CPなし小説
「ちょっとちょっと、ぽんちゃん急ぎすぎだよ~!」
前を歩く小さな仔犬に、万浬は苦笑交じりの叫び声を上げた。しんと冷たい空気が肺にしみ入る。一方のぽんちゃんはそんなことお構いなしで、くいくいとリードを引っ張りながら弾むように歩き続けている。よっぽどはしゃいでいるのだろう。万浬は小さく口許を緩めた。
普段、万浬はあまりぽんちゃんのお散歩を担当しない。たいてい夜までバイトが入っているから、ぽんちゃんの散歩の時間である夕方に家にいることが少ないのだ。実際、いつもならこの時間は商店街のスーパーのバイトが入っているのだけれど、今日は同じバイトの人がシフトを代わってくれたのだ。その人は先週どうしても外せない用事があるとかで万浬に代理を頼んできたから、これで貸し借りなしというわけだ。
万浬が手の中のリードの感触を新鮮に感じているのと同じように、きっとぽんちゃんも万浬と一緒の散歩を物珍しいと思って、それではしゃいでいるのだろう。ときどき道端の草や電柱の匂いを嗅ぎつつ、そのたびに何かを伝えるみたいにちらちらと振り返ってくる。嬉しそうにきらきら輝く瞳に、万浬も目を細めて笑った。
今日の散歩コースは、シェアハウスから徒歩五分くらいの小さな公園まで。ぽんちゃんはまだ仔犬だから、あまり遠い場所へは行けないのだ。賑やかな商店街を避けて住宅街を歩いていると、いつもはよそ行きの顔をしている街の裏の顔を見た気分になる。その表裏一体な感じが、街全体が観光都市だった函館と違っているように思う。
どこかの家から漂ってくる醤油の匂いに思わず顔を上げて辺りを見回すと、ぽんちゃんも同じように小さな頭をきょろきょろさせた。
「いい匂いだね」
万浬はぽんちゃんに言う。ぽんちゃんもキャンッ!と高い声で応えた。
すっかり葉を落とした木々とハゲ頭みたいな芝生と申し訳程度の遊具があるだけのその公園に、人の姿は見当たらなかった。冬休みの時期だから、小学生たちが遊んでいるかと思ったのに。ちらりと腕時計を確認すると、二本の針は五時十七分を示している。なるほど、小学生はもう家に帰っておかないといけない時間だ。冬は日が暮れるのも早いのだし。
乾いた音を立てる落ち葉を踏みながら、寂れた木のベンチへと向かう。ここで少しぽんちゃんと遊んでから、あとは来た道を引き返して家へと戻るのだ。
ベンチに座り、持っていたお散歩バッグを脇に置いて足元のぽんちゃんへと手を差し出す。彼は自分に差し出される手はぜんぶ「自分を撫でる手」だと思っているので、嬉しそうに飛び上がって体を擦りつけてくる。まるでゴムボールみたいだ。あんまりはしゃいで飛び上がるから、ときどき勢い余ってポテリと転んでしまう。ちょっとおバカでどんくさくて、けれどとても素直な犬なのだ。きっと拾ってくれた人に似たのだろう。かすかに眉を下げて笑う瑠璃色の髪をした友人を思い浮かべて、万浬はくすりと笑みをこぼした。
ふわふわしたグレーの毛を撫でると、手のひらに伝わるあたたかな体温が気持ちいい。ぽんちゃんも嬉しそうにくるくると回りながらはしゃいだ声で鳴いている。短い足の下で枯れて茶色くなった芝生が小さく揺れる。
犬特有の少し硬い毛並みを感じていると、ふと、そういえばあの頃もこうやって遊んでいたな、と思い出した。古い記憶の蓋がかすかに音を立てて開く。
昔──万浬がまだ小学生だった頃、白石農場には一匹の犬がいた。両親の話によれば結婚した当初に飼い始めたらしく、生まれる前からいたその犬は万浬にとってほとんど兄弟のようなものだった。酪農場の広い敷地の中でボールを投げて遊んだり、兄と一緒に近所を散歩させたり。弟たちの面倒をみるときも、彼がいてくれると弟たちがすぐに泣き止むので助かった。
