CPなし小説
まぶたの向こうに白い光を感じ、航海は目を開けた。ぼやけた視界に映るのはローテーブルの脚とその向こうにはベッド、そして頬に感じるカーペットの感触。また床で寝落ちしてしまったらしい。航海はのろのろと起き上がった。硬い場所で寝ていたせいで肩や首が痛い。ぐるりと肩を回すと鈍い音が鳴った。
カーテンのわずかな隙間から、一筋の朝陽がきらきらと射しこむ。まっさらなその白い光はローテーブルに降りそそぎ、そしてそこに広げられたノートの上で砕け散っていた。
ページに溢れるのは、とうてい歌詞には程遠い言葉のかけらと、ぐちゃぐちゃに引いた線と消しゴムの黒い跡だけ。夜中にひとり、うんうんと唸りながら思い浮かべようとしたイメージは霧のようにぼやけていて、絞り出そうとした言葉はただの単語の羅列にしかならなかった。思わずため息がこぼれる。
とりあえず、階下におりて水でも飲んでこよう。時計を見ればまだ七時を少し過ぎたところだった。土曜日だから大学もないけれど、ほかのメンバーはもう起きているだろうか。
階段をおり、キッチンに向かうところで、洗面所から出てきた蓮と出くわした。
「あ、おはよう、航海」
にっこりと微笑む蓮に、「おはよ」と返す。
「早いね。今日は昼からスタジオ練があるほかに予定はないんじゃなかった?」
「そうなんだけど、今日は僕がお散歩係だから」
「ああ、そっか」
そのとき開けっぱなしのリビングのドアからぽんちゃんが顔を覗かせた。きっと「お散歩」の言葉に反応したのだろう。どことなくそわそわとして見える子犬の顔に、航海も蓮も揃って頬を緩めた。
「ねえ。散歩、僕も一緒に行っていい?」
尋ねると、少し驚いたみたいに瞬きをした蓮は、それから顔を輝かせて頷いた。
「うん、もちろん!」
手早く着替えて支度をし、玄関のドアを開ける。すでに準備を終えていた蓮がぽんちゃんと一緒に振り返った。
「あ、髪おろしたままだ」
髪を指差してみせる蓮に、航海は少し苦笑する。
「ぽんちゃんが早く散歩に行きたそうだったから急いだんだ」
「そうなんだ。よかったね、ぽんちゃん」
蓮がぽんちゃんの頭を撫でると、ぽんちゃんは嬉しそうに「ワン!」と鳴いた。そして、待ちきれないというようにリードを引っぱって弾むように駆けだす。航海も蓮と一緒に朝陽の降る世界へと踏みだした。
住宅街はまだひっそりと静かで、けれど眠りから覚めつつあるような覚醒の気配が色濃く漂っている。はじまりを感じさせる空気だ、と思う。深呼吸すると、胸いっぱいに清潔な匂いが満ちた気がした。
「まっさらな空気が気持ちいいな」
「うん、朝の匂いだね」
くんくんと鼻を鳴らしながら蓮が笑う。なんだか犬みたいだ。そう思うと同時にぽんちゃんもフンフンと鼻を動かしているのが見えて、思わず吹き出してしまった。
「ねえ、航海」
「ん?」
電柱の匂いを一生懸命に嗅ぐぽんちゃんを待って立ち止まっているとき、ふと蓮に呼ばれた。航海は蓮を振り返る。
「今、歌詞を書いてるんでしょ?」
「え、なんで知ってるの?」
桔梗から出来上がったばかりの楽譜をもらったのは昨日の夕方で、そのことはまだ誰にも話していないはずなのに。意表を突かれて、航海は目を丸くする。
「航海が起きてくる前、凛生が教えてくれたんだ。良い曲が書けたから、歌詞があがってくるのが楽しみだって言ってた」
「……それで、桔梗は?」
「いつもどおりランニングだよ。すがすがしい気分で走れそうだからちょっと遠回りしようかなって笑ってた」
「余裕綽々だな、あいつ」
苦々しい気分で呟く。蓮がすこし困ったように眉を下げた。たぶん、二人がまた喧嘩になったらどうしよう、と心配しているのだろう。いいかげん慣れてくれてもいいのに、と思う反面、そういうところが蓮らしいとも思う。
