短編
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「お前の頭の中ァ、覗かせてもらうぜぇぇぇ!!」
「っ!?」
「椎名!」
鬼から湧き出る血の霧が椎名に巻きついた。杏寿郎が手を伸ばす。
「お前も道連れだ!鬼狩りぃぃぃっ!」
キン!と硬いものの切れる音がして鬼の首が落ちる。
青い羽織の隊士が塵になる鬼を背に叫んだ。
「炎柱!!」
「杏寿郎ダメ!離して!!」
「絶対に離さん!!」
血の霞の中に二人の姿は飲み込まれていった。
「っ!?」
パチッと目を開けると杏寿郎は見た事のない室内に座り込んでいた。いつか新聞で見た南蛮人が住むような豪奢な部屋だ。
杏寿郎は油断なく周囲を見回しながら立ち上がった。
(うっすらとだが鬼の気配がする。精神系の血気術か。椎名は無事だろうか)
カタン。
「っ!」
小さな物音がして振り返った杏寿郎は目を見開いた。杏寿郎の膝ぐらいの小さな少女が怖々机の影からこちらを見ている。
肘ほどまでの銀の髪に緑の瞳の少女はどう見ても椎名に生写しだった。
「椎名…か?」
「…っ!」
まさかと思いつつ杏寿郎が声をかけると、少女はビクッと震えた。見た事のない緩やかなデザインのワンピースを翻し走り去る。
「………」
(逃げられた)
少女の反応にショックを受けつつ杏寿郎はそれを見送った。
(…これは椎名の記憶なのだろうか?あの鬼も確か頭の中を覗くとか言っていたな)
ならばあの幼い少女が自分を知らないのは当然だろう。怖がらせてしまったか、と杏寿郎はため息をついた。
やがて緩やかな足音が二つ近づいてくるのに気がついて杏寿郎は姿勢を正した。
「…椎名、この人のことかい?」
少女を腕に抱いて現れたのは、長い銀髪に青い瞳のスラリとした体躯のまだ年若い、杏寿郎と同じぐらいに見える男だった。白を基調にしたゆったりとしたローブを身につけており、物腰が柔らかい。
杏寿郎は深々と頭を下げた。
「ご息女を驚かせてしまい申し訳ない!俺は煉獄杏寿郎と言う!」
「そうか、杏寿郎と言うのだね。どうやってここにたどり着いたのかな?」
(話し方がお館様に似ておられる)
物腰と同じく穏やかな話し方に気が緩みそうになり、慌てて引き締める。
「それは俺にもわからない!気がついたらここにいた!!」
「そうなんだね。では帰り方がわかるまで逗留するといい。部屋を用意させよう」
後ろに控えていた者に指示を出すと下がらせる。人を使うことに慣れている仕草だった。
「それからすまないが、腰の物は預からせてもらうよ。娘がいるのでね」
「……」
日輪刀に手をかけ杏寿郎は躊躇った。鬼の血気術を破り討伐するのに日輪刀を手放すのは不安が大きい。
「どうしたんだい?」
「…これは」
「とうさま、だめ」
椎名が父親の服を掴むと口を開いた。いやいやと首を横に振る。父親が困り顔をした。
「椎名、お前が冒険者に憧れているのはよく分かっているよ。でもね…」
「いや!だめなの!!」
椎名はジタバタと暴れると父親の腕から抜け出し、杏寿郎の足にしがみついた。涙目で見上げてくる椎名に杏寿郎が固まる。
(愛い!!)
父親は大きく肩を落とすと分かったよ、と言った。
「では椎名、そちらの客人を客間に案内して差し上げなさい。杏寿郎、娘がすまないね。内気な割には頑固なんだよ」
「俺の方こそ面妖な客ですまない!」
「木々と書物しかない所だが、ゆっくりしていきなさい」
それだけ言うと父親は杏寿郎と椎名を残し立ち去った。袴を引かれ杏寿郎が下を向くと椎名が両手を突き出している。
「抱っこ」
「っ!」
(なんと恐ろしい血気術だ!)