芸を覚えるのも早くて、お座りも、お手も、待ても、なんだってできた。さらさらとした毛並みがつややかで、撫でると気持ちよかった。自慢の家族の一員だった。
けれど、万浬が小学校の高学年になった頃、つまり酪農場の経営が傾きだしたのと同じくらいの時期に、彼の具合が悪くなった。
きっと歳のせいでもあったのだろう。好きだったボールのおもちゃにもあまり興味を示さなくなり、食欲も落ちて、昼寝ばかりするようになった。「人間で言うと九十歳ちかいおじいちゃんだもんねぇ」と母は困ったように笑っていたけれど、その声が少し湿っていることに万浬は気づいていた。
そして、万浬が中学一年生の夏。嫌味なほど真っ青に晴れた空の日に、彼は眠るようにしてひとつの星になった。
その頃はますます経営が苦しくなっていて、少しずつ牛たちを手放し始めていて、「重なるときには重なるものだなぁ」という父の小さな呟きが鉛のように重かった。どうしたって拭いがたい仄暗さが家の中に立ち込めているようだった。
そんな、あまり思い出したくない時期の出来事だったから。だからいつしか、彼に関する記憶を胸の奥の奥に仕舞い込むようになった。彼の毛のなめらかさも、上手くお手ができたときの誇らしげな瞳も、ボールを投げて一緒に遊んだことも。厳重に箱に詰めて蓋を閉めて、けして簡単に触れないように。
キューン、と少し鼻にかかったような声でぽんちゃんが鳴いた。その小さなマズルをそっと撫でる。気持ちよさそうに細められた目に、かつての彼の姿が蘇る。
ぽんちゃんと出会ってから、胸の奥に仕舞い込んでいた記憶の蓋がたびたび開くようになった。そうして久しぶりに手にした記憶は、仕舞い込んだときの鉛色じゃなくて、どれも柔らかく光る木漏れ日のような色合いをしている。
「ぽんちゃん、すごいよね」
万浬はぽんちゃんの額の模様を指でくりくりしながら呟いた。当のぽんちゃんはきょとんとした顔で首を傾けている。
ぽんちゃんはすごい。お手さえ覚えられないし、トイレの躾もなかなかできなかったけれど。でも貯金箱の鍵やかつての家族の記憶など、失くしていたもの、けれどとても大切にしていたものを連れてきてくれる。
「やっぱり蓮くんに似てるよ」
もう一度静かに呟く。今度はぽんちゃんも、まるで言われたことの意味が分かったみたいにキャンッと嬉しそうに鳴いた。
彼もそうだった。とっくの昔に諦めていた「誰かと一緒になにかをする」ということを彼だけは諦めないでいてくれて、腕を引いて走ってアルゴナビスへと導いてくれた。他人にはなかなか理解されない「お金が好き」というこの性格を、家族のためだからかっこいいとまっすぐに言い切ってくれた。アルゴナビスのドラマーの座を手放してしまいそうなときも、彼の声がそれをこの手に握らせてくれた。
いつだって、自分で諦めてしまっていた大切なものを、まるで当然のことのように、いとも簡単にこの手の中に渡してくれる。
だから自分は、アルゴナビスであれるのだ。
「そろそろ帰ろっか、ぽんちゃん」
脇に置いていたお散歩バッグを持ちながら、万浬はベンチから腰を上げた。
来たときと同じ道を引き返しているだけなのに、足にまとわりつきながら歩くぽんちゃんは相変わらず楽しそうだ。
いや、きっと、帰り道だから楽しいのだ。弾むように歩くぽんちゃんを見つめつつ、万浬は思う。みんなが待つ家に帰る道だから、いつもと変わらない道でも特別で楽しいのだろう。
万浬の心の中を読んだかのように、振り向いたぽんちゃんがキャンッ!と嬉しそうに一吠えした。
