短編
灯火のもとに夜な夜な来たれ鬼我がひめ歌の限りきかせむ(江戸時代の歌人 橘曙覧の歌)
寒い寒いと思っていたら雪が降り始め、終いにはうっすらと積もってきてしまった。暦の上では明日から春と言ったところで実感には程遠い。はあ、と吐いた息は白く、けれどすぐに夜の闇に融けてしまう。
南国から帰ったばかりの体には堪える寒さだった。寒いのが特段苦手という訳ではないが、どちらかと言えば夏の暑さの方が性に合う。だらだらと汗をかくほどの熱が恋しい。
外套(コート)の前を合わせて、エースは道を急いだ。窮屈にタイを締めた首もとが息苦しい。けれど一張羅を誂えるのに付き合わせた男にその姿を一度も見せていないというのも決まりが悪くて、一目見せるまではと堪えている。
「鬼はぁ~外!福はぁ~内!」
どこからか子供の声が響いてくる。この寒いのにわざわざ窓を開けて豆撒きとはご苦労なことだ
反射的な考えには意図せず皮肉が混じる。節分だからと豆撒きなんかしたことはない。効き目の分からないまじないよりも、今日の飯を食うことの方がずっと大事だった。
“鬼の子”と呼ばれて育ったことも今となっては何とも思っていないつもりだが、悪意のない“鬼は外”にいちいち反応してしまうのだから本当の意味で割り切れたとは言えないのだろう。
目的地に着く頃には空から綿を固めたような雪が次から次へと落ちてくるようになっていた。これは根雪になるかもしれない。
まあ、帰れなくても問題ないか。
予告なしの訪問にも関わらずそう考えながらエースは立派な門を潜った。
屋敷の玄関の両脇を飾るように植えられた松の枝の手入れが行き届いているのを見て、まだ家主は生きているらしいと安心する。豪邸に住みながら人を近付けようとしない、かといって生活能力もないのだから彼を知る人間が心配することは皆同じだった。
見渡すほど広大な屋敷でありながら、不安になるほど人の気配を感じない。御守りのように外套(コート)に突っ込んでいた合鍵で玄関を開けるとエースは無言のまま屋敷に上がり込み、どこまでも続く廊下をまっすぐに歩いていく。夜目が利かなければ明かりを求めてここで引き返しているところだ。
屋敷の一番奥、そう大きくもない和室からひっそりと明かりが漏れている。滅多に外出をしないがその可能性が皆無ではなかったので、所在が分かることにほっと安堵する。
遠慮なぬ半開きの襖を開けると薄赤い照明が影をつくる室内の様子が視界に飛び込んでくる。
畳の上のとうに炭が白く尽きた火鉢、飴色の文机、転がったままのペン、散乱した原稿用紙、その中でなぜか着流しに外套を羽織ったまま寝転んでいる屋敷の主――サボ。
「……何やってんだ」
思わず声をかけるともぞりと身を起こしたサボが夢心地に笑った。
「エースだぁ」
滅多にない、ふわふわした声音。丸縁の眼鏡の向こうの目が笑うように細められる。
「酔ってんのか?」
酒の気配はないがあえて訊ねるとサボは緩く首を振った。
「寒くて死ぬかと思った……」
「……だろうな」
二月に炭ひとつ起こさないでよく過ごしていられるものだ。
「ったく、だから人を雇えって言ってるだろうが」
「やだよ。他人と暮らすなんてお前以外無理」
文句を言いながら火鉢に炭を足して火を入れると、凍死しかけていた人間とは思えない我が儘が返ってくる。
「飯は?」
「ばあさんが作っていった。まだ残ってるぞ」
「別に腹は減ってねェ」
通いでやってくる老婆に食事の面倒だけは見てもらっているが、それだけだ。これだけの屋敷を維持するのは手間も暇もかかるというのに、そのつもりもないらしい。折り合いの悪い息子を勘当するに当たって、親が手切れ金代わりに寄越した屋敷だ。息子自身もさほど思い入れはないのだろう。潰れるなら潰れてしまえ、そんな投げやりさが窺える。
「何書いてんだ?」
「新聞社から依頼された原稿……もう飽きた」
「いや、飽きるなよ」
帝国大学を卒業した秀才だというのに、いっそ恐ろしいほどの無為、無欲だ。若くして世捨て人の風格すら漂っている。その才を持て余すことを良しとしない人間がどれほど引っ張ろうとしても本人に立身の志がないのだからどうしようもなかった。とにかく屋根のある屋敷に住み、己ひとりが食うに困らないだけの稼ぎがあればいいと思っている。
炭の火がじわじわと部屋を暖めると、やがてサボはのそりと身を起こした。ようやくエースの格好に気付いたのか「それ」と指差す。
「おう、まだ見せてなかったからな。似合ってるだろ」
「おれが選んだんだから当然だろ」
もっと目を輝かせてくれることを期待していたが何とも素っ気ない返答だ。けれどエースがタイを緩めようとしたらそれは止められたので、サボなりに気に入ってはいるのかもしれない。
「どこに行ってたんだ?」
「インド」