阿呆の感想である。
杏寿郎は自分を押し殺しつつ椎名を抱き上げた。
小さくて軽い。幼い頃の千寿郎を思い出して杏寿郎は気持ちが落ち着いた。
「あっち」
「わかった!」
示されるままに部屋を出ると左に曲がる。大きくとられた窓の外の風景に杏寿郎は思わず立ち止まった。
「凄いな!」
外には五十人で囲っても囲いきれないであろう大木がたくさん生えていた。その中をくり抜いてあるのだろう、窓や外廊下に人影が見える。
深い森の中、差し込む日の元でそれは美しい景色だった。
「あれはこの辺にしか生えていない木で…」
すっと伸ばされた腕から辿り椎名を見た杏寿郎は息を飲んだ。
(成長している)
一瞬前まで二、三歳程度だった椎名は杏寿郎が目を離した間に六歳ほどになっていた。
(記憶をたどりながら移動しているのか)
鬼の目的が見えずに杏寿郎は表情を険しくした。その顔をペチペチ椎名が叩く。
「聞いてる?杏寿郎?」
「あぁ聞いている!本当に美しいな!!」
へへー、と嬉しそうに笑う椎名を抱いたまま杏寿郎は当てがわれた客間に移動した。ドアがノックされ、目の覚めるような白い髪の女性が入ってくる。その瞳は椎名と同じ緑だ。椎名は杏寿郎の腕から降りると走り寄った。
「母さま」
「椎名、杏寿郎さんのお邪魔をしては駄目よ?」
「邪魔など!とんでもない!!」
むしろ目の届く所にいてくれた方がいい。杏寿郎が本気で否定すると母親は優しく笑って椎名の頭を撫でた。
「今日は貴女に良い知らせよ。おなたの叔父さんが帰ってくるそうよ」
「本当!?」
椎名はパッと表情を明るくした。その顔に杏寿郎の胸にモヤモヤしたものが広がる。杏寿郎は慌てて首を振った。
(椎名の家族に嫉妬するなど)
「杏寿郎」
「!?」
椎名に腕を引かれ杏寿郎はソファに座り込んだ。椎名が床に座りその膝に取り付く。椎名の姿は十五歳ぐらいの少女になっていた。
「聞いた?叔父さまが帰ってくるのよ杏寿郎」
「あぁ!良かったな椎名!!母君にはご兄弟がいらしたのだな!」
杏寿郎の何気ない一言に椎名はぼんやりした表情を見せた。
「え…?え、えぇ、そう!そうなの!!叔父さまは早くにこの森を出て冒険者をしているのよ」
「…そうか!それは楽しみだな!!」
ピリッとした鬼の気配を感じ、杏寿郎は警戒を強くした。椎名の様子もおかしい。
「それより、杏寿郎は冒険者なの?武器を持っていると言うことはそうなんでしよ?」
ワクワクした目を向けられて杏寿郎は返事に困った。この期待に満ちた目を裏切るのは辛いが、嘘も言えない。
「俺は鬼狩りだ」
「鬼、狩り?」
ソファの座面にくっつく形で椎名が首を傾げた。大人びてきた椎名は肩や背中の開いた柔らかなドレスを着ており、目のやり場に困る。杏寿郎はその頭を撫でると不自然にならないようそっと目を逸らした。
「俺の国には人を喰う悪い鬼がいてな!俺が斬るのはそう言う悪い鬼だ!!」
「…杏寿郎の国の鬼は怖い鬼なのね」
「あぁ!だが大丈夫だ!悪い鬼は俺が全て斬るからな!!」
「いいなぁ…私も森の外に行ってみたい」
椎名の目が夢見るように遠くなる。杏寿郎が快活に笑った。
「行けば良い!父君も母君も君の夢ならば応援してくれるだろう!!」
「そう、かしら?」
不安そうな椎名に力強く頷く。
「あぁ!そして立派な冒険者になったら俺の国に来ると良い!!」
「良いわね、楽しそう!」
椎名は満面の笑みを讃えるとパッと窓辺に駆け寄った。窓を大きく開け放つと下を覗き込む。
「杏寿郎!叔父さまが帰ってきたわ!!」
振り返った椎名はもう杏寿郎が知る年齢になっていた。杏寿郎の腕を取るとドレスを翻し走る。
(いよいよ来るか!)
鬼の気配が強くなってきて杏寿郎は気を引き締めた。外に出ると森の木々の高さが目に入る。
「叔父さま!」
椎名が駆け寄った人物に杏寿郎は思わず日輪刀に手を伸ばした。
母親と同じ白い髪を短髪にし、荷物を乗せた馬を引いた若い男がこちらを見る。しかし目は鬼の紅だった。
(いや、早計だ。もし椎名の思い出の中の人物を傷付けて椎名に何かあってはいけない)
血気術は時折得体の知れない結果を生むことがある。嬉しそうに話しかける椎名に穏やかに返す男の様子を見て、杏寿郎は刀から手を離した。
「杏寿郎。私、叔父さまについて行くわ!冒険者になるのよ!」
両手を広げて語る椎名の姿は既に冒険者のそれで、杏寿郎は時間の経過の速さに目を見張った。椎名の後ろにいる男の顔がニヤリと歪む。
周囲が暗転した次の瞬間、杏寿郎は椎名に斬りかかられていた。
「っ!椎名!?」
済んでのところで日輪刀を抜くと椎名の刀を弾く。その目は怒りに燃えていた。
「嘘つき!私たちが人間に何をしたと言うの!!皆んな皆んな…お前たちが殺した!!」
「椎名待て!目を覚ますんだ!!」
「五月蝿い!」
激しく斬りかかる椎名を刀ごと押しやると距離を取る。椎名の後ろにピタリと寄り添い男は囁いた。
「可哀想に。なぁ、椎名。欲に目が眩んだ人間に家族を殺されて。独り逃げ回らなきゃ行けなかったんだ」
「…そうよ、独りで……ずっと独りで!」
杏寿郎に向かい正面から突っ込んでいく。椎名らしくない戦い方に杏寿郎は歯を食いしばった。
(椎名を斬れと言わんばかりだな!)
