金色の灯、赤の契り
金色の灯3
エースが名前を呼ぶと思った以上にびっくりされた。
どうしておれの名前を知っているのだと。
どうやら今でもサボ、という名前は変わらないらしい。
名前だけでも覚えていたのかと訊ねると、覚えていない、持ち物に書いてあった名前をそのまま名乗っているのだという。
自分の名前すら覚えていないのなら、エースのことを覚えていないのも無理からぬことだった。
目の前の兄弟が生きているのか死んでいるのか、それはどうでもいいことに思えた。
それ以上に、サボが何の記憶も持っていないことの方がエースの心を打ちのめした。
貴族の生まれであることを厭い、「不確かな終着駅」に住み着いていた少年。
そうでなければ、同じ国にいてもエースとサボの人生は決して交わることはなかったはずだ。
サボにとって、あの国で育ったことは忘れてしまいたいほど嫌な事実だったのかもしれない。
自分やルフィとの思い出もそうなのか?
訊ねたかったが、このサボに訊いても答えは持っていないのだ。
宿に戻ると、別々にとっていた部屋をひとつにまとめた。
どちらから言い出したことでもないが、その方がいいような気がして。
受付のばあさんはエースとサボを交互に見比べ、口元を緩めるみたいにしてほんの少し笑った。
「積もる話があるだろう」
そう言って、半ば強引に酒の瓶とグラスを二つ、持たされる。
ベッドの二つ入った部屋に移動して、それぞれのベッドに向かい合うようにして座る。
言葉は少なかった。
サボはずっと何かを考えているようだった。
言いたいことは山ほどあるが、エースも口を開かない。
エースの知るサボの生い立ちを言葉で伝えるのはそう難しいことではない。
けれどサボはそれを望んでいないだろうし、エースもそういうかたちで伝えるのは違うと思う。
小さなテーブルの上には先程持たされた酒の瓶がある。
だが、気詰まりなのはお互い様で、堪え切れず先に動いたのはエースだった。
「あー……、とりあえず飲むか」
誘うと、サボは緩く頷く。
ラベルを見ると、随分強い蒸留酒だった。
それでいいのかもしれない。
多少なりとも酔わなければ、この先何かを話すことは難しいように思われた。
二つの小さなグラスに酒を注ぎ、そのうち一方をサボに渡す。
さらりとした琥珀色。
サボは黙って受け取り、そのままエースのグラスと己のグラスの角をカチンと合わせた。
ぐっと煽ると喉を焼くように存在を主張しながら液体が喉を滑り落ちていく。
弱いわけではない。
昨晩の様子を思い出す限り、サボもそうだろう。
それでもこのボトルを二人で開けるとなれば、それなりに酔いが回る。
そういう酒だ。
代わる代わる瓶を手にし、互いのグラスに酒を注ぎ合う。
酔いを求めているのだから、ペースは早い。
「……何、考えてる?」
エースがようやくそう切り出せたのは瓶の中身が半分に減った頃合いだった。
「さっき言ったのと同じだ。おれはどんな人間だったんだろうって」
記憶を失う前のことを言っているのだろう。
けれど、エースから見る限り、今のサボがエースの知るサボと大きくかけ離れた人間だとは思えない。
強くて情に厚い、エースが誰より信頼していた少年の延長にこの青年がいる。
「お前は、いい奴だった。いや、今もいい奴なんだろうな」
「……どうかな」
「そうに決まってる。おれにとって大事な奴だった。……誰より」
サボはそれを聞くと苦しげに顔を歪めた。
「そんな大事な奴のこと、どうしておれは忘れちまったんだろうな……」
「サボのせいじゃねえだろ」
「分からない……時々思うんだ。もしかしたらおれ自身が忘れることを選んだんじゃないかって」
サボの口からそれを聞くのは苦しかった。
「そうだとして、何が問題なんだ」
「知らないことが罪になることもある。お前のことを何ひとつ覚えていないおれはどうやってお前の知るおれだと証明できる?」
エースにしてみれば、それこそ「知ったことか」という話だ。
「お前はガキの頃からおれたちより頭良かったからなァ。おれなんか記憶があったって分かんねぇことばっかりだよ。今おれとお前がここにいる。それだけでいいだろ」
理屈を並べようとするほど面倒になる。どれほど言葉を尽くそうとしたって、エースの語彙では一番大切なことを伝えるのは難しい。
それでも何とか気持ちを伝えたくてそう言うと、サボはふっと表情を緩めた。
「口説き文句みたいだな」
そうかもしれない。
女を口説くようなことにだって慣れていないのに、サボにはこんな、恥ずかしくなるような言葉を吐いている。
杯を交わした義兄弟と、例えば教会で永遠の誓いを交わす恋人へ向ける想いが違うとどうして言える?
