故郷の味と同席者
疲労困憊になるクリスマス休暇を乗り越え、新年を迎えてすぐのセブルスの誕生日をリリー達と楽しく祝い、次のリリーの誕生日のお祝いをどうするかとセブルスと真剣に考えていた一月の半ば、シドの元に一枚のカードが届いた。
そのカードはフクロウが届けたのではなく、一瞬にして目の前に現れたのだ。
このような連絡方法を取る相手は限られていた。
カードはしもべ妖精からであり、シドにとって朗報が綴られていた。
突然出現したカードに真剣にお菓子作りの本を読んでいるセブルスは気づかなかった。
シドとリリー達の手作りバースディケーキにいたく感激したセブルスは、リリーにもバースディケーキを作ると意気込んでいるのだ。
図書館でお菓子作りの本を沢山机に積み上げ、どのケーキにするか選んでいる姿は試験勉強の時と同じぐらいに真剣だ。
「セブルス、それウェディングケーキの本。さすがにそれを作るのは無理だよ」
なぜそんな本がホグワーツの図書館にあるか疑問でもあった。
「三段もケーキがあっておいしそうだ」
「うん。でもそれは結婚式の時に使う物だから、将来大人になってリリーとケーキ入刀する時まで我慢しようか」
声をひそめて言えば、予想通りにセブルスは顔を真っ赤に染め上げて睨んできた。何か文句を言いたいようだが、羞恥のあまり言葉が出てこないらしい。
何度か口をパクパクさせた後、再び強く睨んできた。
「ごめん。睨まないでよ」
「シドが馬鹿なことを言うからだ」
でも想像しなかった? 自分とリリーの結婚式?
そう質問すると黙りこんでしまった。
「とりあえず今はバースディケーキを選ぼう。初心者でも作れるやつで。さすがにプロ仕様のデコレーションケーキは作れないよ」
本に載っているようなクリームで繊細な模様を描くのはとても無理だ。
魔法使いの菓子職人が作る様子を動く写真で何度も再現しているが、ケーキを作り慣れた人間だから簡単そうにやっているのであって、素人にはとても無理だろう。
渋々と簡単そうな初心者向けのケーキ本を見始めたセブルスだが、すぐに課題のレポートをやり忘れていたと言い出した。
「それって明日提出の薬草学のレポート?」
「そうだ」
確か魔法薬学のレポートを終えた後にやると言っていた物だ。
思ったより魔法薬学のレポートに時間がかかり、魔法薬学のレポートが終わったことに安心してしまい、薬草学のレポートのことが頭から抜け落ちてしまっていたようだ。
「ケーキの本は片付けておくから、必要な本を探してきなよ」
「すまない」
慌ただしくセブルスが席を立ち、本を探しに薬草学の本棚へと消えて行った。
今回の薬草学の課題のレポートはそれほど難しくない。セブルスならすぐに終わるだろう。
そう思いながらケーキの本を元の場所に戻し、セブルスのいるだろう薬草学の本の棚に向かった。
「あった?」
ジッと棚を見ているセブルスの表情は冴えない。シドもつられるように本棚を見るが、レポートに必要な書籍がなかった。
同じレポートに取り組んでいると他の誰かが使っていることが良くあるのだ。
「あの本がないね。じゃあ部屋に戻ろうか」
「レポートがあるんだぞ」
なにを言っているんだと睨まれた。
「部屋に行けば僕の私物だけど、あのレポートの範囲が載った本があるから」
図書館にある本より緻密で薬草学の研究者向けな専門書だ。シドはその本を使ってレポートを書いた。
「貸してくれるのか?」
「もちろん」
寮の部屋に戻って本を渡すと、セブルスは礼を言ってすぐに机に向かった。そんなセブルスに出掛けると一声かけてからシドは部屋を出た。
寮内は温かいが一歩外に出るとイギリスの1月の寒さが身に染みる。
石造りのホグワーツは夏はひんやりと涼しく、冬は底冷えして寒々しい。
地下厨房への階段を白い息を吐きながら降りていく。
しもべ妖精からのカードには姉夫婦からの荷物を厨房で預かっていると書かれていたのだ。
厨房ではいつのようにしもべ妖精達が歓迎して出迎えてくれた。
「姉からの荷物はどこに?」
「はい。いつもセルウィン坊ちゃまがお使いになられているキッチンにございますのです」
「ありがとう。夕食の仕込みで忙しいだろう。こちらは勝手に使わせてもらうから、僕にかまわなくていい」
「お優しい、セルウィン坊ちゃま。勿体ないお言葉なのです」
キイキイと喜びながらしもべ妖精達は自分の仕事へ戻って行った。
