CPなし小説
「ただいまー」の挨拶とともに万浬がリビングのドアを開けると、予想に反してそこには誰の姿もなかった。この時間ならも誰か一人くらいはいそうなものなのに。夕方の五時半過ぎを指す時計を見やりつつ不思議に思っていると、キッチンのほうから一人分の「おかえり」が返ってきた。そういえば今日は彼が食事当番だったな、と頭の中に家事分担表を思い浮かべながら、万浬はキッチンへと向かう。
「凛生くんしかいないんだね」
深緑のエプロンを着けた姿が随分と様になっている彼にそう声をかけると、彼はじゃがいもを洗いながら「ああ」と頷いた。
「五稜はバイトだ。夕食までには帰ってくると言っていた。七星はぽんちゃんの散歩に行ってる。三十分くらい前に出掛けて行ったはずなんだが……」
「蓮くんのことだし、またどこかの公園で歌ってるんじゃない?」
ほんの少し苦笑を滲ませながらそう言うと、凛生も「そうかもしれないな」と小さく笑った。彼の『歌バカ』さにはメンバー一同もう慣れ切っている。
「的場もまだ帰ってきていないな。今日はバイトはないはずだが」
「ああ、そういえばレポートの参考文献を探しに図書館に寄ってくって言ってた」
「そうか」
「そうだ。これ、お土産」
言いながら、キッチンカウンターの上に転がる人参やら玉ねぎやらの隣に、手に持っていたビニール袋を並べる。中に入っていたパックを取り出すと、あたたかい揚げ物の匂いがむわりと漂う。凛生が「またか」と苦笑をこぼした。
「今日はどこで何を貰ってきたんだ?」
「肉屋のおじちゃんから、豚肉コロッケ。今日の夕飯に合うかな?」
「ああ、大丈夫だ。今日はオムライスを作るつもりだから」
「よかった。作るの手伝うよ」
袖をまくりながら言うと、凛生は少し困ったように片眉を上げた。
「いや、久しぶりにバイトが休みなんだろ。リビングでゆっくりしていていいぞ」
「ううん、誰かが働いてる横でのんびりするのってなんか落ち着かないし。それに、二人で作ったほうが早くできるでしょ。俺、だいぶお腹空いてるんだよね」
『誰かのため』なら少々張り切りすぎてしまうきらいのある凛生の遠慮を問答無用で跳ねのけて、万浬はさっさと手を洗いはじめる。観念したように、凛生も「ならよろしく頼む」と口元を緩めた。
「オムライスの他には何を作る予定?」
洗ったばかりのじゃがいもの皮をピーラーで剥きながら万浬が尋ねる。凛生が、昨日の残りの玉ねぎ半分をラップから取り出しつつ答える。
「キャベツとベーコンのミルクスープとサラダだ」
「やった、凛生くんの作るミルクスープ美味しくて好きなんだよね」
具沢山のスープの味を思い浮かべて、万浬はごくりと喉を鳴らす。牛乳をふんだんに使ったスープは、牛乳のまろやかさと野菜の優しい味わいがみごとに調和していて、食べるとホッとした気持ちになれる。それに牛乳の消費量を増やすことで酪農業全体の発展にも繋がり、ひいては実家の白石農場の再建にも明るい光が射すかもしれない。
「それはよかった」と凛生が悠然と微笑んだ。
会話を弾ませながら、それでも二人の手は淀みなく慣れた手つきで動き続けている。相変わらず如才ないな、と玉ねぎをみじん切りにする凛生の包丁さばきを見て、万浬は思う。これがもし蓮や航海だったならこうはいかないだろう。なんせ、目玉焼きを爆発させたりエノキを一本ずつ取り分けたりする連中なのだ。料理は作れなくてもせめて手伝いくらいはまともにできるようになってくれればとは思うものの、その道のりは果てしなさそうである。
「そういえば、今日は献立のリクエストを訊いてなかったよね? オムライス食べたかったの?」