「……歌詞、ちょっと行き詰まってるんだよね」
両手を前に突きだして伸びをしてみせながら、航海はなるべくさりげなく言った。朝らしい涼しい風が腕をそっと撫でる。
「そうなの?」
蓮が、急に歩きだしたぽんちゃんの後を引っぱられるように追いかけながら、振り返って航海を見た。自転車が二人のわきを通りすぎていく。かすかな風を頬に感じた。
「イメージが湧かないっていうか。なにか、こう、モチーフにするものとかが決まればインスピレーションも湧くかもしれないけど……」
ゆっくりと蓮の背中を追いかけながら、思い浮かべるのはぐちゃぐちゃなままのノートのページだ。言葉にならない単語の羅列。どこにも繋がらない矢印。黒い消し跡。
「なら、探しに行こうよ。モチーフになりそうなもの」
前を歩く蓮が微笑んだ。
「え?」
「一緒に散歩しているうちに、見つかるかもしれないでしょ?」
「でも、遠回りになるかもしれないよ? 帰るのが遅くなるかも」
苦笑する航海に、それでも蓮は小さく首を振った。ふわふわした髪が風に吹かれるように揺れる。
「結人と万浬は昨日遅くまでバイトだったからまだ起きてこないはずだし、凛生も遠くまでランニングに行ってるし、だからちょっとくらい遅くなっても大丈夫だよ」
それに、と言いながら、蓮が航海の顔を覗きこんだ。とっておきの宝物を教えてくれるみたいな瞳をしていた。
「遠回りだって楽しいものでしょ?」
「……うん、そうだった」
まっすぐな目を見つめながら、航海はふっと微笑んだ。
「じゃあ一緒にモチーフを探してくれる?」
「うん!」
白く淡い朝陽のなかで蓮が大きく頷いた。
「キャン!」
まるで蓮を真似て返事をしたみたいに鳴いたぽんちゃんを見やれば、そばにある公園の植え込みのすきまに顔を突っ込んでいるところだった。どうやらなにかの匂いを熱心に嗅いでいるようだ。少し上を向いて尻尾を振るぽんちゃんの背後から覗きこめば、そこには北海道では見たことのない深紅の花がある。
「これ、花なのかな? 昨日散歩してるときは見なかった気がする」
蓮が首を傾げる。
「うーん、たぶん彼岸花っていう花かな? 僕も実物を見たことないから自信はないけど……」
「ひがんばな?」
ぽんちゃんの横にしゃがみ込んだ蓮が、複雑に入り組んだような形をした赤色を指先でつつく。葉のないまっすぐな茎がふらふらと揺れた。
航海は検索アプリに『彼岸花』と打ち込んだ。一瞬の間のあと、パッと表示された赤い花の画像は目の前のものとそっくりだった。
「あ、やっぱり彼岸花だって」
ほら、と蓮にも画像を見せる。
「へえ、東京にはこんな花があるんだね。きれいだけど、ずっと見てるとなんだか怖いね」
「たしかに。そうだな……夜、暗闇のなかで薄い月明かりに照らされた彼岸花とか、ちょっとまがまがしく見えそうかも。その名の通り、異界へとつづく道標みたいで」
「モチーフになるかな?」
「ええ?」
「タイトルは……『紅の彼岸花』とか?」
「それ、ファントムの『銀の百合』に似てない?」
笑いながら指摘する。蓮も「あ、本当だ」と少し驚いたように笑った。
「あ、でもダメだ。彼岸花、根に毒があるんだって」
スマホに表示された文章を読みつつ、航海は眉を寄せる。蓮があわてたようにぽんちゃんを抱き上げた。腕の中のぽんちゃんはきょとんとしている。
「そうなの?」
「うん。だからアルゴナビスの歌には合わないな」
『死』を連想させる名前も、少しおどろおどろしい見た目も、毒性も、寓話性が高くてモチーフとしては面白い。けれど、アルゴナビスの歌として蓮に歌わせるには少し違う。航海はきっぱりと言い切りながら立ち上がった。
