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金色の灯、赤の契り

赤の契り2

翌朝、シーツの冷たさで目を覚ますと宿の食堂で朝食を取った。
二年前はエースとサボ二人きりだった空間に、今はぱらぱらと客がいる。
昨日の女は給仕として忙しく立ち回っている。
身重だということを感じさせないような身軽さだった。
腕に重ねた皿をサボのテーブルにとんとんと置いていく。
「その様子だと昨晩は一人で過ごしたみたいですね」
仕事の手は止めないまま、そう話しかけてくる。ともすれば語弊を招きそうな言い草だが他意はない。
「そうだな」
肩をすくめて肯くと「焦らないで、昨日来なくても今日は来てくれるかもしれないもの」と励まされた。
「やっぱり、ただの言い伝えじゃないのか?」
投げやりな気分混じりに訊くと、女は気にした様子もなく首を振った。
「そんなことないわ。この島ではごくごくありふれた、貴方がたの現実と何も変わらないことよ。でも、貴方の待つ人が貴方を訪ねて来ないとしたら、そうね。貴方の気持ちの持ち方次第かもしれない」
「気持ち?」
「貴方はその人に会ってどうしたい? 抱きしめたい? キスしたい?」
そう問われたが、恋人だと言っていいのだろうか。ただひとつの名をつけるのは難しい。あいつは遠い日に盃を交わした兄弟で、たった一度だけ、この島で体を重ねただけの、大切な。
会えたらどうしたいかなんて、訊かれるまでもない。
「……謝りたい」
ずっと思ってきた。けれど、口にするのは初めてだ。願いですらない、身勝手な欲求。
記憶を取り戻したあの日から、後悔がずっと付きまとっている。
十年もの間記憶をなくしてのうのうと生き、その代償に一番大切なものを失った。
エースにもう一度会って、謝りたかった。
許されなくてもいい。ただ、ごめんとそれだけ伝えたい。
サボの言葉に、女は眉を下げた。
「そういう人を、たくさん見てきたわ。でも、きっとそれではその人は還って来ない」
「どうして」
「だってきっと、その人、貴方に謝られたくなんてないはずよ」
「知ってるみたいに言うんだな」
「貴方を見れば分かるわ。貴方が会いたい人がどんな人で、貴方のことをどう想っているか」
確信めいた言葉だった。サボのこともエースのことも、その立場すら知らないはずなのに。
「そういうのが分かるのも、この島の不思議な力って奴なのか?」
女はいいえ、と首を横に振った。
「どちらかと言えば、経験則ね。ここには毎日色んな思いを抱えた人が来るから」
「おれはどうしたらいい」
「ただ、願って。貴方の大切な人に会いたいって」


ずっと考えていた。
もし、もう一度会えたら何を伝えようか。
考えても考えても、出てくるのは後悔や贖罪の言葉ばかりだった。
それなのに、そんなものは必要ないと女は言う。
会いたい。
その思いはとっくにサボの中に根付いていてそれだけを願えと言われる方が難しい気がする。
部屋に戻ってランタンにまた火を灯した。
外はまだ静かだ。夜が来るまではすることもない。
サボの炎でありエースの炎でもある小さな金色がガラスの箱の中で静かに揺らめく。
今となっては、これだけがサボとエースを繋ぐ唯一のものだ。
自分そのものでありながら、手を離れてしまえば形がなく、どうしようもなく頼りないものに思える。

会いてェよ、エース。
謝りたいからっていうのがダメなら何だっていい。
殴っても、燃やしてもいいから。
だってその後、おれたちは昔みたいに他愛ないことで笑い合えるだろ?
おれたちの間には切れない絆があるんだから。