いつもなら、凛生が食事当番のときはグループチャットでメンバー全員に食べたいものを訊いているのだ。とは言え、万浬を含むほかの四人はあまり料理にこだわらないたちなので、たいてい返事は変わり映えのしないものになってしまうのだが。蓮は『歌バカ』の例にならって好きなものには一直線な性格なので好物だけをリピートしようするし、結人はガッツリした肉料理や揚げ物ばかりをリクエストするし、航海にいたっては「パンケーキ」などとわけの分からないことを言い出すし。万浬は安くて美味しくて牛肉の入っていないものなら何でもいいので、特に食べたいものが思いあたらないときは適当に思い付いたものをリクエストしている。
不思議に思って尋ねると、彼は包丁を止めないまま「ああ」と思い出し笑いをこぼした。
「昨日の夜、四人でテレビを見ていたときに有名レストランのオムライスが紹介されていたんだが、それを見てるあいつらの目があまりにもキラキラしてたから」
「ああ、なるほどね」
小さく肩を揺らす凛生につられるように、万浬も頬を緩める。
バイトがあったので万浬はその場にいなかったが、そのオムライスを食い入るように見つめる三人の顔は容易に想像できる。きっと結人なんかはよだれまで垂らしそうになっていたことだろう。
「そういうところ分かりやすいもんなぁ、あいつら」
キャベツをざく切りにしながら、万浬は呟く。
「でも、隠して分かりにくくされるよりはいい」
さらりと返された凛生の言葉に、万浬はふと彼を見やった。トントンと小気味よいリズムを保ったまま人参をみじん切りにしていく彼の顔に、翳は見当たらない。万浬はふっと息を吐き出した。
「俺も、もう隠したりしないつもりだよ」
噛みしめるように告げると、凛生が驚いたように万浬を見た。手を止めて、それからそっと目を伏せる。
「すまない、そんなつもりで言ったんじゃなかったんだが」
「謝らないでよ。あのときのことを反省してるのはほんとなんだし」
万浬は慌てて手を振ってみせる。
そのとき、玄関のドアを開ける音が響いた。続いて聞こえた、「わっ、ぽんちゃん待って! まだ足拭いてないから!」という声。
思わず万浬と凛生は顔を見合わせた。なんだか気が抜けてしまった。二人してぷっと噴き出す。
「ただいま。あれ、今日は万浬も一緒に作ってるんだ。バイトが休みなの珍しいね」
リビングから、ぽんちゃんを抱き上げた蓮が声をかける。腕の中のぽんちゃんもキャンッと楽しげに鳴いている。
「結人くんから、バイト詰め過ぎずにたまには休めって言われちゃってさ」
「そうなんだ。あっ、僕も何かお手伝いしたいな」
ぽんちゃんを床に下ろして駆け寄ってきそうになった蓮に、二人は慌てて制止の声を上げる。
「いや、大丈夫だ七星。キッチンに三人も並ぶと狭くなってしまう」
「そうだよ蓮くん。それにホラ、ぽんちゃんが遊んでほしそうに見てるよ。この前買ったボールのおもちゃで遊んであげたら?」
「えっ、あ、ほんとだ。じゃあぽんちゃん、あっちで一緒に遊んでようか」
キャンッ、と嬉しそうに鳴いてふさふさした尻尾をちぎれんばかりに振るぽんちゃんを連れて、蓮はリビングへと帰っていく。
二人はほっと胸を撫で下ろした。
「危なかった。またキッチンが爆心地になるところだった」
真面目くさった顔で冗談をとばす凛生に笑いつつ、万浬も調子を合わせる。
「ちょっとかわいそうな気がしないでもないけど、余計な犠牲をだすわけにはいかないからね」
気を取り直して、万浬はスープ用に切ってあったキャベツ、ベーコンを鍋に放り込んで炒める。火が回ったところで人参と水にさらしていた一センチ角のじゃがいもをくわえ、さっと火を通したあと水とコンソメを入れる。まだ未完成なのに、すでに野菜のいい匂いが漂いはじめていた。思わずごくりと喉が鳴る。
炊飯器がのんきなメロディーでご飯が炊きあがったことを知らせた。
