CPなし小説


「あれ、結人くん?」
 大学構内の、あまり使われない棟の最上階。ひとけのないその小さなラウンジの隅に、見慣れた後ろ姿が座っているのを万浬は発見した。声をかけると、その後ろ姿は「ん?」と振り返った。
「ああ、万浬。お前もこの時間空きコマか?」
「いや、急に休講になっちゃったんだ」
 答えつつ、彼の向かいの席を示して「ここ、いい?」と尋ねると「もちろん」と返された。荷物を下ろし、椅子に腰掛ける。
「ここのラウンジ、いつ来ても人があまりいないから穴場だと思ってたんだけど、まさか結人くんも知ってたとはね」
「俺、この曜日のこの時間はたいていここにいるぜ。静かだから勉強が捗るんだよな」
 見れば、彼の手元には教科書とノートが広げられている。覗き込むと、どうやらイタリア語の授業の復習をしているらしいことがわかった。
「へぇ、結人くんがまじめに勉強してるなんて珍しい」
「次の四限の授業がイタ語なんだけど、小テストがあるのをすっかり忘れちまってたんだよなあ」
「てことは悪あがきの付け焼き刃ってこと? なんだ、感心して損した」
「なっ、そんな言い方するなよ! しょうがないだろ、最近ライブもバイトも忙しかったし……」
 ぶつぶつとこぼされる言い訳を聞き流しつつ万浬は結人が広げている教科書に視線を落とす。普段見慣れない言語がずらりと並んでいる様はなかなか新鮮だ。
「イタ語、難しい?」
「うーん、発音はそんなに難しくねえし授業もそれほど厳しくはないな。それに音楽用語にはイタリア語のものが多いから、ためになる!」
「ふうん」
 そう言えばこの男、普段のふるまいとは裏腹に結構成績はいいんだっけ。万浬はシャーペンを握りしめて力説する目の前の男をしげしげと眺める。
「たしかに、結人くんってなんかイタリアっぽいよね」
 思いついたことを何気なく呟くと、結人が怪訝そうに片眉を上げた。
「なんだ、それ?」
「陽気でポジティブでフレンドリーな感じ。誰にでもチャオー!って話しかけにいくでしょ」
「偏見じゃねぇの?」と言う彼に「まあまあ、ステレオタイプなのは承知。ちょっとしたイメージの話だよ」と片手を振ってみせる。
「まあ、自分でも顔は広いほうだと思ってるかな。蓮みたいに人見知りもしないし」
「だよね」
 でも、割と『広く浅く』のタイプだよね。万浬は胸中で呟いた。
 結人は誰に対してもフレンドリーで、友達が多い。だけど、彼が本当に心を開いている相手はたぶんそれほど多くない。なんせ同じバンドのメンバーにも脱退を決意するほど悩んでいることを言わなかったりするのだ。彼はどうやら自分の欲望や本音を語るのが苦手なようで、いろんなことを自分のなかに溜め込みがちになる。天真爛漫なようで、実際はけっこう難儀な男である。
 そうやってなかなか自分の内側を見せたがらない性質を、はたして自覚しているのかどうか。
「でも、万浬もわりと顔が広いだろ?」
 完全に勉強の手が止まってしまった結人が尋ねる。万浬は「うーん」と腕を組んだ。
「たしかに俺も人見知りはしないけど……でも別に友達は多くないよ」
「そうなのか?」
「ほら、俺、こんな感じだし。初対面のときは結人くんだって戸惑ったでしょ」
 わざとおどけたふうに訊いてみる。彼は少し気まずそうに目を逸らして「いや、そんな……」などと口ごもる。やっぱり嘘をつくのがへたな男だ。ウチの連中はみんな素直だからなあ、と万浬は苦笑をもらす。
「というか万浬、あのときちょっと演技してただろ。やろうと思えばもっと上手く自分を売り込んだりできるだろ、お前って」
 結人がちらりと万浬の目を見る。意外な言葉に万浬はわずかに瞠目した。
「え、あのときから気づいてた?」
「いや、今にして思えばって感じだな」
「そっかあ」
 そりゃまあ今となればバレてるよなあ、と万浬は自嘲じみた笑みを口元に浮かべた。
 人一倍お金が好きなことも、それを隠さないことも、万浬にとっては譲れないことだ。それを受け入れてくれない人たちとは一緒にやっていけないし、やっていきたくない。だから結人たち四人と出会ったとき、わざと露悪的で軽薄な感じを演じて彼らを試し、一線を引いたのだ。それがあまり褒められたことじゃないのはわかっている。
 でも、だからこそ、そんな自分たちが今一緒にバンドをし続けているのってすごいことだ。結人の顔を見ながら、万浬はしみじみと思う。
 と、そのとき、地鳴りと唸り声を足して二で割ったような音が轟いた。音の発生源である結人を見ると、お腹を押さえながらほんの少し頬を赤くしていた。
「なに、お腹すいたの?」
「いやぁ、さっき学食でカツ丼大盛り食べたんだけどなあ」
「もしかしてまだ成長期? やめてよね、ただでさえ無駄に図体でかいのに」
「無駄とか言うなよ!」
 わめく彼を尻目に、万浬はリュックサックの中をごそごそと漁る。取り出したものを「はい、これでも食べなよ」と結人に手渡すと、彼はパッと顔を輝かせた。
「うまい棒じゃねえか! それもご当地限定の!」
「さっきチャイ語で同じクラスの人に貰ったんだ。旅行土産だってさ」
「じゃあありがたくいただくぜ。こういう駄菓子、小さい頃は食べられなかったから新鮮なんだよな」
 そう言ってさっそくピリピリとパッケージを破く結人に、思わず万浬は笑みをこぼす。
 なかなか本心を語りたがらない男がぽろりとこぼした過去が嬉しい。そして、そんなことを嬉しく思っている自分が少しむずがゆいながらもやっぱり嬉しい。
 勝手に引いた一線がいつのまにかうやむやになってすっかり消えてしまう。だからアルゴナビスはすごいのだ。


お題:イタリア式の理由
必須要素:うまい棒
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