「そっか」
それに倣うように蓮も腰をあげる。地面に下ろされたぽんちゃんは、早く行こう、とでも言うようにリードをくいくいと引っ張りつつ「キャン!」と元気に鳴いた。
「朝はもう風が涼しいね」
住宅街を通り抜けるほのかな風におろしたままの髪をそよがせながら、航海は宙を見上げた。
「うん、昼間も少しずつ暑くなくなってきてる。ついこの前まではまだ夏だと思ってたのに」
同じように首を上向けた蓮は、少し名残惜しそうな目をしていた。眩しそうに細められた目のなかで、朝の光がちいさく瞬く。
「あ、月」
細められていた目がぱっと大きくなる。航海ももう一度空へと視線を移した。立ち並ぶ家々の遥か上、西の空に、白い半月が浮かんでいる。
「ほんとだ。有明の月ってやつだね。空に溶けていくような儚さもあり、でも空に染まらない凛とした強さもあって、きれいだね」
ふと頬のあたりに視線を感じ、航海は振り返った。
「どうしたの、蓮」
「うん、航海にはそういうふうに見えてるんだなって思って」
「え?」
「モチーフになりそう?」
「うーん……今までは星をモチーフにすることが多かったし、今度は月にしてみるのも面白いかもしれないけど……」
青く輝く朝の空のなかで、ぽつりと浮かぶ白い月。朝日のようにすべてを圧倒するエネルギーはないけれど、静謐な威厳をたたえたその姿もまた孤高なのだと思う。蓮の歌には合いそうだ。
「でも、桔梗からもらった曲とはちょっとイメージが違うかも」
「そっか。じゃあもうちょっと探してみようよ」
「ごめんね」
「ううん、楽しいよ。それに僕が言い出したことだよ」
ぽんちゃんのちいさな頭をくりくりと撫でながら、蓮は何でもなさげに言う。
「ぽんちゃんも付き合ってくれてありがと」
航海も一緒に背中を撫でる。二人に構われて、ぽんちゃんはきらきらと目を輝かせながら忙しなく尻尾を振った。
涼しく透き通っていた空気を朝日があたためていくにつれて、静かだった街にも少しずつ活気が漲りはじめている。家の中で人が動く気配がする、ゴミ出しに出てくる人がいる、車通りが少しだけ増える。ふと通りすぎた家からいい匂いがふわりと漂ってきて鼻をくすぐった。
「お醤油の匂いかな?」
隣で蓮が鼻を鳴らす。
「そうかも。でも、知らない家のご飯の匂いって、あたたかいんだけどなんだかちょっとだけ切なくなるよね。胸の奥の方を小さく掴まれるみたいっていうか。自分には介入できない世界がすぐそこにあることを思い知らされるからなのかな」
じっと見つめる蓮の視線に気づいて、航海は頬をかいた。少し喋りすぎたかもしれない。じわじわと気恥ずかしさがこみ上げてくる。
「……今日の朝ごはん当番、誰だっけ」
ごまかすように話題を変えた。
「あ、えっと、万浬だったかな? でも昨日の凛生のカレーがまだたくさんあるから、それを朝ごはんにするって言ってた」
「なるほどね」
桔梗はいつも鍋いっぱいにカレーを作る。いくら男子大学生五人で食べるとはいえ多すぎるのだけれど、こうして翌朝の朝食にもなるから、万浬もよっぽどでなければ注意はしない。それになんと言っても、一晩寝かせたカレーは具材に味がよく染みこんでいてよりいっそう美味しいのだ。悔しいから本人に言ったことはないけれど。
「ちょっとお腹が減ってきちゃったね」
航海はお腹をおさえる。「実は、僕も」と蓮もはにかんだ。
「もう帰ろうか」
言いつつ、両腕を上げて伸びをしてみせる。
「せっかく付き合ってもらったのに、ごめん」
「僕こそごめんね。いいモチーフ、ぜんぜん見つけられなかった」
「そんなことないよ」と航海は言おうとして、けれどそれより先に「でも」と蓮が笑った。