「もうチキンライスも作り始めておくか」
鶏肉を一口大に切り終わった凛生が万浬を振り返る。万浬も大きく頷いた。
ぐつぐつと野菜を煮込む鍋の隣にフライパンを並べた凛生が、切ったばかりの鶏肉をその中にどさりと入れる。元運動部の彼が作る料理はボリュームたっぷりなものが多く、チキンライスもごろごろと鶏肉が入っている。肉料理が好きな結人も、意外と肉食系な蓮も大満足な一品だ。
あらかた火が通ったところで、みじん切りの玉ねぎと人参を入れる。
「うわ、すでに美味しそう」
サラダ用のレタスをちぎりながら万浬はフライパンを覗き込んだ。凛生が「気が早いな」と笑う。
同時に、再び玄関のほうから物音がした。落ち着いた声で響く「ただいま」に、二人とも声の主を悟る。「おかえり」という蓮の声のあと、ガチャリとキッチンのドアが開かれる。
「すごく良い匂いだね。今日のご飯は何?」
キッチンを覗いた航海が鼻をひくつかせた。
「オムライスだ。昨日食べたそうにしてただろ?」
凛生が得意げな顔をする。対照的に、航海は気恥ずかしさと決まり悪さが入り混じった表情で「……悪いかよ」と眉を寄せた。
「はいはい、ちっちゃい小競り合いしてないでよ。凛生くんもフライパンちゃんと見て。航海くんも早く荷物置いてきな」
万浬はパンパンと手を打ち鳴らす。なんだか実家で弟たちの喧嘩の仲裁をしているみたいだ。二人ともメンバーの中では比較的落ち着いた性格をしているくせに、互いに対してだけ妙に子どもじみた振る舞いをするのが可笑しい。
万浬の言いつけを守るように、凛生は再びフライパンに集中しはじめ航海はキッチンを後にして二階の自室へと引っ込んでいく。
「もうご飯入れちゃう?」
レタスときゅうりとトマトを盛り付けたガラスボウルを冷蔵庫に仕舞いながら尋ねると、凛生もこくりと頷いた。
「そろそろ五稜も帰ってくるだろうから、入れてしまおう」
「オッケー」と万浬は炊飯器の蓋を開けた。ふわりと溢れ出した湯気と優しい匂いと、それからつやつやと輝く白いご飯に、腹の虫が情けない声でくうぅと鳴いた。しゃもじでさっくりとかき混ぜると、もっちりした重みが手に伝わる。
凛生が炊飯器の横にフライパンを持ってきた。「いくよ」と合図して、炊き立てのご飯をどさどさとフライパンに投入する。男子大学生五人の食べるご飯の量は多い。大きなフライパンがたちまち白いご飯でいっぱいになってしまう。
「こんなもんかな」
「ああ、充分だろう」
再びフライパンを火にかけつつ、凛生はケチャップをぐるりと回し入れて塩こしょうを振る。白かったご飯がトマトの甘酸っぱい色に染まって、いっそう食欲をかき立てる。
手際良くチキンライスがかき混ぜられたところで、今度は結人が帰ってきたようだ。玄関から騒々しい足音と「ただいまー! ふー、腹減ったぁ!」という大きな声が聞こえてくる。万浬は凛生に向かって肩をすくめてみせた。凛生がくつくつと可笑しそうに笑う。
「いい匂いだな! もしかしてオムライスか?」
キッチンに顔を出すなり、結人はキラキラと目を輝かせた。驚異的な嗅覚だ。常日頃から結人はまるで大型犬のようだと思っていたけれどまさかここまでとは、と万浬は目を瞬かせる。なんだかブンブンと振る大きな尻尾を幻視してしまいそうだ。
「ああ。よく分かったな」
出来上がったチキンライスを五枚の皿に取り分けながら、凛生が感心したような声を出した。へへ、と結人が照れを滲ませて笑う。
「昨日テレビでオムライス特集を見てたときから、たぶん明日凛生が作ってくれるだろうなって思ってたんだ」
歯を見せて屈託なく笑う結人に、今度は凛生が面食らったようにぱちぱちと目を瞬かせた。
「見抜かれてたね、凛生くん」
万浬はからかうように彼の背中をつつく。彼はほんの少し気恥ずかしそうに眉を下げた。