恋人たちが触れ合うことで熱を伝える方が、言葉よりずっと簡単に違いない。
そう、触れて伝わることがあるはずだ。
酔った頭ではそれがごく当たり前のことに感じられた。
思ったままに手を伸ばしてサボの頬に触れる。
サボは拒むそぶりを見せなかった。
ベッドサイドに座ったまま、覆いかぶさるように立ち上がったエースを見上げる。
「おれは男だぞ」
ごく単純な確認をするようにそれだけ問われた。
そんなことはもちろん知っている。
エースも訊いた。
「逃げるなら今のうちだぞ」
「逃げねぇよ」
サボは当たり前みたいに言う。
本当は臆病なエースの心のうちを、幼い頃のサボはよく知っていた。
今は忘れているはずなのに、分かっているみたいだ。
ただ向かい合っているだけで、エースの心は不思議と落ち着く。
サボが触れた手に手を重ねた。
「教えてくれ。お前のこと。まだ名前も知らねェ」
かすめるみたいに唇を寄せると、ぎゅうと抱きつかれる。
引き合うように深い口づけをする。
交わる息の合間で「エース」と名乗ると、ささやくように呼びかけられる。
「エース」
秘密を交わした子供のような悪戯めいた響きだった。
「サボ」
それしか言葉を知らないように、互いの名前を呼ぶ。
たったそれだけのことが、信じられないほど嬉しい。
幼い頃に何度も夢に見た、叶わないはずの願いだった。
血は繋がらないが兄弟で家族で、今はもっと深いつながりを求めている。
そういう欲求が自分にあったことを、こうなって初めて自覚しているのがおかしかった。
エースが求めていることをサボが正確に理解してくれているのが分かる。エースもサボの考えていることが分かる。
エースの手が不埒な動きを見せても拒む様子は見られない。
この行為はどんな意味を持つのだろう。
今のエースとサボの関係にはどんな名前がつくのか。
それが何でも構わなかった。
サボにとってのエースが、一夜限りの行きずりの相手でも。
服を脱ぎ捨てて、肌が触れあう。
子供の頃は思いもしなかった、単純で野蛮で本能的な行為。
こういうやり方で熱を分け合うことがごく自然なことだと思えるのが不思議だ。
熱が高まっていく。
ゆっくりとサボの体から力が抜けるのがわかった。
外はまだ暗かった。
日も沈まないうちからあれこれしていたのだからまだ朝は遠いのだろう。
部屋の中にも夜の帳が下りている。
視界には闇が広がっていたが、人の体温がまだ傍らにあることにほっとする。
部屋の片隅にあのランタンを置きっぱなしにしていた。
指先から炎を飛ばして灯りをともすと、赤みを帯びた金の光が部屋を淡く灯した。
エースに身を寄せてサボが眠っている。
金髪が光を反射して蜂蜜のようにとろける艶を帯びていた。
そうっと触れる。恐る恐る指先で梳く。
エースといた頃は短かった髪。伸ばすとこんなふうに緩く波打つのか。
新しい発見をしたと髪を持ち上げると、左目の上を走る大きな傷跡が目につく。
よくみれば、体のあちこちにも皮膚の色が変わったところがある。
それがあの時出来た傷なのか、もっと後にできたものなのか、エースは知る由もない。
ずっと一緒にいたら、全てを知ることができたのだろうか。
しばらくそうしていると、サボが寝返りを打った。
「ん、エ……ース?」
むずがるように眉を寄せて、ゆっくりと目を開く。
覚醒しきらない様子だが、間違えることなくエースの名を呼ぶ。
「朝……じゃねえな、まだ」
窓の外の闇とランタンを見てふ、と息を吐く。
ささやかな安堵の表れだ。朝が来ていないことへの。
けれど、別れが近いことをサボももう知っている。
「……エース、そろそろログが貯まったんじゃないか?」
「……え……ああ、そうだな」
エースのログポースの針はもう次の島の方向を指している。
先を急ぐ旅なのに、そうと分かっていながらエースはこの一夜をこの島で過ごすことを選んでしまった。
……行きたくねェな。
それを口にすることはできない。
白ひげ海賊団二番隊隊長の肩書背負っている。