「へェ、おもしろそう。……土産は?」
「ほらよ」
「何だ?」
「香辛料。高級品だからな」
「……使い方分かんねェよ」
「ばあさんに任せりゃいいだろ」
「ばあさんにインドの飯は作れねェだろ」
「……なぁ、サボ」
「何だ」
「おれたちのところに来る気はねェのか?」
そう訊ねると、サボの表情が急に強張る。けれどここで引いては今までと同じだ。海外にしている間、サボの生活を考えてやきもきする羽目になる。
「オヤジもみんなも、お前なら頼りになるって言ってる。言葉だっておれよりずっとできるだろ?」
出任せではない。事業を広げるオヤジ――白ひげの会社はいつでも人手を求めているし、それが優秀な人間であれば尚更だ。
だがサボは決して首を縦には振らない。
「……お前らみたいな身軽な生き方、おれには向いてねェよ」
本心でないおざなりな言葉で交わされてしまう。この部分においてのみ、兄弟の誓いを交わし、恋人ですらある男の本音が見えなくて、エースはやきもきする。
追及をかわすように、サボが障子をあけて窓の外を見た。
「……雪が降ってたんだな」
寒いというのに、窓を開ける。庭の木や植え込みはもう夜目にも分かるほど白く染まっている。
どこからか声が聞こえた。
「鬼はぁ~外!……」
さっきの子供だろうか。それとも違う家から響く声か。耳を凝らす間もなくさっさと窓は閉められてしまう。障子が閉まると、部屋の中は静寂に支配された。
しゅ、と布が畳の上を滑る音が耳を打つ。
着流しのままのサボがエースの顔を覗いた。合わせの乱れた胸元につい目がいくと、サボは下心を見透かしたようにくっと喉の奥で笑った。すらりとした指がエースのタイにかかりあっという間に結び目をほどいてしまう。
「すんの?」
「しねェの?」
問い掛ければ遊ぶように問い返される。その間にもサボの指はせわしなく動き、エースのシャツの釦を外していく。答えは明白だった。
「自分が選んだ服を脱がせるのっていいよな」
「……これから泣かされる奴の言うことかよ」
サボはふっと笑った。わざとらしいほど婀娜(あだ)な表情。
乗せられてしまうのが腹立たしくて、けれど抗う術を持たないエースは乱暴にその鼻に乗った眼鏡を取り払う。硝子の向こうでぼやけていた宵闇の色の瞳があらわになる。帯をほどけばいとも簡単に一糸纏わぬ身体が表れて、触れれば火鉢などよりずっと温い熱を与えてくる。
冷えた唇を重ねると、その奥から溶けそうなほどの熱が溢れた。
寒い寒いと思っていたら雪が降り始め、終いにはうっすらと積もってきてしまった。暦の上では明日から春と言ったところで実感には程遠い。はあ、と吐いた息は白く、けれどすぐに夜の闇に融けてしまう。
南国から帰ったばかりの体には堪える寒さだった。寒いのが特段苦手という訳ではないが、どちらかと言えば夏の暑さの方が性に合う。だらだらと汗をかくほどの熱が恋しい。
外套(コート)の前を合わせて、エースは道を急いだ。窮屈にタイを締めた首もとが息苦しい。けれど一張羅を誂えるのに付き合わせた男にその姿を一度も見せていないというのも決まりが悪くて、一目見せるまではと堪えている。
「鬼はぁ~外!福はぁ~内!」
どこからか子供の声が響いてくる。この寒いのにわざわざ窓を開けて豆撒きとはご苦労なことだ
反射的な考えには意図せず皮肉が混じる。節分だからと豆撒きなんかしたことはない。効き目の分からないまじないよりも、今日の飯を食うことの方がずっと大事だった。
“鬼の子”と呼ばれて育ったことも今となっては何とも思っていないつもりだが、悪意のない“鬼は外”にいちいち反応してしまうのだから本当の意味で割り切れたとは言えないのだろう。
目的地に着く頃には空から綿を固めたような雪が次から次へと落ちてくるようになっていた。これは根雪になるかもしれない。
まあ、帰れなくても問題ないか。
予告なしの訪問にも関わらずそう考えながらエースは立派な門を潜った。
屋敷の玄関の両脇を飾るように植えられた松の枝の手入れが行き届いているのを見て、まだ家主は生きているらしいと安心する。豪邸に住みながら人を近付けようとしない、かといって生活能力もないのだから彼を知る人間が心配することは皆同じだった。
見渡すほど広大な屋敷でありながら、不安になるほど人の気配を感じない。御守りのように外套(コート)に突っ込んでいた合鍵で玄関を開けるとエースは無言のまま屋敷に上がり込み、どこまでも続く廊下をまっすぐに歩いていく。夜目が利かなければ明かりを求めてここで引き返しているところだ。
屋敷の一番奥、そう大きくもない和室からひっそりと明かりが漏れている。滅多に外出をしないがその可能性が皆無ではなかったので、所在が分かることにほっと安堵する。
遠慮なぬ半開きの襖を開けると薄赤い照明が影をつくる室内の様子が視界に飛び込んでくる。
