CPなし小説

「蛍まつり?」
 小首を傾げて問い返す蓮に、万浬は「うん」と頷く。手のひらの中の、牛乳の入ったグラスがうっすらと汗ばんでいた。
「教養科目の授業で、地域で行われる催しに行ってレポートを書かなくちゃいけなくて」
「うん」
 ソファに二人で並んで座るなんていつものことなのに、なぜか今はとても近く感じてしまう。すぐ隣から見つめてくるまっすぐな視線がなんだか妙に気恥ずかしくて、万浬は少しグラスに口をつけた。牛乳の甘さが唇を濡らす。
「だから、同じ区内で開催される蛍まつりに行ってみようと思うんだけど……一緒に行ってくれない?」
 蓮の目を見ることが、なぜかとても勇気がいることだった。おかしい。遊びに誘うことなんてよくあるし、そのときはもっとさらっと言葉にできていたはずなのに。万浬は蓮から少し目を逸らした。
「うん、いいよ。行きたい」
 朗らかな声音で蓮が頷く。きらきらと輝く紫の瞳をもう一度そっと見て、万浬は安堵の笑みをこぼした。

 もうすぐ六時だというのに、太陽は西の空の高いところにいまだ悠然と浮かんでいた。万浬は目をすがめる。まだ夕陽とは呼べないほど鮮やかな光を放っているから、肌にまとわりつく空気は昼間と変わらずべっとりと暑い。鬱陶しいばかりだった梅雨も明けて、空の色もこれからはじまる夏を滲ませたような濃い青色をしている。
「蓮くん、大丈夫?」
 隣を歩く彼はたしか陽射しに弱い。家を出るときに航海から帽子をかぶせられているとはいえ、やっぱり少し心配だ。顔を覗きこむと、蓮はにっこりと笑った。
「うん、大丈夫だよ。水分補給もしてるし」
「そっか。なら良かった」
 蛍まつりの会場と最寄りの駅の距離はだいたい徒歩十分らしい。授業でもらったチラシを調べつつ熱のこもったアスファルトを歩いていく。
「それにしても、東京でも蛍って見られるんだね」
 万浬の手のなかのチラシを隣から覗きながら蓮が言う。
「うん。この祭りのために地域の人たちが育ててるんだって」
「子どもたちに蛍を見せたいから、って書いてある。すごいなあ」
 無邪気な笑顔につられて、万浬も思わず頬が緩んだ。
「万浬は蛍って見たことある?」
「うん。小さい頃に家族みんなで見に行ったよ。ほら、函館にも蛍が見られるって有名な公園があったでしょ」
「うん、夏になると毎年学校でチラシが配られてたよね」
 額にうっすらと滲んだ汗を手の甲で拭って、蓮が頷く。
「大変だったよー、弟が迷子になっちゃってさ。蛍そっちのけで家族みんなで探しまわってた」
「え……」
 心配そうに顔を曇らせる彼に、万浬は苦笑しつつ「まあ、すぐに見つかったんだけどね」と軽く片手を振ってみせる。蓮はほっと眉を下げた。彼が寄越す素直な反応は、いつも心の底をやわくくすぐる。
「蓮くんは? 有名な公園だし、行ったことある?」
「えっと、僕は……」
 ふと、蓮の瞳に影がさした気がした。頭上を鳥が横切るような、ほんの一瞬だけの影。名前を呼びかけようと万浬が口を開いたとき、蓮がパッと宙を見上げた。
「ねぇ、なにか音楽が聴こえるよ」
 そう言って腕を掴んでくる彼の瞳はきらきらと輝いていて、さっきの影はどこにも見当たらなかった。気のせいだったのだろうか。内心首を捻りながら、万浬も耳を澄ませてみる。祭囃子が聴こえてきた。蒸し暑い夕方の空気に溶けるその音は、賑やかながらもどこかもの寂しさを感じさせる。
「和太鼓の音もしてる」
 掴んだ腕をかるく引っ張る蓮に、万浬は「慌てると危ないよ」と苦笑した。
 祭りの会場は昔ながらの日本庭園と邸宅を保有する広い公園だ。駐車場や公園に面した道路では出店やら笛や太鼓の演奏やらが行われていて、あちこちから上がる賑やかな歓声が夕暮れの空に吸い込まれていく。
 蛍がいるのは公園の奥まった場所にある日本庭園らしい。春は桜が、秋は紅葉が見事だと有名なその庭は、夏の今は青々とした木々の葉が輝いていた。べとりと蒸し暑い空気をわずかにかき混ぜる風が、頭上の葉を揺らしてささやかな音を立てる。
「蛍、どのあたりにいるのかな」
 蓮がきょろきょろと庭を見回した。
「もうちょっと奥の池のあたりらしいよ」
「そっか」
 ちょうど日も沈みかけて、あたりは少しずつ夜の色に染まりつつあった。木々が落とす影と空の色が同じになり、やがて溶けあう。ずいぶんと奥まで来たせいで、祭囃子ももう遠かった。