らゆらと揺れる炎に誘われるようにサボはいつの間にか眠りの淵に沈んでいった。



どれほど時間が経っただろうか。
人の気配を感じて意識が浮かび上がる。
眠っていたらしい、とここで初めて自覚する。
さらりと髪に触れる手の感触があった。
ゆっくりと目を開くと、ゆらりと滲む視界の真ん中に覚えのある黒髪が映った。
「え、……す」
呼ぼうとした声は掠れていた。
寝起きのせいばかりではない。鼻の奥がつんと痛い。
その姿をちゃんと見たいと思うのに、見ようとするほど視界はひどくぼやけた。
「おう、おはよ」
涙の膜の向こうでエースが笑った。ぐしゃぐしゃとサボの頭を撫でる。
ああだめだ、めちゃくちゃかっこ悪いと思うのに一度出てしまうと蛇口を開いたみたいに涙も鼻水も止まらない。
「泣くなよ」
笑いを含んだ声は優しい。サボの考えていることなんかお見通しのはずだ。
「ごめん」
エースの胸にしがみついて、叫ぶように吐き出した。
エースが欲しいのはこれじゃない。
分かっていても何百回、何千回繰り返した言葉は唇から自然に溢れた。
ごめん、ごめん。
何度も何度も繰り返す。
忘れてごめん。
思い出せなくてごめん。
何もできなくてごめん。
胸に頭を押しつける。そうやって触れられるのに、触れた手は温かいのに、剥き出しの肌から鼓動だけが聞こえない。
「なァ、泣くなって」
エースが困ったような気配を見せる。
「ルフィをあやすの、お前の役割だっただろ」
「お前の方が、ルフィと、ずっと一緒にいただろ……ずりぃ」
「ずりぃって……そうじゃなくて、お前を泣き止ませる方法、おれは知らないんだ」
ぐずぐずと鼻を啜っていると、エースは心底困ったふうに頭をかいた。
「ああもう、しょうがねェな」
ぐい、と両手で頬を掴まれて無理やりエースと向き合う。
そのまま頬を引っ張られそうになったので止めた。サボがいなくなった後、ルフィをどうやって泣き止ませていたのか分かるような気がする。
サボの両頬に手を置いたまま、エースはにっと笑った。
「でっけえ目」
「……よく言われる」
「そんなに泣いたら落っこちそうだな」
「それは初めて言われた」
「人前で泣いたりしなさそうだもんなあ、お前」
楽しそうに笑って、ごつんと額に額をぶつけてくる。
痛ェ。
こつん、程度じゃないのか。こういうときは。
「あのな、サボ。よく聞け」
けれど一瞬の痛みを気に留める間もなくエースが真面目な口調になる。サボも思わず姿勢を改めた。
「お前はおれを死なせたんじゃない。生かしたんだ」
「え……」
額をくっつけ合ったまま、吐く息さえ伝わる距離でエースが言う。大切に、慈しむように。
「おれの親が誰か、知ってるだろ。お前に会うまでずっと、おれは自分が生きてていいのかさえ分からなかった。でも、お前に会って、少しずつ楽しいって思うことが増えて……それでルフィにも会えた。海に出てからは海賊団の仲間にも」
エースは一旦言葉を区切った。慎重に言葉を選んでいるような気配。自分の内側にあるものを間違えずに伝えるための。
「いつもお前のことが頭から離れなくて……生きてたらどうしてただろうとか、一緒に海に出たかったとか、どうしたら助けてやれたんだろうとか、そんなことばっかり考えてた」
すぐ目の前にエースの顔がある。
「でも時間を戻すことはできねェから、ならせめて、お前の分まで自由に生きようって」
その顔を歪ませる感情の名前は、サボもよく知っている。
そろそろと目を上げると、エースの真っ直ぐな視線と痛いくらいに見据えられる。
「同じだな、おれたちは。サボがごめんって謝るなら、おれも同じだけお前に謝らなきゃいけない」
エースがそんなことを言う必要はない。サボはぎゅ、と目を閉じた。
「そんなの……だって、おれは生きてる」
そうだな、とエースが肯く。
「生きててくれて良かった。でも、子供すぎて何もできなかったおれの後悔は消えねェ」
エースはくっついたままの額を離した。つんのめるように前屈みになったサボをそのまま抱きとめる。
「何なら、後悔の時間はおれの方が長いからな。多分謝り倒すだけで夜が明けるぞ」
ずっとサボのことを考えていたと、その言葉が嘘ではないことはサボにも分かる。サボに打ち明けるエースの言葉からは、苦悩の果てに辿り着く穏やかさを感じる。
腕が緩められてエースがサボの顔を覗き込む。
「涙、引っ込んだな」
そう言って笑ったかと思うと、ぐいとサボの目元に残った涙の痕を拭う。慣れた仕草だった。
「……兄ちゃんみたいだな」
「兄ちゃんだからな」
記憶よりずっと板についた兄貴ぶりだ。サボがいなくなってからの七年、ルフィとどんなじかんを過ごしたのだろう。
「そういえば、ルフィにも会った」
「ヘェ、良かったな」
ドレスローザでのことをごく簡単にかいつまんで伝えると、自分のことのように喜ぶ。
「おれのこともまだ、兄って呼んでくれるみたいだ」
「当たり前だろ。おれとサボとルフィで兄弟だ。ああ、でも長男の座はおれがもらってもいいかもな?」
盛大に泣いて慰められたことを指して、エースがにやりと笑う。
しまった、良くない貸しをつくってしまった。けれどそれは認めない。サボは唇を尖らせた。
「それとこれとは別だ」

眠っている間にそれなりの時間が過ぎていて、外はもう薄暗い。
もうすぐ街が賑わう頃だろう。
不意にパァンと、外で弾けるような音が聞こえた。
それから、窓の外がにわかに明るく騒がしくなる。
「喧嘩か?」
前にもそんなことがあった。思い出していると、エースは笑って「いや、違うな」と言った。
「祭りだろ」