ガキン!と刀同士がぶつかり合い鍔競り合う。杏寿郎は睨みつけてくる椎名の目を真っ直ぐに見返した。
「俺がいる!今の椎名には俺がいる!!お館様も、胡蝶も、宇髄も、不死川も…皆んないる!!」
「っ!」
ポロッと椎名の目から涙が溢れた。男が焦れたように叫ぶ。
「騙されるな!父親も母親も他の仲間もみんな死んだ!人間がやったんだ!!人間を憎め!!憎悪しろ!!」
「…杏寿郎っ」
苦しそうに叫ぶ椎名を引き寄せると杏寿郎は口付けた。息をする間もないほど深く。
杏寿郎の見つめる中、椎名の目から怒りが消え体から力が抜けた。その腕がだらりと下がる。
「おぉぉにがぁりぃぃぃぃっ!!」
鬼の本性を剥き出しにし男が叫んだ。ガリガリと頬をかきむしると杏寿郎に向かって飛びかかる。
「女の記憶で作った俺を斬ればどうなるか、試してみろぉぉぉ!」
「!!」
杏寿郎は刀を構えたまま躊躇した。鬼の顔に愉悦の笑みが浮かぶ。
しかし次の瞬間、横から伸びてきた刀で鬼の胴体は切り離されていた。
「な…にっ……!」
「椎名!」
「…出て行け、お前は私の記憶に必要ない!私に叔父などいない!!」
その言葉に杏寿郎は刀を構え直した。椎名も刀を翻す。
「私の記憶から出てけーっ!!!」
ーー炎の呼吸 壱の型 不知火ーー
ーー炎の呼吸 壱の型 不知火ーー
杏寿郎と椎名の繰り出す技に鬼の首が高々と舞い上がる。ドッと重い音を立てて鬼の首が地面に落ちた。
「ひひっ…ひひひひ…ひひ…ひ……」
嫌な笑いを残し鬼の首が消滅したところで杏寿郎と椎名の意識は途切れた。
「っ!」
跳ね起きると椎名はベッドから転がり落ちた。床に膝をつき喉を押さえる。
「かっ…は……」
居合わせたアオイが息を飲んだ。
「しのぶ様!椎名さんが…」
「椎名さん!」
アオイが叫ぶのと同時にしのぶが飛び込んでくる。下を向いて苦しむ椎名を覗き込んでしのぶが凍り付く。椎名の口の中にはぎっしりと白い灰が詰まっていた。
しのぶが何か言うより速く杏寿郎が目覚めるとベッドから飛び降りた。椎名の側に膝をつくと叫ぶ。
「吐き出せ椎名!それは鬼だ!!」
「「!?」」
驚愕するしのぶとアオイが同時に椎名を見る。息のできない椎名は苦しさに床を掻きむしった。
「頼む椎名、吐き出してくれっ」
悲壮な顔をする杏寿郎にしのぶも青ざめる。
「…っ」
「むーっ」
ぽすん、と小さな影が椎名の膝に乗った。途端に赤い炎が椎名を包む。部屋に駆け込んできた炭治郎が叫んだ。
「いいぞ禰󠄀豆子!椎名さんの中にいる鬼を燃やし尽くせ!!」
「むーっ!!」
炎が大きくなり熱さから逃れるように椎名が空を仰ぐ。杏寿郎が椎名を抱き締めた。
「頼む椎名!頑張ってくれ!!」
「ぅ…ぎゃぁぁぁぁぁぁ!!」
椎名の口の中から灰が巻き上がり醜い悲鳴を上げた。そのまま塵となり消えて行く。
「もう、少し…だったの、に……」
そんな言葉を残し鬼は消え去った。咳き込んで荒い息をする椎名にしのぶが座り込む。
「椎名さん…喉、喉を見せてください」
「………」
震えながら這い寄ってきたしのぶに椎名は黙って口を開けた。光にかざして奥まで確認し、しのぶがほっと息を吐く。
「喉を痛めているようですが、それだけのようです。薬湯をお出ししますね。しばらくは喋らないでください」
「良かった。帰ってきたら鬼の気配がして驚いたんです。役に立てて良かったです」
屈託無く笑う炭治郎に椎名は手を振った。役に立ったなんてものではない。命の恩人だ。
部屋の外では善逸と猪之助が大騒ぎしていた。
「いーやーっ!なんで蝶屋敷にまで鬼が出るんだよ!!俺の心の拠り所がぁぁぁっ!」
「ちくしょう!紋逸がしがみついて来るから鬼を切り損ねちまったじゃねぇか!!」
「アホかぁぁぁーっ!椎名さんの中に入ってる鬼なんて切れるわけないだろ!!間違って椎名さんを斬ったらどうすんだよ!」
「むー」
「あっ、こら禰󠄀豆子!」
自分を褒めろと椎名の膝に乗って行く禰󠄀豆子を炭治郎が嗜める。椎名は首を横に振ると禰󠄀豆子をそっと抱き締めた。ご満悦の禰󠄀豆子がしがみ付く。
どさり、と杏寿郎が座り込んで炭治郎達は目を丸くした。
「煉獄さん!?」