優しい夕陽に染まる道に、同じ家に帰るふたりの影が長く伸びている。
前を歩く小さな仔犬に、万浬は苦笑交じりの叫び声を上げた。しんと冷たい空気が肺にしみ入る。一方のぽんちゃんはそんなことお構いなしで、くいくいとリードを引っ張りながら弾むように歩き続けている。よっぽどはしゃいでいるのだろう。万浬は小さく口許を緩めた。
普段、万浬はあまりぽんちゃんのお散歩を担当しない。たいてい夜までバイトが入っているから、ぽんちゃんの散歩の時間である夕方に家にいることが少ないのだ。実際、いつもならこの時間は商店街のスーパーのバイトが入っているのだけれど、今日は同じバイトの人がシフトを代わってくれたのだ。その人は先週どうしても外せない用事があるとかで万浬に代理を頼んできたから、これで貸し借りなしというわけだ。
万浬が手の中のリードの感触を新鮮に感じているのと同じように、きっとぽんちゃんも万浬と一緒の散歩を物珍しいと思って、それではしゃいでいるのだろう。ときどき道端の草や電柱の匂いを嗅ぎつつ、そのたびに何かを伝えるみたいにちらちらと振り返ってくる。嬉しそうにきらきら輝く瞳に、万浬も目を細めて笑った。
今日の散歩コースは、シェアハウスから徒歩五分くらいの小さな公園まで。ぽんちゃんはまだ仔犬だから、あまり遠い場所へは行けないのだ。賑やかな商店街を避けて住宅街を歩いていると、いつもはよそ行きの顔をしている街の裏の顔を見た気分になる。その表裏一体な感じが、街全体が観光都市だった函館と違っているように思う。
どこかの家から漂ってくる醤油の匂いに思わず顔を上げて辺りを見回すと、ぽんちゃんも同じように小さな頭をきょろきょろさせた。
「いい匂いだね」
万浬はぽんちゃんに言う。ぽんちゃんもキャンッ!と高い声で応えた。
すっかり葉を落とした木々とハゲ頭みたいな芝生と申し訳程度の遊具があるだけのその公園に、人の姿は見当たらなかった。冬休みの時期だから、小学生たちが遊んでいるかと思ったのに。ちらりと腕時計を確認すると、二本の針は五時十七分を示している。なるほど、小学生はもう家に帰っておかないといけない時間だ。冬は日が暮れるのも早いのだし。
乾いた音を立てる落ち葉を踏みながら、寂れた木のベンチへと向かう。ここで少しぽんちゃんと遊んでから、あとは来た道を引き返して家へと戻るのだ。
ベンチに座り、持っていたお散歩バッグを脇に置いて足元のぽんちゃんへと手を差し出す。彼は自分に差し出される手はぜんぶ「自分を撫でる手」だと思っているので、嬉しそうに飛び上がって体を擦りつけてくる。まるでゴムボールみたいだ。あんまりはしゃいで飛び上がるから、ときどき勢い余ってポテリと転んでしまう。ちょっとおバカでどんくさくて、けれどとても素直な犬なのだ。きっと拾ってくれた人に似たのだろう。かすかに眉を下げて笑う瑠璃色の髪をした友人を思い浮かべて、万浬はくすりと笑みをこぼした。
ふわふわしたグレーの毛を撫でると、手のひらに伝わるあたたかな体温が気持ちいい。ぽんちゃんも嬉しそうにくるくると回りながらはしゃいだ声で鳴いている。短い足の下で枯れて茶色くなった芝生が小さく揺れる。
犬特有の少し硬い毛並みを感じていると、ふと、そういえばあの頃もこうやって遊んでいたな、と思い出した。古い記憶の蓋がかすかに音を立てて開く。
昔──万浬がまだ小学生だった頃、白石農場には一匹の犬がいた。両親の話によれば結婚した当初に飼い始めたらしく、生まれる前からいたその犬は万浬にとってほとんど兄弟のようなものだった。酪農場の広い敷地の中でボールを投げて遊んだり、兄と一緒に近所を散歩させたり。弟たちの面倒をみるときも、彼がいてくれると弟たちがすぐに泣き止むので助かった。