わざわざ船を離れて「偉大なる航路」を逆走しているのは、譲れない理由があるからだ。
そのために、仲間の静止すら振り切って飛び出してきたのだ。
だが、サボの隣はあまりに心地がよすぎた。
これが罠だったら、エースはまんまとこの夢の中で揺蕩っていることになったのかもしれない。
けれどエースの知るサボはそんな甘えを許す男ではなかった。
「お別れだな」
突き放すようにも聞こえるその言葉の端に哀惜が滲んでいるのが分かったから、「ああ」と素直に頷いた。
寂しさすら分け合って、でも、おれたちは自分の道を行く。
『同じ船の仲間にはなれねェかもしれねェけど』
『どこで何をやろうとこの絆は切れねェ……!』
幼い自分の声が、遠くで聞こえる。
朝とともに別れは来る。
もう少しだけ。
空が白むまでは穏やかに熱を分け合っていたい。
+++
目を覚ますと、視界はぐにゃぐにゃに歪んでいた。
また、寝ている間に泣いていたらしい。
あの日、全てを思い出してから自分の涙腺は壊れてしまったらしい。
それまではちっとも泣かない可愛げのない子供だったっていうのに。
時間に対する感覚が不安定で曖昧で、ふとしたときに自分がどこにいるのか分からなくなる。
船医は、急激に記憶を取り戻したために脳が混乱しているのであって、やがては落ち着いていく症状だと言った。
そうだろうか、今のサボには分からない。
二つに分かたれていた記憶が乱暴な強引さでひとつに束ねられて分かったことがある。
あれは、世の中の人たちが恋とか愛とか呼ぶ感情だった。
あの日、あの島でエースと会って言葉を交わし、体を重ねた。
会って間もないのに、考えるより先に自然と惹かれた。
誰かを特別に想う、恋とでも呼ぶべき経験がそれまでの人生になかったから、その感情の正体すら分からないまま熱を分け合った。
その相手が“誰”なのか、今になってようやく知った。
きっと、なんでもよかったのだ。関係の名前なんて。
兄弟。
家族。
恋人。
代わりのきかない唯一無二。
サボにとって、エースはそういう人間だった。
喪った瞬間に全てを思い出した。
あまりに愚かで、いっそ笑えてくる。
ほんの数日。ほんの数週間。
サボがそうと知らぬ間にエースと再会して、エースが捕らえられ、命を落とし、自分が記憶を取り戻すまでの時間。
あの時サボが記憶を取り戻していたら、あと少し、何かできていたら、エースはまだ命を繋いでいたかもしれない。
考えても意味のないことだ。
そう感情の切り捨てるやり方は立場から学んだはずだった。
けれど、これだけは何度切り捨てようとしても、誘惑のように「もしも」のかたちを保ってサボの頭から出ていかない。
頭を掻きむしって、あらん限りの声で叫びたかった。
怒りの矛先は海軍でも黒ひげでもない。何ひとつ出来なかったサボ自身だ。
「もう一回、会いてェよ…………」
そうしたら、せめて謝ることはできるのに。
忘れてごめん。
思い出せなくてごめん。
何もできなくてごめん。
おれは、この後悔を一生背負って生きていく。
エースが名前を呼ぶと思った以上にびっくりされた。
どうしておれの名前を知っているのだと。
どうやら今でもサボ、という名前は変わらないらしい。
名前だけでも覚えていたのかと訊ねると、覚えていない、持ち物に書いてあった名前をそのまま名乗っているのだという。
自分の名前すら覚えていないのなら、エースのことを覚えていないのも無理からぬことだった。
目の前の兄弟が生きているのか死んでいるのか、それはどうでもいいことに思えた。
それ以上に、サボが何の記憶も持っていないことの方がエースの心を打ちのめした。
貴族の生まれであることを厭い、「不確かな終着駅」に住み着いていた少年。
そうでなければ、同じ国にいてもエースとサボの人生は決して交わることはなかったはずだ。
サボにとって、あの国で育ったことは忘れてしまいたいほど嫌な事実だったのかもしれない。
自分やルフィとの思い出もそうなのか?