杏寿郎は天を仰ぐと両手を床につき、深々と息を吐き出した。
「流石に肝が冷えた」
安心のあまり完全脱力である。見たことない杏寿郎の姿に炭治郎達は呆気に取られた。
(安心しきってる。椎名さんが無事で嬉しかったんだな)
炭治郎達が知る中で一番人間臭い杏寿郎である。炭治郎は笑顔になると禰󠄀豆子を振り返った。
「禰󠄀豆子、そろそろ椎名さんから…」
炭治郎はそこで言葉を切った。椎名がしー、と人差し指を口に当てる。禰󠄀豆子は椎名にしがみついたままぐっすり眠っていた。
「あぁぁ、すいません!禰󠄀豆子、お兄ちゃんの所においで」
炭治郎が慌てて声をかけるが禰󠄀豆子はすっかり夢の住人だ。椎名は禰󠄀豆子を抱えたまま立ち上がると炭治郎の頭を撫でた。それから禰󠄀豆子と廊下を交互に指さす。
「え…あの…?」
意味を解しかねる炭治郎が戸惑うのに、同じく立ち上がった杏寿郎が答えた。
「竈門少女を部屋まで送ると言っているんだろう!君達も任務から戻ってきたばかりなら休んだ方がいい!」
「あ、ありがとうございます!」
「俺はお館様に報告してくる!」
立ち去る杏寿郎を見送ると炭治郎は禰󠄀豆子のベッドまで椎名を案内した。そっと降ろし布団をかけると、その小さな手が椎名の髪を掴む。
「禰󠄀豆子…」
手を上げ炭治郎を制すると椎名は人差し指を横に流した。その手にペンと紙が落ちる。サラサラとペンを走らせると、椎名はそれを炭治郎に見せた。
【さっきは本当にありがとう。もう少しだけ禰󠄀豆子のしたいようにさせてあげて】
「…あの、椎名さん大丈夫ですか?」
炭治郎は遠慮がちにそう尋ねた。先程からずっと椎名から寂しい匂いがしてきて胸が締め付けられる。椎名は少し考えると紙にこう書いた。
【血気術って厄介ね。でももう終わったことだから大丈夫よ】
「そう…ですか。俺も治療があるのでこれで。禰󠄀豆子はもう寝てるので無理しないでくださいね」
炭治郎は頭を下げると部屋を後にした。廊下に出ると杏寿郎が戻ってきたのにかち合う。
「煉獄さん、報告はもう終わったんですか?」
「あぁ!鎹鴉に運んでもらったから大丈夫だ!!竈門少年も大変だったようだな!」
もうすっかりいつもの炎柱煉獄杏寿郎だ。炭治郎は元気が出た気がして笑った。
「いえ!俺も禰󠄀豆子も大丈夫です!」
「そうか!」
杏寿郎は頷くと炭治郎が来た方へ歩き出した。何気なく見送っていると禰󠄀豆子の寝ている部屋に入って行く。ふと椎名の寂しい匂いが和らいだ気がして、炭治郎は優しい気持ちになった。
(きっと大丈夫だ)
炭治郎は安心して治療に向かったのだった。
部屋に入った途端、禰󠄀豆子の手が椎名の髪を掴んでいるのが目に入り杏寿郎は小さく笑った。
椅子を引き寄せると椎名の隣に腰掛ける。
杏寿郎は手を伸ばすと椎名の頬をそっと撫ぜた。
「喉はだいぶ痛むか?」
椎名は出したままだった紙に返事を書く。
【さっき薬湯を貰ったから少し落ち着いてる】
「そうか」
杏寿郎は頷くと椎名の肩を抱いた。
「すまなかった椎名」
「?」
「鬼は椎名の体を乗っ取ろうとしていたんだ。それに俺がもっと早く気づいていれば…」
グッと拳を握る杏寿郎に椎名はコンコンとペンで紙を叩いた。
【杏寿郎が私を正気に戻してくれた。だから鬼を倒せたし、記憶の間違いにも気付けた】
【父にも母にも兄弟はいない。だからこの叔父に関する記憶が違う事はよくわかってる】
わかっていると言いつつ椎名の表情は冴えなかった。杏寿郎がその頭に手を置く。
「やはり、記憶の一部が書き換えられたままなのだろう?辛ければ泣いていい。俺に怒ってもいい」
「っ!」
椎名は何度も首を横に振ると杏寿郎の肩に額を押し付けた。深呼吸して落ち着くと再びペンを取る。
【色々と鮮明に思い出して少し哀しくなっただけ。それにとっても不思議。記憶の中で私、杏寿郎と100年以上一緒に暮らしたことになってる】
「あの不思議な森、あれが椎名の故郷なのだな」
杏寿郎は目を閉じると先程までの風景を思い出した。深い森の中、穏やかに流れる時間。
「それに子供の頃の君も大層愛い子供だった」
「………」
かぁ…と赤くなる椎名の目尻に口付ける。
