見つけるような素直さでそう思った。
最後の一音が星明かりを揺らすほどまっすぐに伸びて、それから夜空に溶けていく。
「楽しいね」
振り返った蓮が、光を湛えた瞳で微笑む。万浬も笑って頷いて、「もうちょっと歌っちゃおうか」と悪戯っぽくささやいた。
万浬はスティックを握る手を止めた。ドラムの代わりにしていたクッションを脇に置いて、ペットボトルの水を飲みつつちらりと窓を見やる。さっきまで夕焼け色に染まっていた空には、藍色の夜の気配がにじんでいた。
万浬は両手を突き上げて伸びをすると、ひょいと立ち上がった。スティックをそばのローテーブルに置いて、ベランダへと向かう。
サンダルを引っかけて外に出る。夕方の涼しい風にふわりと髪をなびかせながら、万浬は衝立越しに声をかけた。
「蓮くーん、なにしてるの?」
「万浬。えっと、空の色が綺麗だったから、なんだか外に出てみたくなったんだ」
穏やかな声が応える。顔は見えないけれど、きっといつものように柔らかく微笑んでいるのだろう。まるでつられるように万浬も口許を緩める。
「ねえ、俺もそっち行っていい?」
「うん、もちろん」
大きく頷く姿が目に浮かぶようだ。万浬はベランダから戻り、サンダルを持って隣室へと向かう。
一応ドアをノックして、「入るね」と声をかけてドアを開ける。
青を基調としたシンプルな部屋を通り抜けて、彼のいるベランダへ。「お待たせ」と笑うと、蓮も「うん」と微笑んだ。並んで腰を下ろす。
「だんだん陽が長くなってきたよね〜」
「うん、春だなぁって実感するね。風はまだちょっと冷たいけど」
「蓮くん、寒くない?」
「平気だよ。ありがとう」
同い年の男だとわかっているけれど、蓮に対してはついつい世話を焼きたくなってしまう。「万浬、お兄さんみたい」と蓮が笑うから、万浬はぽりぽりと頬をかいた。
「そういえば万浬、さっきドラムの練習してたでしょ」
「音、聴こえてた?」
「うん。新曲だよね、昨日できたばっかりの」
淡い夜色に変わりはじめる空を映した彼の瞳が、瞬く星の光を宿す。きらり、とまるで内から生まれた衝動のかけらが零れるみたいに。万浬は苦笑するようにちいさく笑った。
「蓮くん、歌いたいんでしょ」
ささやくように、けれど確信を持って問いかける。彼が少し目を見開いた。それから、照れたようにはにかむ。
「うん、ちょっとだけ」
「なら俺、クッション叩いてドラムしようか?」
スティックを取ってこようと腰を浮かしかけた万浬に、蓮が「それもいいけど……」と何か言いたげな様子を見せる。万浬は首を傾げてみせた。
「僕、万浬と一緒に歌いたいな」
「え、一緒に?」
「うん。……だめかな?」
おずおずと見上げてくる、夕陽と夜を混ぜ合わせたような色の瞳。万浬は小さく眉を下げた。そんな目をされてしまえば、いつだってもう断ることなどできないのだ。
「いいけど、前も言ったけど俺そんなに歌、得意じゃないよ」
「そんなことない。それに僕、万浬の歌声好きだよ」
まっすぐな言葉に胸の裏側がむずがゆくなる。「しょうがないな」と少し照れの混じった苦笑をもらしつつ、万浬はもう一度蓮の隣に腰を下ろした。
「何の曲にする? やっぱり新曲?」
「うん!」
「じゃ、いくよ──」
万浬は抱えた膝を四回叩く。すう、と息を吸う音が重なって、そして歌がはじまった。
いつもは後ろで聴いている歌声が今はすぐ隣から聴こえること。その歌声に、自分の声が重なること。なんだか不思議な感覚だ。前にライブで一緒に歌ったことがあるけれど、それとも少し違う。
慣れないリズムを紡ぎながら、万浬は隣を窺った。視線に気づいた彼が振り返り、それからにっこりと微笑む。その間も、もちろん歌は止まらない。
澄んだメロディーが、夜のはじまりの涼しい空気を震わせる。夜空をとびかう蛍の光のように無数に散らばる星々にさえ届きそうな、まっすぐな歌声。
ふと、万浬は以前聞いた話を思い出した。合唱部に入っていたという、中学時代の蓮の話。
けれど詳しく聞けたわけではなく、「他の部員との熱量差によって退部した」という大まかな顛末しか知らない。ぬるま湯に馴染めなかった彼の心境も、どんなふうに退部を決意したのかも、何も知らない。
重なって一つになった歌声を紡ぎながら、万浬はもう一度そっと彼を見る。きらきらと瞳を輝かせてて、楽しそうに、嬉しそうに歌う彼を。
蓮が抱える「誰かと一緒に歌いたい」という思いは強くひたむきだ。もはや渇望と呼ぶのがふさわしいほどに。きっと、それが叶えられない期間が長かったからこそのまっすぐな願いなのだろう。
その渇望があったから、今、自分はここにいる。万浬は静かに噛みしめる。
一緒に歌う誰かを求めていた彼が手を引いてくれたから、バンドに入ったのだ。この手を握ってくれたあたたかな力強さを、まだ手のひらに憶えている。
二人ぶんの歌声が弾んで、重なって、ずっと遠くまで響いていく。楽しい、とても。冴えた一番星の光を見つけるような素直さでそう思った。
最後の一音が星明かりを揺らすほどまっすぐに伸びて、それから夜空に溶けていく。
「楽しいね」
振り返った蓮が、光を湛えた瞳で微笑む。万浬も笑って頷いて、「もうちょっと歌っちゃおうか」と悪戯っぽくささやいた。