「今から玉子を焼くんだろ? ここで見ててもいいか?」
万浬の後ろからフライパンを覗き込み、子どものように瞳を輝かせて結人が問う。
「べつに構わないが、わざわざ見るほどのものか?」
「いやいや、充分見るに値するって! 素早い手捌きでふわふわトロトロな玉子を作っていくところを見てると、俺はいつも感動するんだ」
「結人くん単純だもんね」
「万浬だって感動するだろ!?」
万浬たちが軽口を叩いているあいだにも、凛生は両手に卵を持って器用に片手割りを披露している。パカっと綺麗な音を立てて割れた殻から、透き通った白身に包まれた橙色の黄身がとろりとこぼれた。
そこに牛乳がくわえられ、華麗な箸捌きでかき混ぜられていく。瞬く間に、食欲をそそる美しい黄色の卵液ができあがった。
「やっぱり何度見てもすげーよな。俺も片手割りはできるけど、両手で同時にはさすがに無理だわ」
「片手割りができるのも充分すごいと思うけどね。蓮くんなんて、両手で一個の卵を割るのでさえ毎回めしょめしょにしちゃうし」
「いや、蓮と比べられても……って、ほら見てみろよ万浬! ふわふわトロトロだぞ!」
興奮した結人が指差す先では、たっぷりのバターがひかれたフライパンの上でじゅうじゅうと音を立てて卵が焼かれている。確かに程よい半熟加減でふわふわトロトロだ。
焼き上がったそれを、チキンライスの上にそっとかける。オシャレなカフェなんかで出てきてもおかしくないほど、見事な出来映えだ。
「うわぁ、完成度たけーな」
「ほんとほんと。お金とれるレベルだよ」
「オムライスくらい簡単に作れる。なぜなら俺は──」
「凛生くん天才だもんね」
「おい、キメ台詞とってやるなよ」
「キメ台詞だったつもりはないんだが」
ぽんぽんと軽口の応酬を繰り広げながら、それでも凛生の手つきは相変わらず淀みがない。するすると流れるように、ほかの四つのチキンライスも満月のような玉子で覆っていく。
「完成だ。ダイニングに運んでくれ」
はーい、と万浬と結人は返事をして、喜び勇んで五人分の食事をダイニングへと運びこむ。
自室にいた航海を呼び、ぽんちゃんの食器にもお気に入りのドッグフードを入れてやったところで、みんな揃って食事を開始する。弾んだ「いただきます!」のアンサンブルがダイニングに響いた。
万浬は、まずは大好きなミルクスープから食べることに決めた。白いスープと柔らかなキャベツをスプーンで掬い、口に入れる。とたんに優しい味が口いっぱいに広がった。少しこしょうを効かせていることも相まって、体がぽかぽかとしてくる。
「うーん、やっぱり凛生くんの作れるミルクスープは格別だね!」
「うん、すごく美味しい。さすが凛生!」
蓮と二人で絶賛すると、同じようにスープを飲んでいた彼が「気に入ってもらえて嬉しい」と微笑んだ。
次に今日のメインであるオムライスにスプーンを差しこむ。スプーンで簡単に切れるほどふわふわした玉子と、ケチャップが香るオレンジ色のチキンライスを一緒に食べる。とろりとした口当たりのいい玉子からふわっとバターの風味が鼻に抜ける。ごろごろ入っているチキンにもしっかり味がついていて、美味しい。ついスプーンが止まらなくなってしまう。
「そうそう、これが昨日からずっと食べたかったんだよ!」
感動したように結人が叫んだ。航海が「ちょっとユウ、口にもの入れたまま喋らないで」と母親のような小言を言う。
「でも、本当に美味しいよね。とろとろの玉子の甘さとチキンライスの甘酸っぱさのバランスが絶妙だ」
航海もこのときばかりは素直に称賛を送る。その険のない表情に、凛生が満足そうに頷いた。
あたたかな湯気と笑い声が満ちる食卓を、万浬はそっと見回す。目の前の料理に没頭している三人の明るい顔と、それを嬉しそうに見つめる凛生の柔らかな眼差し。ふわり、と胸にあふれたぬくもりは、きっと美味しい食事のおかげだけではない。