いつも使っているキッチンには段ボールが一つ置いてあった。
段ボールはオレンジ色をしており、みかんの絵と「愛媛みかん」と懐かしい文字で書かれていた。
不意に胸が痛くなるような強い望郷の念にかられた。
前世の姉の姿が脳裏に浮かぶ。
姉は腐女子だが明るく元気で豪快な性格だった。友人が沢山いて、彼女のまわりにはいつも笑顔が溢れていた。
十代で両親を亡くして、幼い弟である自分を一人で育ててくれた唯一の肉親。惜しみない愛情を注いでくれた大切な家族。
「不意打ちだ」
『愛媛みかん』は前世の姉の好物のひとつだ。姉弟二人しかいないのに、毎年冬には箱で買ってきていた。
『私ばかり食べてたら黄色くなっちゃうから、蓮も食べなさい』と無理矢理食べさせられるのも毎年のことだった。
「姉さん、ごめん」
前世において一番の気がかりが彼女だった。
突然、自分が死んでしまったあと姉はどうしただろうか。
たった一人の肉親である自分を亡くした姉を婚約者が支えてくれただろうか。
義兄になるはずだった人物は信頼している。
優しく穏やかな人だった。元気に突き進む姉を後ろから見守っている印象の強い人で、頼りないと思ったこともあるが、今となってはすべてを包み込むような優しさを持っていたあの人が姉の婚約者で良かったと思う。
「姉さん」
泣きたくなるほどに胸が切なかった。悲しませたのは自分なのに。
強い思いに反応するように頬を涙が滑り落ちた。
自分が生まれた場所に帰りたいと切望する。
姉がいた世界に戻りたいと、まるで迷子の子供のような寂しさに襲われる。
「ちがう。帰る場所はもうそこじゃない」
シドは小さく頭を振る。
これは前世の記憶、思いだ。前世の自分は死んだ。どれほど望んでも自分はもう帰ることはできない。そして、自分はいまシド・セルウィンなのだ。
生まれた場所はイギリスで、戻るべき家族はセルウィン一族だ。
前世の姉も大切だ。だが、今ここに大切な人達がいる。守るべき沢山の家族がいる。だからいつまで感傷に浸かり続けるわけにはいかない。
「年なのか。涙もろくなってきたな」
涙を拭いながらシドは自嘲した。
前世の姉のことは良く思い出すが、これほど切ない感情を伴ったことは今までなかった。やはり実物を目にしてしまったせいだろう。
『愛媛みかん』の段ボールはシドの平常心を消し去るに十分の破壊力を持っていたのだ。
姉夫婦が懐かしい島国に住んでいるが、シドは前世に生まれ育った国に行ったことがない。
日本に行ったのが兄夫婦であれば喜んで遊びに行ったが、姉夫婦ではどうも遊びに行くきがしない。わざわざ姉の玩具になりに行く気はしないのだ。
「………いつか行ってみたいな」
きっと懐かしさのあまり泣いてしまうだろうけど。
そう思いながら、気をとりなおして再びみかんの段ボールを見た。今度は涙は溢れなかった。
「開けると捨て猫が出てきそうだ」
前世でもそんなベタな捨て猫は見たことがないが、ついそんな感想が口をつく。
空間拡張魔法のかかった段ボールからは次々と姉夫婦に頼んでいた物が出てきた。
日本食を食べたくて、その材料を頼んだのだ。
シドの料理好きは一族では有名なので、遠い島国の料理に興味を持ったのだと不審がる者はいなかった。
運良く手に入れることが出来た日本料理の本を参考に見せながら欲しい物を頼んだ。
見返りは姉主催の女装写真撮影会だったが、姉に玩具にされるのは慣れているし、懐かしい日本食のことを思えば我慢できた。
醤油にみそ、みりん、三温糖、日本酒などの調味料。鰹節に昆布、日本の米。地鶏に和牛等の肉。
豆腐やこんにゃく、納豆などの大豆製品。梅干しに日本茶もある。
日本のお菓子会社のシドの記憶よりレトロなチョコレートのパッケージが幾つも出てきた。
日本固有の物をわざわざ探してくれたのだろう、和菓子や金平糖が入った小瓶、煎餅もあった。
「和菓子や金平糖はお茶会で出そう」
女の子が喜びそうな可愛い形をしたお菓子だ。リリーもきっと気に入るだろうし、甘い物が好きなセブルスも喜ぶだろう。
懐かしい日本の食材を見るたびにシドは小躍りしたい気分になった。
日本の食器も頼んでいたが、夫婦仕様の和風柄の物が多かった。
いわゆる夫婦茶碗に夫婦湯飲み、夫婦箸。それが二セット。二夫婦分あった。
同封されていたカードには『スネイプ君と一緒に使いなさい』と書いてあった。