「見た事のない服を着ている君もとても新鮮だったしな」
だんだん空気が大人向けになって行く気がして、椎名は慌てて禰󠄀豆子を指さした。杏寿郎がにっこり微笑む。
「そうだな、竈門少女には早かろう。君も喉を早く治してくれ」
「……」
ほっとした様子で頷く椎名の耳元で囁く。
「喉が治ったらまた枯れるまで啼いてくれ」
ビシッと固まった椎名に杏寿郎はたっぷりと口付けた。
「本物の俺で君の記憶を一杯にしたいものだ」
【いや、もう、色々と吹き飛んだから勘弁して】
真っ赤になってしまった顔を両手で覆う椎名を、禰󠄀豆子が片目でチラ見して再び寝たフリをするのだった。
「っ!?」
「椎名!」
鬼から湧き出る血の霧が椎名に巻きついた。杏寿郎が手を伸ばす。
「お前も道連れだ!鬼狩りぃぃぃっ!」
キン!と硬いものの切れる音がして鬼の首が落ちる。
青い羽織の隊士が塵になる鬼を背に叫んだ。
「炎柱!!」
「杏寿郎ダメ!離して!!」
「絶対に離さん!!」
血の霞の中に二人の姿は飲み込まれていった。
「っ!?」
パチッと目を開けると杏寿郎は見た事のない室内に座り込んでいた。いつか新聞で見た南蛮人が住むような豪奢な部屋だ。
杏寿郎は油断なく周囲を見回しながら立ち上がった。
(うっすらとだが鬼の気配がする。精神系の血気術か。椎名は無事だろうか)
カタン。
「っ!」
小さな物音がして振り返った杏寿郎は目を見開いた。杏寿郎の膝ぐらいの小さな少女が怖々机の影からこちらを見ている。
肘ほどまでの銀の髪に緑の瞳の少女はどう見ても椎名に生写しだった。
「椎名…か?」
「…っ!」
まさかと思いつつ杏寿郎が声をかけると、少女はビクッと震えた。見た事のない緩やかなデザインのワンピースを翻し走り去る。
「………」
(逃げられた)
少女の反応にショックを受けつつ杏寿郎はそれを見送った。
(…これは椎名の記憶なのだろうか?あの鬼も確か頭の中を覗くとか言っていたな)
ならばあの幼い少女が自分を知らないのは当然だろう。怖がらせてしまったか、と杏寿郎はため息をついた。
やがて緩やかな足音が二つ近づいてくるのに気がついて杏寿郎は姿勢を正した。
「…椎名、この人のことかい?」
少女を腕に抱いて現れたのは、長い銀髪に青い瞳のスラリとした体躯のまだ年若い、杏寿郎と同じぐらいに見える男だった。白を基調にしたゆったりとしたローブを身につけており、物腰が柔らかい。
杏寿郎は深々と頭を下げた。
「ご息女を驚かせてしまい申し訳ない!俺は煉獄杏寿郎と言う!」
「そうか、杏寿郎と言うのだね。どうやってここにたどり着いたのかな?」
(話し方がお館様に似ておられる)
物腰と同じく穏やかな話し方に気が緩みそうになり、慌てて引き締める。
「それは俺にもわからない!気がついたらここにいた!!」
「そうなんだね。では帰り方がわかるまで逗留するといい。部屋を用意させよう」
後ろに控えていた者に指示を出すと下がらせる。人を使うことに慣れている仕草だった。
「それからすまないが、腰の物は預からせてもらうよ。娘がいるのでね」
「……」
日輪刀に手をかけ杏寿郎は躊躇った。鬼の血気術を破り討伐するのに日輪刀を手放すのは不安が大きい。
「どうしたんだい?」
「…これは」
「とうさま、だめ」
椎名が父親の服を掴むと口を開いた。いやいやと首を横に振る。父親が困り顔をした。
「椎名、お前が冒険者に憧れているのはよく分かっているよ。でもね…」
「いや!だめなの!!」
椎名はジタバタと暴れると父親の腕から抜け出し、杏寿郎の足にしがみついた。涙目で見上げてくる椎名に杏寿郎が固まる。
(愛い!!)
父親は大きく肩を落とすと分かったよ、と言った。
「では椎名、そちらの客人を客間に案内して差し上げなさい。杏寿郎、娘がすまないね。内気な割には頑固なんだよ」
「俺の方こそ面妖な客ですまない!」
「木々と書物しかない所だが、ゆっくりしていきなさい」
それだけ言うと父親は杏寿郎と椎名を残し立ち去った。袴を引かれ杏寿郎が下を向くと椎名が両手を突き出している。
「抱っこ」
「っ!」
(なんと恐ろしい血気術だ!)