小さく笑みをこぼしつつ、万浬はスプーンの上のオムライスをぱくりと口に放りこんだ。
「凛生くんしかいないんだね」
深緑のエプロンを着けた姿が随分と様になっている彼にそう声をかけると、彼はじゃがいもを洗いながら「ああ」と頷いた。
「五稜はバイトだ。夕食までには帰ってくると言っていた。七星はぽんちゃんの散歩に行ってる。三十分くらい前に出掛けて行ったはずなんだが……」
「蓮くんのことだし、またどこかの公園で歌ってるんじゃない?」
ほんの少し苦笑を滲ませながらそう言うと、凛生も「そうかもしれないな」と小さく笑った。彼の『歌バカ』さにはメンバー一同もう慣れ切っている。
「的場もまだ帰ってきていないな。今日はバイトはないはずだが」
「ああ、そういえばレポートの参考文献を探しに図書館に寄ってくって言ってた」
「そうか」
「そうだ。これ、お土産」
言いながら、キッチンカウンターの上に転がる人参やら玉ねぎやらの隣に、手に持っていたビニール袋を並べる。中に入っていたパックを取り出すと、あたたかい揚げ物の匂いがむわりと漂う。凛生が「またか」と苦笑をこぼした。
「今日はどこで何を貰ってきたんだ?」
「肉屋のおじちゃんから、豚肉コロッケ。今日の夕飯に合うかな?」
「ああ、大丈夫だ。今日はオムライスを作るつもりだから」
「よかった。作るの手伝うよ」
袖をまくりながら言うと、凛生は少し困ったように片眉を上げた。
「いや、久しぶりにバイトが休みなんだろ。リビングでゆっくりしていていいぞ」
「ううん、誰かが働いてる横でのんびりするのってなんか落ち着かないし。それに、二人で作ったほうが早くできるでしょ。俺、だいぶお腹空いてるんだよね」
『誰かのため』なら少々張り切りすぎてしまうきらいのある凛生の遠慮を問答無用で跳ねのけて、万浬はさっさと手を洗いはじめる。観念したように、凛生も「ならよろしく頼む」と口元を緩めた。
「オムライスの他には何を作る予定?」
洗ったばかりのじゃがいもの皮をピーラーで剥きながら万浬が尋ねる。凛生が、昨日の残りの玉ねぎ半分をラップから取り出しつつ答える。
「キャベツとベーコンのミルクスープとサラダだ」
「やった、凛生くんの作るミルクスープ美味しくて好きなんだよね」
具沢山のスープの味を思い浮かべて、万浬はごくりと喉を鳴らす。牛乳をふんだんに使ったスープは、牛乳のまろやかさと野菜の優しい味わいがみごとに調和していて、食べるとホッとした気持ちになれる。それに牛乳の消費量を増やすことで酪農業全体の発展にも繋がり、ひいては実家の白石農場の再建にも明るい光が射すかもしれない。
「それはよかった」と凛生が悠然と微笑んだ。
会話を弾ませながら、それでも二人の手は淀みなく慣れた手つきで動き続けている。相変わらず如才ないな、と玉ねぎをみじん切りにする凛生の包丁さばきを見て、万浬は思う。これがもし蓮や航海だったならこうはいかないだろう。なんせ、目玉焼きを爆発させたりエノキを一本ずつ取り分けたりする連中なのだ。料理は作れなくてもせめて手伝いくらいはまともにできるようになってくれればとは思うものの、その道のりは果てしなさそうである。
「そういえば、今日は献立のリクエストを訊いてなかったよね? オムライス食べたかったの?」
いつもなら、凛生が食事当番のときはグループチャットでメンバー全員に食べたいものを訊いているのだ。とは言え、万浬を含むほかの四人はあまり料理にこだわらないたちなので、たいてい返事は変わり映えのしないものになってしまうのだが。蓮は『歌バカ』の例にならって好きなものには一直線な性格なので好物だけをリピートしようするし、結人はガッツリした肉料理や揚げ物ばかりをリクエストするし、航海にいたっては「パンケーキ」などとわけの分からないことを言い出すし。万浬は安くて美味しくて牛肉の入っていないものなら何でもいいので、特に食べたいものが思いあたらないときは適当に思い付いたものをリクエストしている。
