CPなし小説


作詞を始める前から、美しい言葉を集めるのは好きだった。
よく読む純文学の小説の一節や、日常会話のふとした一言、テレビから聞こえてきたフレーズなど。言葉という大海のなかに網を広げ入れるように、生活の中のふとしたときに耳を掠めたり目に映ったりした言葉を拾い集める。そうして網にかかった言葉たちを一つひとつ取り出して、手触りや質感を確かめるのが好きだった。
そういう、つるりとしてすべすべして、そして手のなかできらきらと煌めく言葉を、自分も生み出すことができるなんて思ってもみなかったのに。
机の上に広げた作詞ノートへと視線を落として、航海は小さく笑った。何度も書いては消してを繰り返したページは、よれて皺くちゃになってしまっている。そうして四苦八苦しながら綴られた言葉たちは、紛れもなく自分が生み出した言葉だ。網にかかった言葉たちのなかから、自分たちの想いを表すにふさわしいものだけを選りすぐって拾い集めて、自分の言葉として紡ぎなおしたもの。
それは、今はまだ欠片でしかない言葉たちだけれど、磨いて繋いで歌詞にすることで、きっと微かながらも光を帯びるだろう。そこに桔梗のメロディーがついて四人の演奏で音になって、そして蓮の声で歌になることでより一層きらきらと煌めいてくれるはずだ。
言葉と線が溢れるいびつなノートを、航海はそっと指先で撫でた。
海に落っこちた星屑に輝きを与えて再び夜空に返すみたいなこの行為を、航海はなかなか気に入っている。




静謐な夜の空気に、アコースティックギターの音はよく似合う。
静まりかえった部屋のなかにぽろりぽろりと落ちる音を聴きながら、結人は思う。
土曜日の夜、結人はいつもベッドの上に座ってギターをかき鳴らす。カーテンすら閉めきった部屋のなかで開催される、演奏者は自分ひとり、観客も自分ひとりのリサイタル。つまりはただの独りよがりな自己満足。
バンドを追い出されてからもう数ヶ月が過ぎていた。もうギターを背負ったまま学校やバイトに行く必要もないし、必死の思いで新曲の譜面を覚える時間もないし、誰かに演奏を聴かせる予定もない。
それなのに、まだ未練がましく音楽を捨てられないでいて、今もひとりきりの部屋のなかでしがみつくようにギターを抱えている。きっと、はたから見たらひどく滑稽だろうな。弦を震わす指を止めないまま、頭の隅で思う。
けれど、どんなにどろりとした暗くてつめたい思いも、弦を爪弾いて音にした途端にやわらかく透き通った感触を帯びるのが不思議だった。惨めさも不甲斐なさも遣る瀬なさも、音楽になった途端にそれまでの澱んだ色が嘘か幻だったかのように、きらきらと微かながらも煌めきを宿す。
だから、たとえ何を失くそうとも音楽を手放せない。

まばゆいライトが交錯するステージの上で、結人はステージの真ん中で飛び跳ねるように歌う蓮を見る。細かな汗を髪から散らす彼はとても楽しそうに笑っていた。視線を移して素早くステージ全体を見渡す。激しく頭を振る航海も、小さく身体を揺らす凛生も、元気に笑う万浬も、みんなとても楽しそうだ。弾んだ音がぶつかり合い、うねる波となってステージから流れだして、フロアいっぱいに溢れていく。結人は眩しいものを仰ぐようにそっと目を細めた。
ひとりきりじゃない。自分のかき鳴らすギターに合わせて、ベースが唸ってピアノが鳴ってドラムが叩かれて。そして自分のかき鳴らすギターにのせて、歌を歌ってくれる。
ああ、ほんとうに、もう手放すことなどできやしないな。
四人の笑顔を見ながら、ほとんど誓いのような思いを抱く。
ひとりの惨めさや不甲斐なさや遣る瀬なさすらも煌めきに変えた音楽は、アルゴナビスとして五人で音を合わせる今はいっそう煌めきを増して燦然と輝いている。
掬い上げて、そのまま夜空に飾ることさえできそうなほどに。
結人はピックを握る指に力をこめた。
この輝きから目を逸らさずに追いかけ続けていれば、きっと音楽はずっとこの手のなかにある。