阿呆の感想である。
杏寿郎は自分を押し殺しつつ椎名を抱き上げた。
小さくて軽い。幼い頃の千寿郎を思い出して杏寿郎は気持ちが落ち着いた。
「あっち」
「わかった!」
示されるままに部屋を出ると左に曲がる。大きくとられた窓の外の風景に杏寿郎は思わず立ち止まった。
「凄いな!」
外には五十人で囲っても囲いきれないであろう大木がたくさん生えていた。その中をくり抜いてあるのだろう、窓や外廊下に人影が見える。
深い森の中、差し込む日の元でそれは美しい景色だった。
「あれはこの辺にしか生えていない木で…」
すっと伸ばされた腕から辿り椎名を見た杏寿郎は息を飲んだ。
(成長している)
一瞬前まで二、三歳程度だった椎名は杏寿郎が目を離した間に六歳ほどになっていた。
(記憶をたどりながら移動しているのか)
鬼の目的が見えずに杏寿郎は表情を険しくした。その顔をペチペチ椎名が叩く。
「聞いてる?杏寿郎?」
「あぁ聞いている!本当に美しいな!!」
へへー、と嬉しそうに笑う椎名を抱いたまま杏寿郎は当てがわれた客間に移動した。ドアがノックされ、目の覚めるような白い髪の女性が入ってくる。その瞳は椎名と同じ緑だ。椎名は杏寿郎の腕から降りると走り寄った。
「母さま」
「椎名、杏寿郎さんのお邪魔をしては駄目よ?」
「邪魔など!とんでもない!!」
むしろ目の届く所にいてくれた方がいい。杏寿郎が本気で否定すると母親は優しく笑って椎名の頭を撫でた。
「今日は貴女に良い知らせよ。おなたの叔父さんが帰ってくるそうよ」
「本当!?」
椎名はパッと表情を明るくした。その顔に杏寿郎の胸にモヤモヤしたものが広がる。杏寿郎は慌てて首を振った。
(椎名の家族に嫉妬するなど)
「杏寿郎」
「!?」
椎名に腕を引かれ杏寿郎はソファに座り込んだ。椎名が床に座りその膝に取り付く。椎名の姿は十五歳ぐらいの少女になっていた。
「聞いた?叔父さまが帰ってくるのよ杏寿郎」
「あぁ!良かったな椎名!!母君にはご兄弟がいらしたのだな!」
杏寿郎の何気ない一言に椎名はぼんやりした表情を見せた。
「え…?え、えぇ、そう!そうなの!!叔父さまは早くにこの森を出て冒険者をしているのよ」
「…そうか!それは楽しみだな!!」
ピリッとした鬼の気配を感じ、杏寿郎は警戒を強くした。椎名の様子もおかしい。
「それより、杏寿郎は冒険者なの?武器を持っていると言うことはそうなんでしよ?」
ワクワクした目を向けられて杏寿郎は返事に困った。この期待に満ちた目を裏切るのは辛いが、嘘も言えない。
「俺は鬼狩りだ」
「鬼、狩り?」
ソファの座面にくっつく形で椎名が首を傾げた。大人びてきた椎名は肩や背中の開いた柔らかなドレスを着ており、目のやり場に困る。杏寿郎はその頭を撫でると不自然にならないようそっと目を逸らした。
「俺の国には人を喰う悪い鬼がいてな!俺が斬るのはそう言う悪い鬼だ!!」
「…杏寿郎の国の鬼は怖い鬼なのね」
「あぁ!だが大丈夫だ!悪い鬼は俺が全て斬るからな!!」
「いいなぁ…私も森の外に行ってみたい」
椎名の目が夢見るように遠くなる。杏寿郎が快活に笑った。
「行けば良い!父君も母君も君の夢ならば応援してくれるだろう!!」
「そう、かしら?」
不安そうな椎名に力強く頷く。
「あぁ!そして立派な冒険者になったら俺の国に来ると良い!!」
「良いわね、楽しそう!」
椎名は満面の笑みを讃えるとパッと窓辺に駆け寄った。窓を大きく開け放つと下を覗き込む。
「杏寿郎!叔父さまが帰ってきたわ!!」
振り返った椎名はもう杏寿郎が知る年齢になっていた。杏寿郎の腕を取るとドレスを翻し走る。
(いよいよ来るか!)
鬼の気配が強くなってきて杏寿郎は気を引き締めた。外に出ると森の木々の高さが目に入る。
「叔父さま!」
椎名が駆け寄った人物に杏寿郎は思わず日輪刀に手を伸ばした。
母親と同じ白い髪を短髪にし、荷物を乗せた馬を引いた若い男がこちらを見る。しかし目は鬼の紅だった。
(いや、早計だ。もし椎名の思い出の中の人物を傷付けて椎名に何かあってはいけない)
血気術は時折得体の知れない結果を生むことがある。嬉しそうに話しかける椎名に穏やかに返す男の様子を見て、杏寿郎は刀から手を離した。
「杏寿郎。私、叔父さまについて行くわ!冒険者になるのよ!」
両手を広げて語る椎名の姿は既に冒険者のそれで、杏寿郎は時間の経過の速さに目を見張った。椎名の後ろにいる男の顔がニヤリと歪む。
周囲が暗転した次の瞬間、杏寿郎は椎名に斬りかかられていた。
「っ!椎名!?」
済んでのところで日輪刀を抜くと椎名の刀を弾く。その目は怒りに燃えていた。
「嘘つき!私たちが人間に何をしたと言うの!!皆んな皆んな…お前たちが殺した!!」
「椎名待て!目を覚ますんだ!!」
「五月蝿い!」
激しく斬りかかる椎名を刀ごと押しやると距離を取る。椎名の後ろにピタリと寄り添い男は囁いた。
「可哀想に。なぁ、椎名。欲に目が眩んだ人間に家族を殺されて。独り逃げ回らなきゃ行けなかったんだ」
「…そうよ、独りで……ずっと独りで!」
杏寿郎に向かい正面から突っ込んでいく。椎名らしくない戦い方に杏寿郎は歯を食いしばった。
(椎名を斬れと言わんばかりだな!)