不思議に思って尋ねると、彼は包丁を止めないまま「ああ」と思い出し笑いをこぼした。
「昨日の夜、四人でテレビを見ていたときに有名レストランのオムライスが紹介されていたんだが、それを見てるあいつらの目があまりにもキラキラしてたから」
「ああ、なるほどね」
小さく肩を揺らす凛生につられるように、万浬も頬を緩める。
バイトがあったので万浬はその場にいなかったが、そのオムライスを食い入るように見つめる三人の顔は容易に想像できる。きっと結人なんかはよだれまで垂らしそうになっていたことだろう。
「そういうところ分かりやすいもんなぁ、あいつら」
キャベツをざく切りにしながら、万浬は呟く。
「でも、隠して分かりにくくされるよりはいい」
さらりと返された凛生の言葉に、万浬はふと彼を見やった。トントンと小気味よいリズムを保ったまま人参をみじん切りにしていく彼の顔に、翳は見当たらない。万浬はふっと息を吐き出した。
「俺も、もう隠したりしないつもりだよ」
噛みしめるように告げると、凛生が驚いたように万浬を見た。手を止めて、それからそっと目を伏せる。
「すまない、そんなつもりで言ったんじゃなかったんだが」
「謝らないでよ。あのときのことを反省してるのはほんとなんだし」
万浬は慌てて手を振ってみせる。
そのとき、玄関のドアを開ける音が響いた。続いて聞こえた、「わっ、ぽんちゃん待って! まだ足拭いてないから!」という声。
思わず万浬と凛生は顔を見合わせた。なんだか気が抜けてしまった。二人してぷっと噴き出す。
「ただいま。あれ、今日は万浬も一緒に作ってるんだ。バイトが休みなの珍しいね」
リビングから、ぽんちゃんを抱き上げた蓮が声をかける。腕の中のぽんちゃんもキャンッと楽しげに鳴いている。
「結人くんから、バイト詰め過ぎずにたまには休めって言われちゃってさ」
「そうなんだ。あっ、僕も何かお手伝いしたいな」
ぽんちゃんを床に下ろして駆け寄ってきそうになった蓮に、二人は慌てて制止の声を上げる。
「いや、大丈夫だ七星。キッチンに三人も並ぶと狭くなってしまう」
「そうだよ蓮くん。それにホラ、ぽんちゃんが遊んでほしそうに見てるよ。この前買ったボールのおもちゃで遊んであげたら?」
「えっ、あ、ほんとだ。じゃあぽんちゃん、あっちで一緒に遊んでようか」
キャンッ、と嬉しそうに鳴いてふさふさした尻尾をちぎれんばかりに振るぽんちゃんを連れて、蓮はリビングへと帰っていく。
二人はほっと胸を撫で下ろした。
「危なかった。またキッチンが爆心地になるところだった」
真面目くさった顔で冗談をとばす凛生に笑いつつ、万浬も調子を合わせる。
「ちょっとかわいそうな気がしないでもないけど、余計な犠牲をだすわけにはいかないからね」
気を取り直して、万浬はスープ用に切ってあったキャベツ、ベーコンを鍋に放り込んで炒める。火が回ったところで人参と水にさらしていた一センチ角のじゃがいもをくわえ、さっと火を通したあと水とコンソメを入れる。まだ未完成なのに、すでに野菜のいい匂いが漂いはじめていた。思わずごくりと喉が鳴る。
炊飯器がのんきなメロディーでご飯が炊きあがったことを知らせた。
「もうチキンライスも作り始めておくか」
鶏肉を一口大に切り終わった凛生が万浬を振り返る。万浬も大きく頷いた。