 さっきの、蓮の瞳をよぎった影を思い出す。ただの気のせいだったかもしれない。けれど、気のせいじゃないなら訳を知りたい。それでもなんと切り出せばいいか、わからない。万浬は隣を歩く蓮をちらりと見やった。右斜め上にある涼やかな瞳は、今はどこか遠くを見つめるような色合いをしていた。
「あっ、万浬、あそこ!」
 ふいに蓮が振り返る。万浬は突かれたように跳ね上がる心臓をなんとか宥めつつ、蓮が指さした先に視線を向ける。
「あ、蛍」
 そこにはまるで一番星のようにひとつだけ光る蛍がいた。池のそばの植え込みにとまっているのだろう、そっとゆるやかな点滅を繰り返している。
「一匹だけだね。仲間はいないのかな……」
 ぽつり、と蓮が呟いた。静謐で、けれどどこか透きとおったような冷涼さをまとった声だった。
 小石でも落ちたのか、鏡のようだった池の水面がかすかに揺れる。ひとつだけの蛍の光が心もとなく滲む。
「仲間ならきっとすぐ来るよ。だってそのために光ってるんだし」
 万浬はわざと明るい声を出した。
「さっき、家族で蛍を見に行ったときに弟が迷子になったって言ったでしょ。そのとき俺も蛍みたいに光れたらいいのにって思ったんだ。そしたら弟の目印になれるでしょ?」
 今思えば子どもの発想だよね、と笑ってみせる。蓮もふふっ、と頬をゆるめた。
「前に和太鼓の話をしたときも似たことを言ってたよね。弟たちが迷子にならないように、力いっぱい大きな音をだしてたって」
「ああ、そうだったっけ」
「万浬はすごいね。見つけてもらうために、ちゃんと光ることができる」
 蛍の灯す小さな光が、うすい宵闇に溶けるようにすっと消えた。青い紅葉の木影で立ちどまる二人の前を、ほかの見物人たちが通りすぎていく。万浬は小さく口をなめた。
「……蓮くんは蛍、見たことある?」
 思い切って言葉を発する。どうしても彼の顔は見られなかったが、白いシャツから伸びる彼の腕が強張ったのはわかった。
「ううん、ないよ。……中学生のとき、合唱部の部員たちが部活を休んであの公園まで蛍を見に行ってた。学校に行ったらだれもいなくて、だからひとりで歌ってた」
 平坦で静かな声だった。だからこそ胸の奥を掴まれるようだった。万浬はこぶしを握りしめる。
 唐突に、万浬は理解した。なぜこの蛍まつりに蓮を誘ったとき、がらにもなく少し緊張したていたのか、を。それはつまり、なぜ蛍を蓮と見たいと思ったのかでもあった。
「だったら、蓮くんだって光ってるんじゃん。ひとりでだってずっと歌ってたから、結人くんと航海くんが見つけられたんでしょ」
 なんでもないことのように聞こえるように、万浬はただ前だけを見ながら言う。両腕を前に突き出して伸びもしてみせる。なるべくさらりと言いたかった。大切で、当然のことだからこそ。
 ひとつだけだった蛍の光は、いつのまにか二つ、三つと増えていた。藍色に暮れた宙をすっとすべるように飛ぶ小さな光はまるで流れ星のようだ。いるべき場所を探して飛び交い、そして集う流れ星たち。
 蓮がふ、と息を吐いた。かすかで、けれどなにかがほどけるような響きをしていた。
「うん。ありがとう万浬」
 微笑む彼の少し細められた瞳のなかを、黄色い光がよぎる。
「蛍、きれいだね」
「うん」
 二人は顔を見合わせて微笑んだ。
 木陰を出てまた歩きだす。いまや満天の星空のように瞬きだした蛍の光につられたように、見物人の数も徐々に増えつつある。
「蓮くん、はぐれないでね」
 とは言いつつ、もしはぐれたとしてもすぐに彼を見つけられるだろうことは知っていた。祈るでも信じるでもなく、ただ『蛍は光る』というのと同じような確かさで、知っているのだった。
「うん。でもたぶん、もしはぐれてもすぐ万浬を見つけられると思う」
 少しはにかむように蓮が言う。夏の夜のなまぬるい風が彼の瑠璃色の髪をなびかせて、それがとても清々しい。万浬は目を細めて笑った。
「ねぇ、帰ったらなにか歌ってよ」
 万浬は蓮の顔を覗きこむ。蓮が「どうしたの急に」と笑う。
「じゃあ万浬も一緒に歌おうよ。僕、久しぶりに万浬の歌が聴きたい」
「ええ〜、仕方ないなぁ」
 並んで歩いていくうちに、また祭囃子が鮮やかに聴こえだした。太鼓と笛の音が夜に染まった空気をふるわせ、人々の歓声と溶け合って空に響く。ふと見上げた夜空には、黄色にも白にも見える小さな星たちが燦然と瞬いていた。
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