訊ねたかったが、このサボに訊いても答えは持っていないのだ。
宿に戻ると、別々にとっていた部屋をひとつにまとめた。
どちらから言い出したことでもないが、その方がいいような気がして。
受付のばあさんはエースとサボを交互に見比べ、口元を緩めるみたいにしてほんの少し笑った。
「積もる話があるだろう」
そう言って、半ば強引に酒の瓶とグラスを二つ、持たされる。
ベッドの二つ入った部屋に移動して、それぞれのベッドに向かい合うようにして座る。
言葉は少なかった。
サボはずっと何かを考えているようだった。
言いたいことは山ほどあるが、エースも口を開かない。
エースの知るサボの生い立ちを言葉で伝えるのはそう難しいことではない。
けれどサボはそれを望んでいないだろうし、エースもそういうかたちで伝えるのは違うと思う。
小さなテーブルの上には先程持たされた酒の瓶がある。
だが、気詰まりなのはお互い様で、堪え切れず先に動いたのはエースだった。
「あー……、とりあえず飲むか」
誘うと、サボは緩く頷く。
ラベルを見ると、随分強い蒸留酒だった。
それでいいのかもしれない。
多少なりとも酔わなければ、この先何かを話すことは難しいように思われた。
二つの小さなグラスに酒を注ぎ、そのうち一方をサボに渡す。
さらりとした琥珀色。
サボは黙って受け取り、そのままエースのグラスと己のグラスの角をカチンと合わせた。
ぐっと煽ると喉を焼くように存在を主張しながら液体が喉を滑り落ちていく。
弱いわけではない。
昨晩の様子を思い出す限り、サボもそうだろう。
それでもこのボトルを二人で開けるとなれば、それなりに酔いが回る。
そういう酒だ。
代わる代わる瓶を手にし、互いのグラスに酒を注ぎ合う。
酔いを求めているのだから、ペースは早い。
「……何、考えてる?」
エースがようやくそう切り出せたのは瓶の中身が半分に減った頃合いだった。
「さっき言ったのと同じだ。おれはどんな人間だったんだろうって」
記憶を失う前のことを言っているのだろう。
けれど、エースから見る限り、今のサボがエースの知るサボと大きくかけ離れた人間だとは思えない。
強くて情に厚い、エースが誰より信頼していた少年の延長にこの青年がいる。
「お前は、いい奴だった。いや、今もいい奴なんだろうな」
「……どうかな」
「そうに決まってる。おれにとって大事な奴だった。……誰より」
サボはそれを聞くと苦しげに顔を歪めた。
「そんな大事な奴のこと、どうしておれは忘れちまったんだろうな……」
「サボのせいじゃねえだろ」
「分からない……時々思うんだ。もしかしたらおれ自身が忘れることを選んだんじゃないかって」
サボの口からそれを聞くのは苦しかった。
「そうだとして、何が問題なんだ」
「知らないことが罪になることもある。お前のことを何ひとつ覚えていないおれはどうやってお前の知るおれだと証明できる?」
エースにしてみれば、それこそ「知ったことか」という話だ。
「お前はガキの頃からおれたちより頭良かったからなァ。おれなんか記憶があったって分かんねぇことばっかりだよ。今おれとお前がここにいる。それだけでいいだろ」
理屈を並べようとするほど面倒になる。どれほど言葉を尽くそうとしたって、エースの語彙では一番大切なことを伝えるのは難しい。
それでも何とか気持ちを伝えたくてそう言うと、サボはふっと表情を緩めた。
「口説き文句みたいだな」
そうかもしれない。
女を口説くようなことにだって慣れていないのに、サボにはこんな、恥ずかしくなるような言葉を吐いている。
杯を交わした義兄弟と、例えば教会で永遠の誓いを交わす恋人へ向ける想いが違うとどうして言える?
