CPなし小説

 ひと気のないそのラウンジに思いがけず見慣れた後ろ姿を見つけて、凛生は思わず足を止めた。コツコツと響いていた靴音の最後のひと音がしんとした空気に溶けていく。
 鴨川大学のキャンパスは少し前まで通っていた函館の大学とは比べようもないほどに広大で、学部棟もそれぞれ独立している。だから、学部の違う知人やメンバーと鉢合わせる機会は少ない。実際、この政治経済学部の校舎で彼の姿を見かけたことはこれまで一度もない。物珍しいものを見るように、凛生はしげしげとその赤みがかった髪を眺める。
 ただでさえ彼が訪れる機会は少ないであろうこの校舎の、学部生でさえ滅多に足を伸ばさない最上階にこのラウンジはある。ここ四階には教授たちの研究室と講義室が一つあるだけなのでここまで上ってくる人は限られていて、わざわざ足を止めて休憩していく人は更に稀だ。
 もしかしたら、何か自分に用事でもあるのだろうか。彼がここにいる理由についてそう考えてみたものの、けれどスマートフォンには彼からの連絡を示す通知はないし、今朝シェアハウスで顔を合わせたときもそんなことは言っていなかった。それに今の彼には少しも慌てた様子が見当たらないし、人を探している気配もない。窓辺のソファに腰掛けてただじっと窓の外の景色を眺めているその後ろ姿は、波ひとつ立たない凪いだ海のように静謐だった。なんだか声をかけることすら躊躇われてしまう。
 足音を立てないように慎重に、彼がいる場所を中心にぐるりと半円を描くように歩いて、凛生は彼の横顔が見える位置まで移動した。少し離れたところにあるその横顔は、やはりひどく静かだ。
 三限の授業の開始を知らせるチャイムがラウンジに響く。階下から聞こえていたざわめきも波が引くように少しずつ溶けて消えていく。いつの間にかラウンジ内は彼の眼差しに似合いの静寂で満ちていた。大きな窓から射し込む陽光がまるで白いヴェールのようにちらちらと揺らめきながら降り注ぐ。彼の上げた前髪のすきまから覗く額に、淡い光が落ちている。
 凛生がここにいることに全く気付いていない様子の彼は相変わらず窓の外に視線を投げている。はるか先の水平線を見つめるように遠く、それでいて風向きを読む航海士のように真剣な瞳。彼がそういう目をするときはいつも、詞を考えているときだ。
 あの遠くて真っ直ぐな眼差しで、彼はいつもなにを見ているのだろう。
 凛生も、彼の視線の先にあるものを探るように窓の外へと目を遣る。けれど見えるのは当然のように晴れた凡庸な青空と、その下でいつも通りにキャンパス内を行き交う学生たちくらいだ。芝生の庭、土の道、冬の枯れた木々、薄くちぎられたような雲。なにも目を引くところのない、よくある風景。
 それが、彼の目にはどう映っているのだろう。どんな温度の光に照らされ、どんな色に彩られ、どんな温度を感じ、そしてそんな世界から彼は何を得るのだろう。
 ふわり、とまるで岩合から泉が湧くように、胸の中にメロディーが生まれるのを凛生は感じた。
 いつもそうだ。胸に手のひらを当てながら、凛生はそっと口許を緩めた。
 初めて『ゴールライン』の歌詞を見たときもそうだった。書き損じの黒い跡。乱暴に引かれた二重線。よれて出来た小さな皺。そして、燻るような熱を秘めた言葉の数々。
 躓いて転んで膝をつき、擦り傷をたくさん作りながら、それでも立ち上がって少しでも前へ進もうともがくような。そんな泥臭い詞なのに、それを表現する言葉はどれも鮮やかで清麗な光を宿しているのが不思議だった。
 この詞を綴った彼は、いったいどんなふうに世界を見て、なにを感じて生きてきたのだろう。この燻るような熱には、いったいどんな音が似合うのだろう。
 そう思った瞬間、その詞にメロディーをつけたくなった。自分が生みだした音を、彼の言葉に合わせてみたいと思ってしまったのだ。
 そういう、焦ったさにも似たどうにもしがたい欲求を感じるのは随分と久しぶりだった。ちりちりとしたむずがゆさが指先をかすかに震わせたことを、今でも鮮明に憶えている。
 初めて作った歌のことを思い出しつつ、今しがた胸に浮かんだメロディーを忘れてしまわないように頭の中に書き留める。
 と、そのとき、視線の先の頭がくるりと振り返った。
「そんなとこに突っ立ってないで、こっち来れば?」
 素っ気ない声が飛んでくる。凛生は切れ長の目を丸く見開いた。彼が呆れたように苦笑する。
「気付いてたのか、的場」
 なんとなくきまり悪さを感じつつ呟くと、彼は目の前の窓を指さした。
「だって反射してるから」
 彼の指の先を見れば、確かに突っ立ったまま間抜けに固まっている自分の姿が映っている。流石は鴨川大学、隅々まで清掃が行き届いている。鏡のように磨かれた窓を見遣りつつ、いささか現実逃避じみた考えが浮かぶ。
「天才にしてはちょっと浅はかだったんじゃない?」
「……返す言葉もないな」
 凛生はぶすっと呟き、してやったりとばかりに楽しげに笑う航海の隣へと移動する。スプリングの利かないソファは石のように硬かった。
「……で、的場は何でこんなところにいるんだ?」
 小さく咳ばらいをした後、気になっていたことを尋ねてみる。
「次の授業が教室変更になって、ここの校舎の講義室ですることになったんだ。だから時間を潰してるだけ」
「よくこの場所の存在を知ってたな」
 凛生は静けさの満ちるラウンジを見回した。二人の話す声だけがさざ波のようにひそやかに響く。
 航海が「ああ」と頷いた。
「校舎の入り口にあるフロアガイドで見つけたんだ」
「なるほどな」
 凛生も同じように頷いた。
「桔梗は? 休憩でもしに来たの?」
「いや、新曲について考えたくて」
 そう言うと、彼はぴくりと片眉を上げた。
「新曲? それって、今詰めてる最中の曲のこと?」
 小さく頭を傾ける的場に、凛生は首を横に振ってみせた。
「たった今思い浮かんだばかりの新しいやつだ」
「えっ、また新しい曲作り始めたの?」
 猫のようなつり目を丸く見開く航海に、「いや、まだなんとなくのイメージと簡単なメロディーラインしか浮かんでいない」と手を振ってみせる。
「それに、的場も次の曲の歌詞を考えていただろ」
 あえて尋ねるのではなく断定しながら、隣にある顔を覗きこむ。目を瞬かせた彼は、きまり悪そうに視線を逸らした。やはり図星だったようだ。
「……僕、そんなに分かりやすいのか」
 ユウでもあるまいし、とぼやいた声には隠し切れない落胆が滲んでいる。思わず吹き出すと、「なに笑ってんだよ」と睨まれてしまった。
「未だに分からないことは多いと思ってるぜ」
 凛生はゆったりと告げる。
 彼の翡翠のような瞳に映る世界を、凛生は知らない。きっと一生かけても分かることなどなくて、同じ景色を見ることもないのだろう。
けれど、音楽を通してなら同じイメージを持つことができる。自分が生みだした音から彼が世界を見て、そして共通の「アルゴナビスらしさ」というフィルターを通すことで、一つの同じ景色を見ることができるのだ。
「じゃあ、なんで分かったんだよ」
 怪訝そうに眉を寄せた彼の、その瞳を見据えながら凛生は微笑んだ。
「俺はアルゴナビスの作曲担当だからな」
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