「航海と散歩できてよかった。航海の見ている景色と航海が書く歌詞のこと、ちょっと知れた気がするから」
「え?」
腕をおろす途中の不格好なポーズのまま、航海は蓮を振り返った。
「きれいな言葉が好きで、きれいな歌詞を書く航海はどういうふうな世界を見ているのかなってずっと知りたかったんだ。やっぱり、同じものを見ていても僕とは違う見方や感じ方をしてるんだね」
「当たり前なんだけどね」と蓮は少し照れくさそうに肩をすくめた。ゆっくりと歩きはじめた彼の背中を、航海も静かに追いかけて、隣に並ぶ。涼しい風がTシャツの裾を小さく膨らませる。
「なのに、航海の書いた歌詞を歌うとまるで自分の気持ちみたいにしっくりくる。それってなんでだろうって思ってたんだけど、航海がアルゴナビスのことをたくさん考えてくれてるからなんだね」
「そんなの、当然でしょ」
航海は苦笑した。アルゴナビスの曲を作るのだから、アルゴナビスらしさや、桔梗の曲との調和、蓮の歌声で紡がれることを考えるのは当然であり、必要不可欠なことだ。意識したことすらないほどに。
「うん。嬉しい」
本当に心の底から嬉しそうに、蓮は目を細めて微笑んだ。透きとおった眩い光が頬のうえできらめいている。
同じ朝陽をうけながら、航海は頬にほのかなぬくもりを感じた。じわじわと沁みるように浸透していくそれはやがて胸の奥まであたためる。
「僕も、同じだよ」
ぽろりと唇から言葉がこぼれた。
自分の書いた歌詞が、蓮の声で歌になり、アルゴナビスの曲になること。それだけでも嬉しいのに、書いた歌詞を自分の気持ちだと思ってくれるなんて。
それはまるで、違う瞳を通して同じものを見るような奇跡に違いない。
「僕も、蓮が歌ってくれて嬉しい」
まっすぐな瞳を同じように見返しながら、航海は微笑んだ。
「歌詞にしたいこと、見つかったかも」
「ほんと?」
蓮がパッと顔を輝かせる。航海はゆっくりと頷いてみせた。
「うん。いい歌詞書くから、楽しみにしてて」
カーテンのわずかな隙間から、一筋の朝陽がきらきらと射しこむ。まっさらなその白い光はローテーブルに降りそそぎ、そしてそこに広げられたノートの上で砕け散っていた。
ページに溢れるのは、とうてい歌詞には程遠い言葉のかけらと、ぐちゃぐちゃに引いた線と消しゴムの黒い跡だけ。夜中にひとり、うんうんと唸りながら思い浮かべようとしたイメージは霧のようにぼやけていて、絞り出そうとした言葉はただの単語の羅列にしかならなかった。思わずため息がこぼれる。
とりあえず、階下におりて水でも飲んでこよう。時計を見ればまだ七時を少し過ぎたところだった。土曜日だから大学もないけれど、ほかのメンバーはもう起きているだろうか。
階段をおり、キッチンに向かうところで、洗面所から出てきた蓮と出くわした。
「あ、おはよう、航海」
にっこりと微笑む蓮に、「おはよ」と返す。
「早いね。今日は昼からスタジオ練があるほかに予定はないんじゃなかった?」
「そうなんだけど、今日は僕がお散歩係だから」
「ああ、そっか」
そのとき開けっぱなしのリビングのドアからぽんちゃんが顔を覗かせた。きっと「お散歩」の言葉に反応したのだろう。どことなくそわそわとして見える子犬の顔に、航海も蓮も揃って頬を緩めた。
「ねえ。散歩、僕も一緒に行っていい?」
尋ねると、少し驚いたみたいに瞬きをした蓮は、それから顔を輝かせて頷いた。
「うん、もちろん!」
手早く着替えて支度をし、玄関のドアを開ける。すでに準備を終えていた蓮がぽんちゃんと一緒に振り返った。
「あ、髪おろしたままだ」
髪を指差してみせる蓮に、航海は少し苦笑する。