ぐつぐつと野菜を煮込む鍋の隣にフライパンを並べた凛生が、切ったばかりの鶏肉をその中にどさりと入れる。元運動部の彼が作る料理はボリュームたっぷりなものが多く、チキンライスもごろごろと鶏肉が入っている。肉料理が好きな結人も、意外と肉食系な蓮も大満足な一品だ。
あらかた火が通ったところで、みじん切りの玉ねぎと人参を入れる。
「うわ、すでに美味しそう」
サラダ用のレタスをちぎりながら万浬はフライパンを覗き込んだ。凛生が「気が早いな」と笑う。
同時に、再び玄関のほうから物音がした。落ち着いた声で響く「ただいま」に、二人とも声の主を悟る。「おかえり」という蓮の声のあと、ガチャリとキッチンのドアが開かれる。
「すごく良い匂いだね。今日のご飯は何?」
キッチンを覗いた航海が鼻をひくつかせた。
「オムライスだ。昨日食べたそうにしてただろ?」
凛生が得意げな顔をする。対照的に、航海は気恥ずかしさと決まり悪さが入り混じった表情で「……悪いかよ」と眉を寄せた。
「はいはい、ちっちゃい小競り合いしてないでよ。凛生くんもフライパンちゃんと見て。航海くんも早く荷物置いてきな」
万浬はパンパンと手を打ち鳴らす。なんだか実家で弟たちの喧嘩の仲裁をしているみたいだ。二人ともメンバーの中では比較的落ち着いた性格をしているくせに、互いに対してだけ妙に子どもじみた振る舞いをするのが可笑しい。
万浬の言いつけを守るように、凛生は再びフライパンに集中しはじめ航海はキッチンを後にして二階の自室へと引っ込んでいく。
「もうご飯入れちゃう?」
レタスときゅうりとトマトを盛り付けたガラスボウルを冷蔵庫に仕舞いながら尋ねると、凛生もこくりと頷いた。
「そろそろ五稜も帰ってくるだろうから、入れてしまおう」
「オッケー」と万浬は炊飯器の蓋を開けた。ふわりと溢れ出した湯気と優しい匂いと、それからつやつやと輝く白いご飯に、腹の虫が情けない声でくうぅと鳴いた。しゃもじでさっくりとかき混ぜると、もっちりした重みが手に伝わる。
凛生が炊飯器の横にフライパンを持ってきた。「いくよ」と合図して、炊き立てのご飯をどさどさとフライパンに投入する。男子大学生五人の食べるご飯の量は多い。大きなフライパンがたちまち白いご飯でいっぱいになってしまう。
「こんなもんかな」
「ああ、充分だろう」
再びフライパンを火にかけつつ、凛生はケチャップをぐるりと回し入れて塩こしょうを振る。白かったご飯がトマトの甘酸っぱい色に染まって、いっそう食欲をかき立てる。
手際良くチキンライスがかき混ぜられたところで、今度は結人が帰ってきたようだ。玄関から騒々しい足音と「ただいまー! ふー、腹減ったぁ!」という大きな声が聞こえてくる。万浬は凛生に向かって肩をすくめてみせた。凛生がくつくつと可笑しそうに笑う。
「いい匂いだな! もしかしてオムライスか?」
キッチンに顔を出すなり、結人はキラキラと目を輝かせた。驚異的な嗅覚だ。常日頃から結人はまるで大型犬のようだと思っていたけれどまさかここまでとは、と万浬は目を瞬かせる。なんだかブンブンと振る大きな尻尾を幻視してしまいそうだ。
「ああ。よく分かったな」
出来上がったチキンライスを五枚の皿に取り分けながら、凛生が感心したような声を出した。へへ、と結人が照れを滲ませて笑う。
「昨日テレビでオムライス特集を見てたときから、たぶん明日凛生が作ってくれるだろうなって思ってたんだ」
歯を見せて屈託なく笑う結人に、今度は凛生が面食らったようにぱちぱちと目を瞬かせた。
「見抜かれてたね、凛生くん」
万浬はからかうように彼の背中をつつく。彼はほんの少し気恥ずかしそうに眉を下げた。
「今から玉子を焼くんだろ? ここで見ててもいいか?」
万浬の後ろからフライパンを覗き込み、子どものように瞳を輝かせて結人が問う。
「べつに構わないが、わざわざ見るほどのものか?」