ガキン!と刀同士がぶつかり合い鍔競り合う。杏寿郎は睨みつけてくる椎名の目を真っ直ぐに見返した。
「俺がいる!今の椎名には俺がいる!!お館様も、胡蝶も、宇髄も、不死川も…皆んないる!!」
「っ!」
ポロッと椎名の目から涙が溢れた。男が焦れたように叫ぶ。
「騙されるな!父親も母親も他の仲間もみんな死んだ!人間がやったんだ!!人間を憎め!!憎悪しろ!!」
「…杏寿郎っ」
苦しそうに叫ぶ椎名を引き寄せると杏寿郎は口付けた。息をする間もないほど深く。
杏寿郎の見つめる中、椎名の目から怒りが消え体から力が抜けた。その腕がだらりと下がる。
「おぉぉにがぁりぃぃぃぃっ!!」
鬼の本性を剥き出しにし男が叫んだ。ガリガリと頬をかきむしると杏寿郎に向かって飛びかかる。
「女の記憶で作った俺を斬ればどうなるか、試してみろぉぉぉ!」
「!!」
杏寿郎は刀を構えたまま躊躇した。鬼の顔に愉悦の笑みが浮かぶ。
しかし次の瞬間、横から伸びてきた刀で鬼の胴体は切り離されていた。
「な…にっ……!」
「椎名!」
「…出て行け、お前は私の記憶に必要ない!私に叔父などいない!!」
その言葉に杏寿郎は刀を構え直した。椎名も刀を翻す。
「私の記憶から出てけーっ!!!」
ーー炎の呼吸 壱の型 不知火ーー
ーー炎の呼吸 壱の型 不知火ーー
杏寿郎と椎名の繰り出す技に鬼の首が高々と舞い上がる。ドッと重い音を立てて鬼の首が地面に落ちた。
「ひひっ…ひひひひ…ひひ…ひ……」
嫌な笑いを残し鬼の首が消滅したところで杏寿郎と椎名の意識は途切れた。
「っ!」
跳ね起きると椎名はベッドから転がり落ちた。床に膝をつき喉を押さえる。
「かっ…は……」
居合わせたアオイが息を飲んだ。
「しのぶ様!椎名さんが…」
「椎名さん!」
アオイが叫ぶのと同時にしのぶが飛び込んでくる。下を向いて苦しむ椎名を覗き込んでしのぶが凍り付く。椎名の口の中にはぎっしりと白い灰が詰まっていた。
しのぶが何か言うより速く杏寿郎が目覚めるとベッドから飛び降りた。椎名の側に膝をつくと叫ぶ。
「吐き出せ椎名!それは鬼だ!!」
「「!?」」
驚愕するしのぶとアオイが同時に椎名を見る。息のできない椎名は苦しさに床を掻きむしった。
「頼む椎名、吐き出してくれっ」
悲壮な顔をする杏寿郎にしのぶも青ざめる。
「…っ」
「むーっ」
ぽすん、と小さな影が椎名の膝に乗った。途端に赤い炎が椎名を包む。部屋に駆け込んできた炭治郎が叫んだ。
「いいぞ禰󠄀豆子!椎名さんの中にいる鬼を燃やし尽くせ!!」
「むーっ!!」
炎が大きくなり熱さから逃れるように椎名が空を仰ぐ。杏寿郎が椎名を抱き締めた。
「頼む椎名!頑張ってくれ!!」
「ぅ…ぎゃぁぁぁぁぁぁ!!」
椎名の口の中から灰が巻き上がり醜い悲鳴を上げた。そのまま塵となり消えて行く。
「もう、少し…だったの、に……」
そんな言葉を残し鬼は消え去った。咳き込んで荒い息をする椎名にしのぶが座り込む。
「椎名さん…喉、喉を見せてください」
「………」
震えながら這い寄ってきたしのぶに椎名は黙って口を開けた。光にかざして奥まで確認し、しのぶがほっと息を吐く。
「喉を痛めているようですが、それだけのようです。薬湯をお出ししますね。しばらくは喋らないでください」
「良かった。帰ってきたら鬼の気配がして驚いたんです。役に立てて良かったです」
屈託無く笑う炭治郎に椎名は手を振った。役に立ったなんてものではない。命の恩人だ。
部屋の外では善逸と猪之助が大騒ぎしていた。
「いーやーっ!なんで蝶屋敷にまで鬼が出るんだよ!!俺の心の拠り所がぁぁぁっ!」
「ちくしょう!紋逸がしがみついて来るから鬼を切り損ねちまったじゃねぇか!!」
「アホかぁぁぁーっ!椎名さんの中に入ってる鬼なんて切れるわけないだろ!!間違って椎名さんを斬ったらどうすんだよ!」
「むー」
「あっ、こら禰󠄀豆子!」
自分を褒めろと椎名の膝に乗って行く禰󠄀豆子を炭治郎が嗜める。椎名は首を横に振ると禰󠄀豆子をそっと抱き締めた。ご満悦の禰󠄀豆子がしがみ付く。
どさり、と杏寿郎が座り込んで炭治郎達は目を丸くした。
「煉獄さん!?」
杏寿郎は天を仰ぐと両手を床につき、深々と息を吐き出した。
「流石に肝が冷えた」
安心のあまり完全脱力である。見たことない杏寿郎の姿に炭治郎達は呆気に取られた。
(安心しきってる。椎名さんが無事で嬉しかったんだな)
炭治郎達が知る中で一番人間臭い杏寿郎である。炭治郎は笑顔になると禰󠄀豆子を振り返った。
