夕焼け
夕焼け
空が橙色に染まる時間が好きだ。もうすぐ帰ってサボに会えるから。
仕事は楽しい。人にも恵まれて、しんどいことが全くないかって言われればそんなことはないが、学校で一日机の前に座らされているよりはよほど性に合う。
ただ、今まで当たり前に隣にいた奴がいなくなってしまった。その違和感にだけはいつまで経っても慣れない。
高校を卒業してエースは就職、サボは進学。何となくそうなる予感はしていた。高三の夏休み、お互いにやっていることが全然違っていたから。
珍しく制服を着崩さないで履歴書の書き方を仕込まれていたエースが、講習の課題をこなすために一人教室に残っていたサボを見つけた。
ああ、それも西の空が橙色に染まるような時間だった。
教室に当たり前に入って声をかけると、サボは軽く手を上げて、また問題にかじりついた。集中力があるサボは、エースが姿を見せたくらいではそれを切らさない。
当たり前のようにサボが座るひとつ前の席のイスをひいて跨ぐように後ろ足向きに座ると、向かい合ったサボが「もうすぐ終わるから」と言った。同じ場所に住んでいて、一緒に帰ることに対して何の疑問も持たない当たり前の言い方だった。
無性にうれしくて頷くと、問題を解く手は止めないままサボが小さく笑った。
指の長い手が持つシャープペンシルが淀みなく難しい数式を書き連ねていく。特別きれいな字というわけではないが読みにくくもない。思考のスピードに手がやっとのことで追いついている。そういう走り書きのような荒っぽさが伺える文字の羅列。
一文字ずつ丁寧に書くんだぞ、と言われてゆっくりと書いたエースの履歴書とは対照的なそれ。
書いた文字にお互いにが違う進路を選んだことを突きつけられて、今さら動揺した。来年の夏、エースはサボと一緒にはいない。嫌だ、とただ子供のようにそれだけを思った。
「……エース?」
ノートに書いた最後の行、エックスイコール何とか、という数式にアンダーラインを引いたサボが顔を上げる。
その大きな目を縁取る睫毛の一本一本まで妙にはっきりと見えた。金の髪も、細い睫毛も、窓の外から射し込む夕日を受けて橙色に染まっている。
ゆっくりと顔を近づけて唇を重ねた。サボは拒まなかった。大きな目を見開いてかすかに睫毛を震わせ、それからゆっくりと目を閉じた。
――それが、サボと交わした最初のキスだった。
その夏から二年と半分。
エースとサボは一緒に暮らしている。互いに引き取られて預かられていたガープの家を出て、新しい場所で生活する――二人で選んで決めたことだった。
ガープの孫で長い間一緒に暮らした弟分であるルフィはだいぶぐずったが、合鍵を渡したら一応は納得してくれたようだった。エースもサボもルフィには甘くて弱い。
冬の夕暮れは早い。
早番だったからまだ明るいうちに最寄り駅にたどり着いたはずなのに、スーパーで買い物をしているうちにあっという間に空は夕焼けに染まってしまった。東の空はもう深い藍色に支配されている。そこから緩やかなグラデーションを描いて西の空は鮮やかな橙に染まっていた。明日もきっといい天気だ。
家に向かう途中、馴染みの喫茶店のドアを開くと一番奥の席にサボが座っていた。ブルーライトをカットする淡い色合いのメガネをかけてタブレットに視線を落としている。喫茶店の店主に断りを入れて声をかけるとサボはすぐに気がついてメガネを外し、タブレットを鞄にしまう。
レジで会計を済ませるのを待って並んで店を出ると、空はまた一段と夜の気配を増している。
「さみ~~」
サボがぴったりと肩を寄せてくる。両手が買い物袋で塞がっているのであいにく手は繋げない。今さら「持とうか?」なんて殊勝に訊いてくるような間柄でもない。そういう気遣いがなくても互いに何となくやることをやってバランスは取れている気がする。
アパートまで着くと錆びた階段を上って先回りしたサボが鍵をひねりドアを開ける。エースを先に中に入れて、後ろから電気をつける。
冷蔵庫にものをしまっている間もサボはエースにぴったりとくっついていた。
「さみーの?」
訊くと、
「うん、さみぃ」
頬も鼻も赤くしたサボが頷く。さみぃさみぃと騒ぐサボを背中に張り付けたまま石油ストーブに火を入れて、コートを脱がす。質のいいウールがずっしりと手に重い。エースの機能性重視のダウンとは対照的だ。
部屋が暖まるまでもうしばらくはかかるだろう。距離が近いのをいいことにキスをすると、サボもその気だったようでぐっと顔を寄せてくる。もうとっくにキスの先も知っている。でも、エースはサボとゆっくり交わすキスが好きだった。
飽きることを忘れて何回も何回も唇を交わす。ゆっくりとサボの体から力が抜けて、エースがその体の上に覆い被さる。
呼吸と一緒に目には見えない何かを交換し合う。
きっと恋とか愛とか呼ばれるものだ。
数えきれないほどの気持ちを交わして、気付いたときには窓の外に見える空は深く夜に染まっていた。
空が橙色に染まる時間が好きだ。もうすぐ帰ってサボに会えるから。