芸を覚えるのも早くて、お座りも、お手も、待ても、なんだってできた。さらさらとした毛並みがつややかで、撫でると気持ちよかった。自慢の家族の一員だった。
けれど、万浬が小学校の高学年になった頃、つまり酪農場の経営が傾きだしたのと同じくらいの時期に、彼の具合が悪くなった。
きっと歳のせいでもあったのだろう。好きだったボールのおもちゃにもあまり興味を示さなくなり、食欲も落ちて、昼寝ばかりするようになった。「人間で言うと九十歳ちかいおじいちゃんだもんねぇ」と母は困ったように笑っていたけれど、その声が少し湿っていることに万浬は気づいていた。
そして、万浬が中学一年生の夏。嫌味なほど真っ青に晴れた空の日に、彼は眠るようにしてひとつの星になった。
その頃はますます経営が苦しくなっていて、少しずつ牛たちを手放し始めていて、「重なるときには重なるものだなぁ」という父の小さな呟きが鉛のように重かった。どうしたって拭いがたい仄暗さが家の中に立ち込めているようだった。
そんな、あまり思い出したくない時期の出来事だったから。だからいつしか、彼に関する記憶を胸の奥の奥に仕舞い込むようになった。彼の毛のなめらかさも、上手くお手ができたときの誇らしげな瞳も、ボールを投げて一緒に遊んだことも。厳重に箱に詰めて蓋を閉めて、けして簡単に触れないように。
キューン、と少し鼻にかかったような声でぽんちゃんが鳴いた。その小さなマズルをそっと撫でる。気持ちよさそうに細められた目に、かつての彼の姿が蘇る。
ぽんちゃんと出会ってから、胸の奥に仕舞い込んでいた記憶の蓋がたびたび開くようになった。そうして久しぶりに手にした記憶は、仕舞い込んだときの鉛色じゃなくて、どれも柔らかく光る木漏れ日のような色合いをしている。
「ぽんちゃん、すごいよね」
万浬はぽんちゃんの額の模様を指でくりくりしながら呟いた。当のぽんちゃんはきょとんとした顔で首を傾けている。
ぽんちゃんはすごい。お手さえ覚えられないし、トイレの躾もなかなかできなかったけれど。でも貯金箱の鍵やかつての家族の記憶など、失くしていたもの、けれどとても大切にしていたものを連れてきてくれる。
「やっぱり蓮くんに似てるよ」
もう一度静かに呟く。今度はぽんちゃんも、まるで言われたことの意味が分かったみたいにキャンッと嬉しそうに鳴いた。
彼もそうだった。とっくの昔に諦めていた「誰かと一緒になにかをする」ということを彼だけは諦めないでいてくれて、腕を引いて走ってアルゴナビスへと導いてくれた。他人にはなかなか理解されない「お金が好き」というこの性格を、家族のためだからかっこいいとまっすぐに言い切ってくれた。アルゴナビスのドラマーの座を手放してしまいそうなときも、彼の声がそれをこの手に握らせてくれた。
いつだって、自分で諦めてしまっていた大切なものを、まるで当然のことのように、いとも簡単にこの手の中に渡してくれる。
だから自分は、アルゴナビスであれるのだ。
「そろそろ帰ろっか、ぽんちゃん」
脇に置いていたお散歩バッグを持ちながら、万浬はベンチから腰を上げた。
来たときと同じ道を引き返しているだけなのに、足にまとわりつきながら歩くぽんちゃんは相変わらず楽しそうだ。
いや、きっと、帰り道だから楽しいのだ。弾むように歩くぽんちゃんを見つめつつ、万浬は思う。みんなが待つ家に帰る道だから、いつもと変わらない道でも特別で楽しいのだろう。
万浬の心の中を読んだかのように、振り向いたぽんちゃんがキャンッ!と嬉しそうに一吠えした。
優しい夕陽に染まる道に、同じ家に帰るふたりの影が長く伸びている。