CPなし小説

 布団をはね除けて結人はとび起きた。
 息が荒い。額にはうすく汗が滲んでいる。久しぶりにあの夢を見た。結人はゆっくりと自分の両手を見つめた。じっとりと汗ばんだ、なにも持っていない両手を。
 夢の中で、結人はギターを弾いていた。あの海を映したようなレスポールではなく、アコースティックギターを、狭いアパートの一室で。誰にも届かない、誰にも必要とされない音は降ったそばから溶けてゆく淡雪のようにはかなく消える。音を鳴らしていた右手を力なく結ぶ。やるせなさに咆哮することもできないまま、ただただ静かに項垂れるしかない。
 そんな夢だった。もう何度も見た夢だ。それでも追想した感覚や感情は褪せることなくいつだって鮮明で。夢の中でそうしたように、結人はうすい自嘲を浮かべながら項垂れた。



 教養科目の授業中、日本遺産の歴史について話す教授の声を聞き流しながら結人は大きなあくびをこぼした。夢見が悪かったのとあの後いくら寝ようとしても寝られなかったのとで目蓋がひどく重い。
 それにしても、今日は文学部共通の必修科目がなくてよかった。落ち着いた深い藍色の髪が見えないことに少し安堵して、同時に少し自己嫌悪する。でもやっぱり、今はあまり彼の顔をまっすぐ見られる自信がなかった。
 もうなんともないはずなのになあ。胸の内で呟いて、結人は静かに目を伏せた。今は新しく大事なものができている。アルゴナビスこそが譲れない大事なものであり、大事な居場所だと心の底から思っている。こんな自分に、自分のギターの音に手を伸ばし続けて離さないようにしてくれるメンバーに感謝しているし、ずっと一緒にバンドをしていたいと思えている。
 それなのに、昔のかさぶたが些細なきっかけでいまだ疼く。もう血も止まっていて、普段はそんなものないような顔ができるくらいになったのに。癒えたはずの傷なのに、ときおり鼓動とともに痛むのだ。
 思わずもれたため息にうんざりしつつふと顔を上げると、窓にうすく映る自分の顔と目が合った。その目は空の果てを見るように遠く、過ぎ去った季節を見送るように静かで、痛みを堪えるように切実だ。この目を、どこかで見たことがある。
 そうだ。いつかの彼らも同じ目をしていた。
 合唱部時代のことを語る蓮。兄との思い出やわだかまりを思う航海。肘の怪我により絶たれた道を話す凛生。経営難により手放した牛たちに想いを馳せる万浬。
 あのときの彼らの目が、窓に映る自分の目と重なる。
「で、この四国お遍路ですが、八十八ヶ所の霊場を巡ることで結願という、まあようするに願いが叶うと言われているんですね」
 どこかぼんやりとした教授の声が、ふいに鮮明に聞こえた。
「お遍路さんたちは、たとえば病気や怪我を治したいとか、大事な人を失くした悲しみと向き合いたいとか、過去を乗り越えて新しい自分に生まれ変わりたいとかね、そういう切実な願いを抱えていることが多い。それぞれの願いを叶えたくて、長い距離を歩くわけです」
 少し窓の外に視線を投げて、彼はかすかに微笑んだ。
「僕は出身が香川で、下校中なんかにはよくお遍路さんを見かけました。レジュメに資料を載せてますが、白衣を着て金剛杖を持っているからすぐお遍路さんとわかるので、『こんにちは』『ご苦労さまです』と挨拶するんです。すると『ありがとう、元気が出るよ』なんて言ってくれて、むしろこっちも元気がもらえる気がしましたねえ。でも、そんなお遍路さんももしかしたら笑顔の裏に乗り越えがたい過去や拭いがたい悲しみを抱えていたのかもしれないと思うと、なんだか不思議な気がしますね」
 結人はじっと話に聞き入る。
 それぞれの過去、それぞれの願いを抱えながら星々を巡るアルゴナビスという船と、なんだか似ている。さっき映した十の目が脳裏に浮かぶ。
 教授が懐かしそうにそっと目を細めた。
「お遍路さんというのは、もちろん長い道のりを巡るという信仰の深さも大事ですが、その道中で出逢うたくさんの人や景色も結願をなすうえで大事なんじゃないかと、僕は思います。お寺を巡って旅するなかで得た出逢いも、きっと願いを叶える力になるでしょうから」
 やさしく響く言葉が、胸にゆっくりと沁みていく。結人は机の脇に立て掛けたギターケースを指先で撫でた。馴染みの感触に、ほっと吐息がもれる。
 胸に残る傷はかさぶたになったまま、消えることはないのかもしれない。きっとこれからも、ほんの些細なことでしつこく疼き続けるのだろう。
 でも、だからこそ出逢えるものがきっとある。だからこそ奏でられる音が、成し遂げられることが、きっとある。
 ならば傷を抱えたまま、進み続けるしかない。
 たくさんの出逢いに満ちた旅路のさきで、それぞれの過去と願いに光が射すことを祈りながら。


お題:生きている孤独
必須要素:四国
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