「ぽんちゃんが早く散歩に行きたそうだったから急いだんだ」
「そうなんだ。よかったね、ぽんちゃん」
蓮がぽんちゃんの頭を撫でると、ぽんちゃんは嬉しそうに「ワン!」と鳴いた。そして、待ちきれないというようにリードを引っぱって弾むように駆けだす。航海も蓮と一緒に朝陽の降る世界へと踏みだした。
住宅街はまだひっそりと静かで、けれど眠りから覚めつつあるような覚醒の気配が色濃く漂っている。はじまりを感じさせる空気だ、と思う。深呼吸すると、胸いっぱいに清潔な匂いが満ちた気がした。
「まっさらな空気が気持ちいいな」
「うん、朝の匂いだね」
くんくんと鼻を鳴らしながら蓮が笑う。なんだか犬みたいだ。そう思うと同時にぽんちゃんもフンフンと鼻を動かしているのが見えて、思わず吹き出してしまった。
「ねえ、航海」
「ん?」
電柱の匂いを一生懸命に嗅ぐぽんちゃんを待って立ち止まっているとき、ふと蓮に呼ばれた。航海は蓮を振り返る。
「今、歌詞を書いてるんでしょ?」
「え、なんで知ってるの?」
桔梗から出来上がったばかりの楽譜をもらったのは昨日の夕方で、そのことはまだ誰にも話していないはずなのに。意表を突かれて、航海は目を丸くする。
「航海が起きてくる前、凛生が教えてくれたんだ。良い曲が書けたから、歌詞があがってくるのが楽しみだって言ってた」
「……それで、桔梗は?」
「いつもどおりランニングだよ。すがすがしい気分で走れそうだからちょっと遠回りしようかなって笑ってた」
「余裕綽々だな、あいつ」
苦々しい気分で呟く。蓮がすこし困ったように眉を下げた。たぶん、二人がまた喧嘩になったらどうしよう、と心配しているのだろう。いいかげん慣れてくれてもいいのに、と思う反面、そういうところが蓮らしいとも思う。
「……歌詞、ちょっと行き詰まってるんだよね」
両手を前に突きだして伸びをしてみせながら、航海はなるべくさりげなく言った。朝らしい涼しい風が腕をそっと撫でる。
「そうなの?」
蓮が、急に歩きだしたぽんちゃんの後を引っぱられるように追いかけながら、振り返って航海を見た。自転車が二人のわきを通りすぎていく。かすかな風を頬に感じた。
「イメージが湧かないっていうか。なにか、こう、モチーフにするものとかが決まればインスピレーションも湧くかもしれないけど……」
ゆっくりと蓮の背中を追いかけながら、思い浮かべるのはぐちゃぐちゃなままのノートのページだ。言葉にならない単語の羅列。どこにも繋がらない矢印。黒い消し跡。
「なら、探しに行こうよ。モチーフになりそうなもの」
前を歩く蓮が微笑んだ。
「え?」
「一緒に散歩しているうちに、見つかるかもしれないでしょ?」
「でも、遠回りになるかもしれないよ? 帰るのが遅くなるかも」
苦笑する航海に、それでも蓮は小さく首を振った。ふわふわした髪が風に吹かれるように揺れる。
「結人と万浬は昨日遅くまでバイトだったからまだ起きてこないはずだし、凛生も遠くまでランニングに行ってるし、だからちょっとくらい遅くなっても大丈夫だよ」
それに、と言いながら、蓮が航海の顔を覗きこんだ。とっておきの宝物を教えてくれるみたいな瞳をしていた。
「遠回りだって楽しいものでしょ?」
「……うん、そうだった」
まっすぐな目を見つめながら、航海はふっと微笑んだ。
「じゃあ一緒にモチーフを探してくれる?」
「うん!」
白く淡い朝陽のなかで蓮が大きく頷いた。
「キャン!」
まるで蓮を真似て返事をしたみたいに鳴いたぽんちゃんを見やれば、そばにある公園の植え込みのすきまに顔を突っ込んでいるところだった。どうやらなにかの匂いを熱心に嗅いでいるようだ。少し上を向いて尻尾を振るぽんちゃんの背後から覗きこめば、そこには北海道では見たことのない深紅の花がある。