「禰󠄀豆子、そろそろ椎名さんから…」
炭治郎はそこで言葉を切った。椎名がしー、と人差し指を口に当てる。禰󠄀豆子は椎名にしがみついたままぐっすり眠っていた。
「あぁぁ、すいません!禰󠄀豆子、お兄ちゃんの所においで」
炭治郎が慌てて声をかけるが禰󠄀豆子はすっかり夢の住人だ。椎名は禰󠄀豆子を抱えたまま立ち上がると炭治郎の頭を撫でた。それから禰󠄀豆子と廊下を交互に指さす。
「え…あの…?」
意味を解しかねる炭治郎が戸惑うのに、同じく立ち上がった杏寿郎が答えた。
「竈門少女を部屋まで送ると言っているんだろう!君達も任務から戻ってきたばかりなら休んだ方がいい!」
「あ、ありがとうございます!」
「俺はお館様に報告してくる!」
立ち去る杏寿郎を見送ると炭治郎は禰󠄀豆子のベッドまで椎名を案内した。そっと降ろし布団をかけると、その小さな手が椎名の髪を掴む。
「禰󠄀豆子…」
手を上げ炭治郎を制すると椎名は人差し指を横に流した。その手にペンと紙が落ちる。サラサラとペンを走らせると、椎名はそれを炭治郎に見せた。
【さっきは本当にありがとう。もう少しだけ禰󠄀豆子のしたいようにさせてあげて】
「…あの、椎名さん大丈夫ですか?」
炭治郎は遠慮がちにそう尋ねた。先程からずっと椎名から寂しい匂いがしてきて胸が締め付けられる。椎名は少し考えると紙にこう書いた。
【血気術って厄介ね。でももう終わったことだから大丈夫よ】
「そう…ですか。俺も治療があるのでこれで。禰󠄀豆子はもう寝てるので無理しないでくださいね」
炭治郎は頭を下げると部屋を後にした。廊下に出ると杏寿郎が戻ってきたのにかち合う。
「煉獄さん、報告はもう終わったんですか?」
「あぁ!鎹鴉に運んでもらったから大丈夫だ!!竈門少年も大変だったようだな!」
もうすっかりいつもの炎柱煉獄杏寿郎だ。炭治郎は元気が出た気がして笑った。
「いえ!俺も禰󠄀豆子も大丈夫です!」
「そうか!」
杏寿郎は頷くと炭治郎が来た方へ歩き出した。何気なく見送っていると禰󠄀豆子の寝ている部屋に入って行く。ふと椎名の寂しい匂いが和らいだ気がして、炭治郎は優しい気持ちになった。
(きっと大丈夫だ)
炭治郎は安心して治療に向かったのだった。
部屋に入った途端、禰󠄀豆子の手が椎名の髪を掴んでいるのが目に入り杏寿郎は小さく笑った。
椅子を引き寄せると椎名の隣に腰掛ける。
杏寿郎は手を伸ばすと椎名の頬をそっと撫ぜた。
「喉はだいぶ痛むか?」
椎名は出したままだった紙に返事を書く。
【さっき薬湯を貰ったから少し落ち着いてる】
「そうか」
杏寿郎は頷くと椎名の肩を抱いた。
「すまなかった椎名」
「?」
「鬼は椎名の体を乗っ取ろうとしていたんだ。それに俺がもっと早く気づいていれば…」
グッと拳を握る杏寿郎に椎名はコンコンとペンで紙を叩いた。
【杏寿郎が私を正気に戻してくれた。だから鬼を倒せたし、記憶の間違いにも気付けた】
【父にも母にも兄弟はいない。だからこの叔父に関する記憶が違う事はよくわかってる】
わかっていると言いつつ椎名の表情は冴えなかった。杏寿郎がその頭に手を置く。
「やはり、記憶の一部が書き換えられたままなのだろう?辛ければ泣いていい。俺に怒ってもいい」
「っ!」
椎名は何度も首を横に振ると杏寿郎の肩に額を押し付けた。深呼吸して落ち着くと再びペンを取る。
【色々と鮮明に思い出して少し哀しくなっただけ。それにとっても不思議。記憶の中で私、杏寿郎と100年以上一緒に暮らしたことになってる】
「あの不思議な森、あれが椎名の故郷なのだな」
杏寿郎は目を閉じると先程までの風景を思い出した。深い森の中、穏やかに流れる時間。
「それに子供の頃の君も大層愛い子供だった」
「………」
かぁ…と赤くなる椎名の目尻に口付ける。
「見た事のない服を着ている君もとても新鮮だったしな」
だんだん空気が大人向けになって行く気がして、椎名は慌てて禰󠄀豆子を指さした。杏寿郎がにっこり微笑む。
「そうだな、竈門少女には早かろう。君も喉を早く治してくれ」
「……」
ほっとした様子で頷く椎名の耳元で囁く。
「喉が治ったらまた枯れるまで啼いてくれ」
ビシッと固まった椎名に杏寿郎はたっぷりと口付けた。
「本物の俺で君の記憶を一杯にしたいものだ」
【いや、もう、色々と吹き飛んだから勘弁して】
真っ赤になってしまった顔を両手で覆う椎名を、禰󠄀豆子が片目でチラ見して再び寝たフリをするのだった。