仕事は楽しい。人にも恵まれて、しんどいことが全くないかって言われればそんなことはないが、学校で一日机の前に座らされているよりはよほど性に合う。
ただ、今まで当たり前に隣にいた奴がいなくなってしまった。その違和感にだけはいつまで経っても慣れない。
高校を卒業してエースは就職、サボは進学。何となくそうなる予感はしていた。高三の夏休み、お互いにやっていることが全然違っていたから。
珍しく制服を着崩さないで履歴書の書き方を仕込まれていたエースが、講習の課題をこなすために一人教室に残っていたサボを見つけた。
ああ、それも西の空が橙色に染まるような時間だった。
教室に当たり前に入って声をかけると、サボは軽く手を上げて、また問題にかじりついた。集中力があるサボは、エースが姿を見せたくらいではそれを切らさない。
当たり前のようにサボが座るひとつ前の席のイスをひいて跨ぐように後ろ足向きに座ると、向かい合ったサボが「もうすぐ終わるから」と言った。同じ場所に住んでいて、一緒に帰ることに対して何の疑問も持たない当たり前の言い方だった。
無性にうれしくて頷くと、問題を解く手は止めないままサボが小さく笑った。
指の長い手が持つシャープペンシルが淀みなく難しい数式を書き連ねていく。特別きれいな字というわけではないが読みにくくもない。思考のスピードに手がやっとのことで追いついている。そういう走り書きのような荒っぽさが伺える文字の羅列。
一文字ずつ丁寧に書くんだぞ、と言われてゆっくりと書いたエースの履歴書とは対照的なそれ。
書いた文字にお互いにが違う進路を選んだことを突きつけられて、今さら動揺した。来年の夏、エースはサボと一緒にはいない。嫌だ、とただ子供のようにそれだけを思った。
「……エース?」
ノートに書いた最後の行、エックスイコール何とか、という数式にアンダーラインを引いたサボが顔を上げる。
その大きな目を縁取る睫毛の一本一本まで妙にはっきりと見えた。金の髪も、細い睫毛も、窓の外から射し込む夕日を受けて橙色に染まっている。
ゆっくりと顔を近づけて唇を重ねた。サボは拒まなかった。大きな目を見開いてかすかに睫毛を震わせ、それからゆっくりと目を閉じた。
――それが、サボと交わした最初のキスだった。
その夏から二年と半分。
エースとサボは一緒に暮らしている。互いに引き取られて預かられていたガープの家を出て、新しい場所で生活する――二人で選んで決めたことだった。
ガープの孫で長い間一緒に暮らした弟分であるルフィはだいぶぐずったが、合鍵を渡したら一応は納得してくれたようだった。エースもサボもルフィには甘くて弱い。
冬の夕暮れは早い。
早番だったからまだ明るいうちに最寄り駅にたどり着いたはずなのに、スーパーで買い物をしているうちにあっという間に空は夕焼けに染まってしまった。東の空はもう深い藍色に支配されている。そこから緩やかなグラデーションを描いて西の空は鮮やかな橙に染まっていた。明日もきっといい天気だ。
家に向かう途中、馴染みの喫茶店のドアを開くと一番奥の席にサボが座っていた。ブルーライトをカットする淡い色合いのメガネをかけてタブレットに視線を落としている。喫茶店の店主に断りを入れて声をかけるとサボはすぐに気がついてメガネを外し、タブレットを鞄にしまう。
レジで会計を済ませるのを待って並んで店を出ると、空はまた一段と夜の気配を増している。
「さみ~~」
サボがぴったりと肩を寄せてくる。両手が買い物袋で塞がっているのであいにく手は繋げない。今さら「持とうか?」なんて殊勝に訊いてくるような間柄でもない。そういう気遣いがなくても互いに何となくやることをやってバランスは取れている気がする。
アパートまで着くと錆びた階段を上って先回りしたサボが鍵をひねりドアを開ける。エースを先に中に入れて、後ろから電気をつける。
冷蔵庫にものをしまっている間もサボはエースにぴったりとくっついていた。
「さみーの?」
訊くと、
「うん、さみぃ」
頬も鼻も赤くしたサボが頷く。さみぃさみぃと騒ぐサボを背中に張り付けたまま石油ストーブに火を入れて、コートを脱がす。質のいいウールがずっしりと手に重い。エースの機能性重視のダウンとは対照的だ。
部屋が暖まるまでもうしばらくはかかるだろう。距離が近いのをいいことにキスをすると、サボもその気だったようでぐっと顔を寄せてくる。もうとっくにキスの先も知っている。でも、エースはサボとゆっくり交わすキスが好きだった。
飽きることを忘れて何回も何回も唇を交わす。ゆっくりとサボの体から力が抜けて、エースがその体の上に覆い被さる。
呼吸と一緒に目には見えない何かを交換し合う。
きっと恋とか愛とか呼ばれるものだ。
数えきれないほどの気持ちを交わして、気付いたときには窓の外に見える空は深く夜に染まっていた。
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