「これ、花なのかな? 昨日散歩してるときは見なかった気がする」
蓮が首を傾げる。
「うーん、たぶん彼岸花っていう花かな? 僕も実物を見たことないから自信はないけど……」
「ひがんばな?」
ぽんちゃんの横にしゃがみ込んだ蓮が、複雑に入り組んだような形をした赤色を指先でつつく。葉のないまっすぐな茎がふらふらと揺れた。
航海は検索アプリに『彼岸花』と打ち込んだ。一瞬の間のあと、パッと表示された赤い花の画像は目の前のものとそっくりだった。
「あ、やっぱり彼岸花だって」
ほら、と蓮にも画像を見せる。
「へえ、東京にはこんな花があるんだね。きれいだけど、ずっと見てるとなんだか怖いね」
「たしかに。そうだな……夜、暗闇のなかで薄い月明かりに照らされた彼岸花とか、ちょっとまがまがしく見えそうかも。その名の通り、異界へとつづく道標みたいで」
「モチーフになるかな?」
「ええ?」
「タイトルは……『紅の彼岸花』とか?」
「それ、ファントムの『銀の百合』に似てない?」
笑いながら指摘する。蓮も「あ、本当だ」と少し驚いたように笑った。
「あ、でもダメだ。彼岸花、根に毒があるんだって」
スマホに表示された文章を読みつつ、航海は眉を寄せる。蓮があわてたようにぽんちゃんを抱き上げた。腕の中のぽんちゃんはきょとんとしている。
「そうなの?」
「うん。だからアルゴナビスの歌には合わないな」
『死』を連想させる名前も、少しおどろおどろしい見た目も、毒性も、寓話性が高くてモチーフとしては面白い。けれど、アルゴナビスの歌として蓮に歌わせるには少し違う。航海はきっぱりと言い切りながら立ち上がった。
「そっか」
それに倣うように蓮も腰をあげる。地面に下ろされたぽんちゃんは、早く行こう、とでも言うようにリードをくいくいと引っ張りつつ「キャン!」と元気に鳴いた。
「朝はもう風が涼しいね」
住宅街を通り抜けるほのかな風におろしたままの髪をそよがせながら、航海は宙を見上げた。
「うん、昼間も少しずつ暑くなくなってきてる。ついこの前まではまだ夏だと思ってたのに」
同じように首を上向けた蓮は、少し名残惜しそうな目をしていた。眩しそうに細められた目のなかで、朝の光がちいさく瞬く。
「あ、月」
細められていた目がぱっと大きくなる。航海ももう一度空へと視線を移した。立ち並ぶ家々の遥か上、西の空に、白い半月が浮かんでいる。
「ほんとだ。有明の月ってやつだね。空に溶けていくような儚さもあり、でも空に染まらない凛とした強さもあって、きれいだね」
ふと頬のあたりに視線を感じ、航海は振り返った。
「どうしたの、蓮」
「うん、航海にはそういうふうに見えてるんだなって思って」
「え?」
「モチーフになりそう?」
「うーん……今までは星をモチーフにすることが多かったし、今度は月にしてみるのも面白いかもしれないけど……」
青く輝く朝の空のなかで、ぽつりと浮かぶ白い月。朝日のようにすべてを圧倒するエネルギーはないけれど、静謐な威厳をたたえたその姿もまた孤高なのだと思う。蓮の歌には合いそうだ。
「でも、桔梗からもらった曲とはちょっとイメージが違うかも」
「そっか。じゃあもうちょっと探してみようよ」
「ごめんね」
「ううん、楽しいよ。それに僕が言い出したことだよ」
ぽんちゃんのちいさな頭をくりくりと撫でながら、蓮は何でもなさげに言う。
「ぽんちゃんも付き合ってくれてありがと」
航海も一緒に背中を撫でる。二人に構われて、ぽんちゃんはきらきらと目を輝かせながら忙しなく尻尾を振った。