秋が似合うよね、と。そう評されたのは、果たしていつのことだっただろう。
自室で書き上げたばかりの楽譜をぱらぱらとめくりながら、凛生は頭の隅でちらりと考える。
そうだ、大学に入学したばかりの頃に入ったサークルでのことだった。部室棟の片隅の少し埃っぽい部屋に、高揚した気分を隠しもしない学生たちがひしめき合っていた。その浮ついた空気にやや辟易としつつ入部希望者の名簿に名前と誕生日を記入していたとき、隣にいた女子がわぁっと歓声を上げたのだ。
「桔梗くんって秋生まれなんだね。なんだか納得」
知り合ったばかりの、それほど深く話をした覚えもないその人の言葉に少し興味が湧いて、「へぇ、どうしてだ?」と尋ねてみる。
「だって、桔梗ってたしか秋の花だよね。それに涼しげでクールな雰囲気がぴったりだなって。いつも冷静そうだし、無駄な暑苦しさがないっていうか」
頬をわずかに上気させながら、彼女はにっこりと微笑んだ。
クールで涼しげ。
その言葉に、自嘲にも似た笑みをこぼす。
確かに。夏の燃えるような熱狂が過ぎ去った後の、荒涼とした風が吹き付ける秋という季節は、自分にはお似合いかもしれない。
「……そうかもな」
隣の女子の顔を見ないまま、凛生は小さく呟いた。

もう数ヶ月も前の出来事だが、いやに鮮明に思い出せてしまう。思わず苦笑がもれた。
凛生は立ち上がると、すぐ側にあるピアノの前に立った。静かに指を置く。零れるように鳴った音色は、どこまでも凛と澄み渡っている。
あの頃の自分はまだ知らなかった。
夏じゃなくたって、きっといつだって熱くなれるのだということを。
淀みなく指を動かしながら、頭に思い浮かべるのは四人の顔だ。今しがた書き上げたばかりのこの曲も、けれどまだ完成じゃない。的場の言葉で歌詞がついて、四人の演奏で音になって、七星の声で歌になったとき、ようやく初めて完成するのだ。
五人で同じ熱を持ち寄って、そうして一つの熱狂を作り出す。その一端を自分が担っているのだ、と。それを実感したときに感じる熱は、いつのまにか何物にも代えがたいものになっていた。
この熱があれば、クールで涼しげな秋だってたちまち燃えるような熱狂を孕む。
そう、たとえば、今のように。
澄んでいながらも奥に情熱を秘めた音色を響かせながら、凛生はふわりと顔を綻ばせた。
さて、この曲はいったいどんな歌に仕上がるだろうか。
何にせよ、この五人で完成させるのだから、きっと熱い歌になるに違いない。




実家の酪農場の再建という大きな夢と、大切な六人の家族。
この両手に抱える荷物はそれだけで充分だと思っていた。もうすでに両手は塞がっていて、これ以上抱えられるものなんて一つもないと思っていた。
思っていた、はずなのになぁ。
弾けるようなビートを刻みながら、万浬は小さく口元を緩めた。心臓に響くようなドラムの音がスタジオの空気を震わせる。今、二つの手のひらの中には、ドラムのスティックがしっかりと握られている。あまりにもしっかり握っているから、手のひらは汗でビショビショだ。思わず苦笑がもれた。暑苦しいのは苦手なはずだったのに、いつのまにかその暑さこそが心地よくなってしまっている。
それもこれも全部、彼らのせいだ。スティックを握った手は止めないまま、万浬は目の前に立つ四人へと視線を向ける。
誰かと何かをやるなんてことは、自分とは縁遠いものだと思っていた。
お金好きを公言して、それを他の何よりも優先する性格だから。いつだって、周りの人はみな呆れるか眉をひそめるか、もしくは引きつった愛想笑いを浮かべるか。この性格を理解しようとしてくれる人や受け入れてくれる人は決して多くはなくて、けれどそれでいいと思っていた。
それなのに、彼はこの手を掴んで引っ張ってくれた。彼らは、こんな自分を認めて必要だと言ってくれた。そうして彼らと共に過ごすうちに、気付けば手の中には新しく「仲間」という荷物が増えていた。
抱えるものは増えたのに、むしろ今までよりも身も心も軽やかになった気分だ。それは、自分が彼らを抱えているように、彼らもまた自分を抱えてくれているから。この両手に抱えた夢ごと、自分を受け入れてくれているから。
万浬はぎゅっと手のひらを握りしめた。使い古した、けれどよく手入れをしてあるスティックは、皮が厚くなった硬い手のひらによく馴染む。きっと、もう二度と取り零すことはないだろう。
前に立つ四人が呼ばれたように振り返る。彼らに向けて、万浬は弾けるように笑ってみせた。
両手に抱えたこの荷物があればこそ、きっとどこまでだって歩いてゆけるだろう。