恋人たちが触れ合うことで熱を伝える方が、言葉よりずっと簡単に違いない。
そう、触れて伝わることがあるはずだ。
酔った頭ではそれがごく当たり前のことに感じられた。
思ったままに手を伸ばしてサボの頬に触れる。
サボは拒むそぶりを見せなかった。
ベッドサイドに座ったまま、覆いかぶさるように立ち上がったエースを見上げる。
「おれは男だぞ」
ごく単純な確認をするようにそれだけ問われた。
そんなことはもちろん知っている。
エースも訊いた。
「逃げるなら今のうちだぞ」
「逃げねぇよ」
サボは当たり前みたいに言う。
本当は臆病なエースの心のうちを、幼い頃のサボはよく知っていた。
今は忘れているはずなのに、分かっているみたいだ。
ただ向かい合っているだけで、エースの心は不思議と落ち着く。
サボが触れた手に手を重ねた。
「教えてくれ。お前のこと。まだ名前も知らねェ」
かすめるみたいに唇を寄せると、ぎゅうと抱きつかれる。
引き合うように深い口づけをする。
交わる息の合間で「エース」と名乗ると、ささやくように呼びかけられる。
「エース」
秘密を交わした子供のような悪戯めいた響きだった。
「サボ」
それしか言葉を知らないように、互いの名前を呼ぶ。
たったそれだけのことが、信じられないほど嬉しい。
幼い頃に何度も夢に見た、叶わないはずの願いだった。
血は繋がらないが兄弟で家族で、今はもっと深いつながりを求めている。
そういう欲求が自分にあったことを、こうなって初めて自覚しているのがおかしかった。
エースが求めていることをサボが正確に理解してくれているのが分かる。エースもサボの考えていることが分かる。
エースの手が不埒な動きを見せても拒む様子は見られない。
この行為はどんな意味を持つのだろう。
今のエースとサボの関係にはどんな名前がつくのか。
それが何でも構わなかった。
サボにとってのエースが、一夜限りの行きずりの相手でも。
服を脱ぎ捨てて、肌が触れあう。
子供の頃は思いもしなかった、単純で野蛮で本能的な行為。
こういうやり方で熱を分け合うことがごく自然なことだと思えるのが不思議だ。
熱が高まっていく。
ゆっくりとサボの体から力が抜けるのがわかった。
外はまだ暗かった。
日も沈まないうちからあれこれしていたのだからまだ朝は遠いのだろう。
部屋の中にも夜の帳が下りている。
視界には闇が広がっていたが、人の体温がまだ傍らにあることにほっとする。
部屋の片隅にあのランタンを置きっぱなしにしていた。
指先から炎を飛ばして灯りをともすと、赤みを帯びた金の光が部屋を淡く灯した。
エースに身を寄せてサボが眠っている。
金髪が光を反射して蜂蜜のようにとろける艶を帯びていた。
そうっと触れる。恐る恐る指先で梳く。
エースといた頃は短かった髪。伸ばすとこんなふうに緩く波打つのか。
新しい発見をしたと髪を持ち上げると、左目の上を走る大きな傷跡が目につく。
よくみれば、体のあちこちにも皮膚の色が変わったところがある。
それがあの時出来た傷なのか、もっと後にできたものなのか、エースは知る由もない。
ずっと一緒にいたら、全てを知ることができたのだろうか。
しばらくそうしていると、サボが寝返りを打った。
「ん、エ……ース?」
むずがるように眉を寄せて、ゆっくりと目を開く。
覚醒しきらない様子だが、間違えることなくエースの名を呼ぶ。
「朝……じゃねえな、まだ」
窓の外の闇とランタンを見てふ、と息を吐く。
ささやかな安堵の表れだ。朝が来ていないことへの。