畳の上のとうに炭が白く尽きた火鉢、飴色の文机、転がったままのペン、散乱した原稿用紙、その中でなぜか着流しに外套を羽織ったまま寝転んでいる屋敷の主――サボ。
「……何やってんだ」
思わず声をかけるともぞりと身を起こしたサボが夢心地に笑った。
「エースだぁ」
滅多にない、ふわふわした声音。丸縁の眼鏡の向こうの目が笑うように細められる。
「酔ってんのか?」
酒の気配はないがあえて訊ねるとサボは緩く首を振った。
「寒くて死ぬかと思った……」
「……だろうな」
二月に炭ひとつ起こさないでよく過ごしていられるものだ。
「ったく、だから人を雇えって言ってるだろうが」
「やだよ。他人と暮らすなんてお前以外無理」
文句を言いながら火鉢に炭を足して火を入れると、凍死しかけていた人間とは思えない我が儘が返ってくる。
「飯は?」
「ばあさんが作っていった。まだ残ってるぞ」
「別に腹は減ってねェ」
通いでやってくる老婆に食事の面倒だけは見てもらっているが、それだけだ。これだけの屋敷を維持するのは手間も暇もかかるというのに、そのつもりもないらしい。折り合いの悪い息子を勘当するに当たって、親が手切れ金代わりに寄越した屋敷だ。息子自身もさほど思い入れはないのだろう。潰れるなら潰れてしまえ、そんな投げやりさが窺える。
「何書いてんだ?」
「新聞社から依頼された原稿……もう飽きた」
「いや、飽きるなよ」
帝国大学を卒業した秀才だというのに、いっそ恐ろしいほどの無為、無欲だ。若くして世捨て人の風格すら漂っている。その才を持て余すことを良しとしない人間がどれほど引っ張ろうとしても本人に立身の志がないのだからどうしようもなかった。とにかく屋根のある屋敷に住み、己ひとりが食うに困らないだけの稼ぎがあればいいと思っている。
炭の火がじわじわと部屋を暖めると、やがてサボはのそりと身を起こした。ようやくエースの格好に気付いたのか「それ」と指差す。
「おう、まだ見せてなかったからな。似合ってるだろ」
「おれが選んだんだから当然だろ」
もっと目を輝かせてくれることを期待していたが何とも素っ気ない返答だ。けれどエースがタイを緩めようとしたらそれは止められたので、サボなりに気に入ってはいるのかもしれない。
「どこに行ってたんだ?」
「インド」
「へェ、おもしろそう。……土産は?」
「ほらよ」
「何だ?」
「香辛料。高級品だからな」
「……使い方分かんねェよ」
「ばあさんに任せりゃいいだろ」
「ばあさんにインドの飯は作れねェだろ」
「……なぁ、サボ」
「何だ」
「おれたちのところに来る気はねェのか?」
そう訊ねると、サボの表情が急に強張る。けれどここで引いては今までと同じだ。海外にしている間、サボの生活を考えてやきもきする羽目になる。
「オヤジもみんなも、お前なら頼りになるって言ってる。言葉だっておれよりずっとできるだろ?」
出任せではない。事業を広げるオヤジ――白ひげの会社はいつでも人手を求めているし、それが優秀な人間であれば尚更だ。
だがサボは決して首を縦には振らない。
「……お前らみたいな身軽な生き方、おれには向いてねェよ」
本心でないおざなりな言葉で交わされてしまう。この部分においてのみ、兄弟の誓いを交わし、恋人ですらある男の本音が見えなくて、エースはやきもきする。
追及をかわすように、サボが障子をあけて窓の外を見た。
「……雪が降ってたんだな」
寒いというのに、窓を開ける。庭の木や植え込みはもう夜目にも分かるほど白く染まっている。
どこからか声が聞こえた。
「鬼はぁ~外!……」
さっきの子供だろうか。それとも違う家から響く声か。耳を凝らす間もなくさっさと窓は閉められてしまう。障子が閉まると、部屋の中は静寂に支配された。
しゅ、と布が畳の上を滑る音が耳を打つ。
着流しのままのサボがエースの顔を覗いた。合わせの乱れた胸元につい目がいくと、サボは下心を見透かしたようにくっと喉の奥で笑った。すらりとした指がエースのタイにかかりあっという間に結び目をほどいてしまう。
「すんの?」
「しねェの?」
問い掛ければ遊ぶように問い返される。その間にもサボの指はせわしなく動き、エースのシャツの釦を外していく。答えは明白だった。
「自分が選んだ服を脱がせるのっていいよな」
「……これから泣かされる奴の言うことかよ」
サボはふっと笑った。わざとらしいほど婀娜(あだ)な表情。
乗せられてしまうのが腹立たしくて、けれど抗う術を持たないエースは乱暴にその鼻に乗った眼鏡を取り払う。硝子の向こうでぼやけていた宵闇の色の瞳があらわになる。帯をほどけばいとも簡単に一糸纏わぬ身体が表れて、触れれば火鉢などよりずっと温い熱を与えてくる。
冷えた唇を重ねると、その奥から溶けそうなほどの熱が溢れた。