「お願い、もう一回だけ! もう一回だけみんなで練習しようよ」
部員たちの背中に向かっていつものように蓮は声を張り上げる。教室では隣の席のひとに話しかけるのでさえなかなか上手くいかないのに、合唱部が練習場所にしているこの視聴覚室では感情と同時に声が出せる。けれど、視聴覚室いっぱいに響いたその声はすぐに壁に吸い込まれて消えていった。
すでに帰り支度を終え、学校指定の通学バッグを持って出口へと向かっていた部員たちがのろのろと振り返る。窓から射し込む痛いほどの西日が彼らの顔の半分に影を作っていて、それがやけに鮮明だった。
「だから、そんなにやりたいなら七星くん一人でやればいいじゃん。さっきもそう言ったよね?」
ソプラノ担当の二年生の女子がうんざりしたように髪をかき上げながら吐き捨てる。彼女の歌は高音がとても伸びやかで、けれどときどきテンポが走りがちになっている。
「もう十分練習しただろ。俺、早く帰って見たいテレビがあるんだけど」
いらいらと時計を気にしながら、同じ一年生の男子が言う。彼は伸ばす音が単調で深みがなくて、それがせっかくの声質の良さを損ねている。
一人でやれだとか、もう十分練習しただとか。なんでみんなそんなことが言えるんだろう。僕も、みんなも、まだまだ上達しなければならないはずなのに。蓮は両手を握り締める。もっともっと上手くならないと。じゃないと、あの日感じたマグマのような熱狂にはいつまで経ってもたどり着けないままだ。
もどかしさで、上靴の中の指先がきゅっとこわばる。握り締めた手のひらがひどく熱い。ごくり、と唾を飲み込んで、蓮はまた口を開く。
「でも一人で歌っててもダメなんだよ。先生だってもっと調和を意識して歌えるようにしないとって言ってたし、僕も──」
「だからさぁ」
さっきの二年生女子が溜め息まじりの声で蓮の言葉を遮った。蓮は思わず口をつぐむ。張り詰めたいっときの静寂の中で、すぐ上の階から聴こえる吹奏楽部の演奏がやけにのどかに響いていた。
彼女がキッと蓮を睨みつける。
「いい加減、迷惑なんだけど。調和なんて言ってるけど、自分が一番調和を乱してるの、気づいてる?」
心臓の真ん中を抉る言葉に、声を奪われる。真っ白になった頭の中が急速に冷えていく。
ちょっと、言い過ぎじゃない?えぇ、だって。まあいいじゃん、早く帰ろうぜ。みんなの声が遠く聞こえる。背を向けて歩いていく足音が響く。だけど呼び止めるための声は喉の奥に詰まったままで音にならない。追いかけるための足は床にへばりついて動かない。
西日が鮮やかに照らしだす視聴覚室で、蓮はひとりきりだった。

白いライトが眩くステージを照らす。
背後から聴こえる音に背中を押されるように、蓮は大きく足を踏み出す。より近くなった観客席からひときわ大きな歓声が上がり、色とりどりのペンライトが揺れる。
まるで夢みたいだと思う。歌いながら、蓮はそっと目を細める。
ずっと一人で歌っていくのだと思っていた。誰にも迷惑をかけないように、誰にも邪魔をされないように。どうにも埋められない焦燥を抱えたまま、誰にも届かない歌を。
背後で、ギターの音が響く。とても格好良いのにどこか繊細で優しい音。ベースの音がうねる。しっかりしていて穏やかで、けれど隠しきれない情熱を宿した音。ピアノの音が鳴る。さりげなく寄り添うようで、頼りがいがある音。ドラムの音が弾ける。元気いっぱいでパワフルで、みんなを支えてくれる音。
彼ららしさがめいっぱいに詰まった、Argonavisの音。そんな音にのせて大好きな歌を歌えるということ。
一人で歌うのだって、まったく楽しくなかったわけじゃない。けれどみんなと一緒に歌うほうがもっと楽しくて、もっと上手に歌えて、もっと熱くなれる。
足がステージから離れてふわふわと浮いているような心地だ。誰かに届けたいという想いが膨らんで、どこまでも声が伸びていく。彼らの音が翼となって、どこまでも飛んでいけそうだと思った。
この、熱くて嬉しくて満たされるような気持ちを、きっと幸せと呼ぶのだろう。
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