けれど、別れが近いことをサボももう知っている。
「……エース、そろそろログが貯まったんじゃないか?」
「……え……ああ、そうだな」
エースのログポースの針はもう次の島の方向を指している。
先を急ぐ旅なのに、そうと分かっていながらエースはこの一夜をこの島で過ごすことを選んでしまった。
……行きたくねェな。
それを口にすることはできない。
白ひげ海賊団二番隊隊長の肩書背負っている。
わざわざ船を離れて「偉大なる航路」を逆走しているのは、譲れない理由があるからだ。
そのために、仲間の静止すら振り切って飛び出してきたのだ。
だが、サボの隣はあまりに心地がよすぎた。
これが罠だったら、エースはまんまとこの夢の中で揺蕩っていることになったのかもしれない。
けれどエースの知るサボはそんな甘えを許す男ではなかった。
「お別れだな」
突き放すようにも聞こえるその言葉の端に哀惜が滲んでいるのが分かったから、「ああ」と素直に頷いた。
寂しさすら分け合って、でも、おれたちは自分の道を行く。
『同じ船の仲間にはなれねェかもしれねェけど』
『どこで何をやろうとこの絆は切れねェ……!』
幼い自分の声が、遠くで聞こえる。
朝とともに別れは来る。
もう少しだけ。
空が白むまでは穏やかに熱を分け合っていたい。
+++
目を覚ますと、視界はぐにゃぐにゃに歪んでいた。
また、寝ている間に泣いていたらしい。
あの日、全てを思い出してから自分の涙腺は壊れてしまったらしい。
それまではちっとも泣かない可愛げのない子供だったっていうのに。
時間に対する感覚が不安定で曖昧で、ふとしたときに自分がどこにいるのか分からなくなる。
船医は、急激に記憶を取り戻したために脳が混乱しているのであって、やがては落ち着いていく症状だと言った。
そうだろうか、今のサボには分からない。
二つに分かたれていた記憶が乱暴な強引さでひとつに束ねられて分かったことがある。
あれは、世の中の人たちが恋とか愛とか呼ぶ感情だった。
あの日、あの島でエースと会って言葉を交わし、体を重ねた。
会って間もないのに、考えるより先に自然と惹かれた。
誰かを特別に想う、恋とでも呼ぶべき経験がそれまでの人生になかったから、その感情の正体すら分からないまま熱を分け合った。
その相手が“誰”なのか、今になってようやく知った。
きっと、なんでもよかったのだ。関係の名前なんて。
兄弟。
家族。
恋人。
代わりのきかない唯一無二。
サボにとって、エースはそういう人間だった。
喪った瞬間に全てを思い出した。
あまりに愚かで、いっそ笑えてくる。
ほんの数日。ほんの数週間。
サボがそうと知らぬ間にエースと再会して、エースが捕らえられ、命を落とし、自分が記憶を取り戻すまでの時間。
あの時サボが記憶を取り戻していたら、あと少し、何かできていたら、エースはまだ命を繋いでいたかもしれない。
考えても意味のないことだ。
そう感情の切り捨てるやり方は立場から学んだはずだった。
けれど、これだけは何度切り捨てようとしても、誘惑のように「もしも」のかたちを保ってサボの頭から出ていかない。
頭を掻きむしって、あらん限りの声で叫びたかった。
怒りの矛先は海軍でも黒ひげでもない。何ひとつ出来なかったサボ自身だ。
「もう一回、会いてェよ…………」
そうしたら、せめて謝ることはできるのに。
忘れてごめん。
思い出せなくてごめん。
何もできなくてごめん。
おれは、この後悔を一生背負って生きていく。