「いやいや、充分見るに値するって! 素早い手捌きでふわふわトロトロな玉子を作っていくところを見てると、俺はいつも感動するんだ」
「結人くん単純だもんね」
「万浬だって感動するだろ!?」
万浬たちが軽口を叩いているあいだにも、凛生は両手に卵を持って器用に片手割りを披露している。パカっと綺麗な音を立てて割れた殻から、透き通った白身に包まれた橙色の黄身がとろりとこぼれた。
そこに牛乳がくわえられ、華麗な箸捌きでかき混ぜられていく。瞬く間に、食欲をそそる美しい黄色の卵液ができあがった。
「やっぱり何度見てもすげーよな。俺も片手割りはできるけど、両手で同時にはさすがに無理だわ」
「片手割りができるのも充分すごいと思うけどね。蓮くんなんて、両手で一個の卵を割るのでさえ毎回めしょめしょにしちゃうし」
「いや、蓮と比べられても……って、ほら見てみろよ万浬! ふわふわトロトロだぞ!」
興奮した結人が指差す先では、たっぷりのバターがひかれたフライパンの上でじゅうじゅうと音を立てて卵が焼かれている。確かに程よい半熟加減でふわふわトロトロだ。
焼き上がったそれを、チキンライスの上にそっとかける。オシャレなカフェなんかで出てきてもおかしくないほど、見事な出来映えだ。
「うわぁ、完成度たけーな」
「ほんとほんと。お金とれるレベルだよ」
「オムライスくらい簡単に作れる。なぜなら俺は──」
「凛生くん天才だもんね」
「おい、キメ台詞とってやるなよ」
「キメ台詞だったつもりはないんだが」
ぽんぽんと軽口の応酬を繰り広げながら、それでも凛生の手つきは相変わらず淀みがない。するすると流れるように、ほかの四つのチキンライスも満月のような玉子で覆っていく。
「完成だ。ダイニングに運んでくれ」
はーい、と万浬と結人は返事をして、喜び勇んで五人分の食事をダイニングへと運びこむ。
自室にいた航海を呼び、ぽんちゃんの食器にもお気に入りのドッグフードを入れてやったところで、みんな揃って食事を開始する。弾んだ「いただきます!」のアンサンブルがダイニングに響いた。
万浬は、まずは大好きなミルクスープから食べることに決めた。白いスープと柔らかなキャベツをスプーンで掬い、口に入れる。とたんに優しい味が口いっぱいに広がった。少しこしょうを効かせていることも相まって、体がぽかぽかとしてくる。
「うーん、やっぱり凛生くんの作れるミルクスープは格別だね!」
「うん、すごく美味しい。さすが凛生!」
蓮と二人で絶賛すると、同じようにスープを飲んでいた彼が「気に入ってもらえて嬉しい」と微笑んだ。
次に今日のメインであるオムライスにスプーンを差しこむ。スプーンで簡単に切れるほどふわふわした玉子と、ケチャップが香るオレンジ色のチキンライスを一緒に食べる。とろりとした口当たりのいい玉子からふわっとバターの風味が鼻に抜ける。ごろごろ入っているチキンにもしっかり味がついていて、美味しい。ついスプーンが止まらなくなってしまう。
「そうそう、これが昨日からずっと食べたかったんだよ!」
感動したように結人が叫んだ。航海が「ちょっとユウ、口にもの入れたまま喋らないで」と母親のような小言を言う。
「でも、本当に美味しいよね。とろとろの玉子の甘さとチキンライスの甘酸っぱさのバランスが絶妙だ」
航海もこのときばかりは素直に称賛を送る。その険のない表情に、凛生が満足そうに頷いた。
あたたかな湯気と笑い声が満ちる食卓を、万浬はそっと見回す。目の前の料理に没頭している三人の明るい顔と、それを嬉しそうに見つめる凛生の柔らかな眼差し。ふわり、と胸にあふれたぬくもりは、きっと美味しい食事のおかげだけではない。
小さく笑みをこぼしつつ、万浬はスプーンの上のオムライスをぱくりと口に放りこんだ。