街は昨日よりずっと賑やかだった。今日が祭りとやらの本番らしい。
サボとエースは連れ立って宿を出た。宿から広場までを並んで歩く。
もう陽は沈んでいて、大方の人は広場に繰り出しているらしい。遠くでさざめき合うような声が聞こえる一方、行き交う人はまばらだった。
ランタンは部屋に置いてきた。「おれはもうここにいるからな」とエースが言うから。
本当に自分を呼ぶ火が見えるのかと訊ねると、エースは頷いた。
「でも、おれは特別かもな。呼んでくれたのがお前の炎だったから」
自分と同じ炎を見つけるのは簡単だったと言う。その言葉が、確かにエースが彼岸を渡った人間なのだと実感させるのが切ない。
「自分の能力に未練なんてなかったが、でもうれしいもんだな。お前が受け継いだっていうのは」
「どうしても、おれのものにしたかったからな。ルフィも協力してくれたし」
「熱烈だな」
「愛してるからな」
軽口を叩くと、歩く傍らで唇が唇を掠めていった。サボが顔を赤くするとエースがしてやったりと肩を叩く。
不思議な距離感だった。
兄弟と呼ぶより親密で恋人と言い切れるほど甘くない。
ゴア王国で過ごした五年に、この島で触れ合った二年前の一日がたしかに上乗せされている。
互いにそれが自然だと感じている。

「おお、盛り上がってんな」
エースが声を上げる。その声があまりにも嬉しそうで思わずサボは笑ってしまった。
「……何だよ」
「いや、楽しそうだなって」
「そりゃァな。祭りは宴! 二年ぶりだからな!」
子供の頃はどちらかと言えば馴れ合うことを嫌っていたのに、自分から喧騒の中に突っ込んでいく。それは海賊らしいといえばそうだし、エースの変化としても好ましい。
だからと言って、一人でどんどん先へ行ってしまうのは戴けない。
「置いてくなよ」
後ろからエースの手を掴むと、「おう」とその手を強く引かれる。
子供の頃に戻ったようだった。
ルフィがやってくる前は悪ガキ二人で山を駆け回っていた。
その最中で道に迷ったことも、突然の土砂降りに打たれたことも一度や二度ではない。互いに頼れる大人がいない身の上で、お互いが拠り所だった。ルフィが混ざってから関係は兄二人に弟一人にかたちを変えて行ったが、根底にその経験があるのは間違いなかった。

広場は昨日にも増して、ランタンの金色の灯りで満たされていた。
星のようにも見えるランタンが頭の上、木の枝と枝を結ぶように掲げられ、その下で人々が歌いさざめき、あるいは飲み食いをしている。
流れるような弦楽器が情緒的に流れていた。
その音にあわせるように、手を取り合って踊っている男女も。
屋台はどこも人でごった返していたので、手頃なところで酒と食事を調達すると並んで広場の隅の木の根本に座り込んだ。
少し離れたところから見る広場の喧騒は、夢の中の光景のように見える。
誰もサボとエースのことは気にしていない。
ふわりとした現実感のなさに戸惑いを覚えると、ぐいと強く肩を抱かれた。
「飲むぞ」
有無を言わせない強さで、エースが瓶を掲げる。頷いて、カチンと杯の端を合わせる。一気に飲み干すと、心地いい熱さが喉を過ぎていった。
「向こう、行かなくていいのか」
宴だとはしゃいでいたのにと訊ねると、エースはきっぱり「いい」と言う。
「お前といる方が大事だろ」
酒を飲み、飯を食いながら戯れのように時折触れ会った。手を絡めたり、キスをしたり。
酔いを言い訳にできるような軽さで行われるそのひとつひとつが触れたところから火傷のように体に熱を残す。
用意した全てを平らげる頃には、飲み食いよりも触れ合う方が大事になっていた。
「……帰るか」
「……おう」
先に言い出したのがどちらかは分からない。
酔いと劣情に煽られて、ふらふらと立ち上がり宿へ戻る道を辿る。

部屋に戻ると、ランタンの灯りだけが変わらずに揺らめいていた。
その小さな灯りだけを頼りにベッドに雪崩れ込む。
はぁ、と熱を帯びた息が頬に触れて、無理やり抑えていた情欲を引き摺り出す。
エースの手が躊躇いなくサボの首元のタイを引き抜いた。大きな手が無遠慮にシャツのボタンを外していく。晒された肌が空気の冷たさを感じる間もなく熱い肌が覆い被さってきた。
元から上裸のエースは脱がせるところが少なすぎる。不満に思って剥き出しの肌に吸い付くと、エースは微かに身を捩った。
「こら」
嗜められたので、首に腕を回してキスをした。
すぐに舌が絡み合って、互いの内側を貪るように深くなる。
体中が燃えるように熱い。
どこか一箇所くらい炎になってしまっていてもおかしくないな、と酔いと快感に溶けた頭で思う。
エースはきっとそんなへまはしない。誰より上手く炎を操る男だ。
おれも早く慣れないと。
でも今は、この熱だけを感じていたい。
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