涼しく透き通っていた空気を朝日があたためていくにつれて、静かだった街にも少しずつ活気が漲りはじめている。家の中で人が動く気配がする、ゴミ出しに出てくる人がいる、車通りが少しだけ増える。ふと通りすぎた家からいい匂いがふわりと漂ってきて鼻をくすぐった。
「お醤油の匂いかな?」
隣で蓮が鼻を鳴らす。
「そうかも。でも、知らない家のご飯の匂いって、あたたかいんだけどなんだかちょっとだけ切なくなるよね。胸の奥の方を小さく掴まれるみたいっていうか。自分には介入できない世界がすぐそこにあることを思い知らされるからなのかな」
じっと見つめる蓮の視線に気づいて、航海は頬をかいた。少し喋りすぎたかもしれない。じわじわと気恥ずかしさがこみ上げてくる。
「……今日の朝ごはん当番、誰だっけ」
ごまかすように話題を変えた。
「あ、えっと、万浬だったかな? でも昨日の凛生のカレーがまだたくさんあるから、それを朝ごはんにするって言ってた」
「なるほどね」
桔梗はいつも鍋いっぱいにカレーを作る。いくら男子大学生五人で食べるとはいえ多すぎるのだけれど、こうして翌朝の朝食にもなるから、万浬もよっぽどでなければ注意はしない。それになんと言っても、一晩寝かせたカレーは具材に味がよく染みこんでいてよりいっそう美味しいのだ。悔しいから本人に言ったことはないけれど。
「ちょっとお腹が減ってきちゃったね」
航海はお腹をおさえる。「実は、僕も」と蓮もはにかんだ。
「もう帰ろうか」
言いつつ、両腕を上げて伸びをしてみせる。
「せっかく付き合ってもらったのに、ごめん」
「僕こそごめんね。いいモチーフ、ぜんぜん見つけられなかった」
「そんなことないよ」と航海は言おうとして、けれどそれより先に「でも」と蓮が笑った。
「航海と散歩できてよかった。航海の見ている景色と航海が書く歌詞のこと、ちょっと知れた気がするから」
「え?」
腕をおろす途中の不格好なポーズのまま、航海は蓮を振り返った。
「きれいな言葉が好きで、きれいな歌詞を書く航海はどういうふうな世界を見ているのかなってずっと知りたかったんだ。やっぱり、同じものを見ていても僕とは違う見方や感じ方をしてるんだね」
「当たり前なんだけどね」と蓮は少し照れくさそうに肩をすくめた。ゆっくりと歩きはじめた彼の背中を、航海も静かに追いかけて、隣に並ぶ。涼しい風がTシャツの裾を小さく膨らませる。
「なのに、航海の書いた歌詞を歌うとまるで自分の気持ちみたいにしっくりくる。それってなんでだろうって思ってたんだけど、航海がアルゴナビスのことをたくさん考えてくれてるからなんだね」
「そんなの、当然でしょ」
航海は苦笑した。アルゴナビスの曲を作るのだから、アルゴナビスらしさや、桔梗の曲との調和、蓮の歌声で紡がれることを考えるのは当然であり、必要不可欠なことだ。意識したことすらないほどに。
「うん。嬉しい」
本当に心の底から嬉しそうに、蓮は目を細めて微笑んだ。透きとおった眩い光が頬のうえできらめいている。
同じ朝陽をうけながら、航海は頬にほのかなぬくもりを感じた。じわじわと沁みるように浸透していくそれはやがて胸の奥まであたためる。
「僕も、同じだよ」
ぽろりと唇から言葉がこぼれた。
自分の書いた歌詞が、蓮の声で歌になり、アルゴナビスの曲になること。それだけでも嬉しいのに、書いた歌詞を自分の気持ちだと思ってくれるなんて。
それはまるで、違う瞳を通して同じものを見るような奇跡に違いない。
「僕も、蓮が歌ってくれて嬉しい」
まっすぐな瞳を同じように見返しながら、航海は微笑んだ。
「歌詞にしたいこと、見つかったかも」
「ほんと?」
蓮がパッと顔を輝かせる。航海はゆっくりと頷いてみせた。
「うん。いい歌詞書くから、楽しみにしてて」