セブルスの写真を見た姉は彼をとても気に入り、特に親戚の子達から貰ったハロウィンの女装姿の写真を見た時は鼻息荒くセブルスのことを聞いてきた。
『こんな可愛い子が同室だなんて、なんて創作意欲を刺激するのかしら!』と不気味な笑い声をあげながらにやけた顔をしていて、シドはもちろん他の家族からも引かれていた。
腐な姉は面白がってこの夫婦シリーズを選んだのだろうが、イギリス人の姉がよくこんな物を見つけられたなと関心してしまう。
シドとしても使用できれば柄は気にしないし、和食器の夫婦茶碗などセブルスが知るわけもない。
せいぜい色違いのペアセットだと思うぐらいだ。
ホグワーツでは電気製品が使えない。そのために冷蔵庫もない。
食材は時間停止の魔法が活用できる。時間を止めてしまえば、常温に保存しておいても食材が腐らないのは嬉しい。
同じく電気製品が使えない理由で炊飯器もホグワーツにはない。
だが、炊飯器でケーキを作ろうとして炊飯器を三度破壊した前世の姉のおかげで、シドは鍋で米を炊く術を身に付けていた。
米を研ぎ、水を調整して入れて鍋を火にかける。米を炊いている間に料理に取り掛かった。
久しぶりの日本食作りは楽しかった。
醤油の匂いもみその香りも懐かしい。
料理は前世で近所の主婦達に教えてもらった。
彼女達は真剣に料理を習う男の子を微笑ましく思い、さらには彼に料理の才能があったためか、喜んで自分達の得意料理の数々を教えてくれた。
和食から洋食中華、お菓子作りに中にはパンの焼き方まで教えてくれた人もいた。そして姉は弟の作った料理を喜んで食べてくれたので、さらに料理に打ち込み、腕が上がった。
そういえば中学生ぐらいから年末には年越し蕎麦を打っていたなと、とても普通の男子中学生のすることとは思えない過去に苦笑する。
姉が喜んで食べてくれたからなにを作っても楽しかったのだ。
「…………シスコンだな」
過去の自分を顧みてそんな結論が出た。
当時の自分は絶対に認めないだろうが、傍から見れば間違いなくシスコンだ。
実際、高校や大学時代の友人に何度か言われた記憶がある。馬鹿を言うなと本気にしていなかったが。
前世の記憶を存分に発揮して、夢中で料理を作った。
炊きたての白米に豆腐のみそ汁。目に鮮やかな黄色のたくわん。醤油を使った鶏肉の唐揚げ。懐かしい日本の味である肉じゃが。前世で好物だった鯖の味噌煮。
並べられたホカホカとおいしそうな湯気をあげる料理を前にシドは満足気に頷く。
ただ前世の癖で二人前で作っており、一人で食べるには量が多かった。
ごはんとみそ汁とたくわんのセットと鯖の味噌煮一人前をトレーに載せて、飲食用のテーブルの置いておく。
セブルスやリリーにも食べさせてみたいが、濃い味付けのイギリスでは肉じゃがは味気ないかも知れない。
鯖の味噌煮も味噌に馴染みがないと手が出にくいはずだ。
唐揚げは醤油の風味の好き嫌いによるが、試しにおにぎりと一緒に夜食にでも持っていこうと、セブルスの反応を楽しく想像しながら、余った料理を片付けていく。
時間停止の魔法をかけて、料理が保存してある棚の一角に置かせてもらうことにした。
片付けが終わりいそいそとテーブルに向かうと、そこには思いがけない先客の姿があった。
ボロボロと大粒の涙が流しながら、一心不乱に箸を動かして鯖の味噌煮を食べている人物がいた。
鯖の味噌煮を食べ、白米を掻っ込み、あまりに急いで食べているせいか、白米で喉を詰まらせ、慌ててみそ汁の椀に口をつけて飲み込んだ。
喉の白米を流し込み、ホッと一息ついた後に再び椀に口をつけて、その表情が幸福だと言わんばかりに緩んでいるのがわかる。
シドはその場から踵を返すと、食料保存の棚からもう一人前の鯖の味噌煮定食セットを準備し、肉じゃがと鶏の唐揚げを一人前づつトレーに載せ、それを持って飲食用のテーブルに向かった。
今だ一心不乱に箸を動かしていた人物はシドの登場に驚いたが、彼の前に肉じゃがと鶏の唐揚げを置くと、そちらに目が釘付けになった。
『いただきます』
白米とみそ汁を前に自然と前世の習慣が出た。
手を合わせて言った言葉に、同じテーブルに座った人物は弾かれるようにこちらを凝視してきた。
灰の瞳がこぼれ落ちそうだと懐かしい白米を噛みしめながらシドは思った。
鯖の味噌煮は良い出来だった。脂ののった鯖と味噌の甘みがたまらなく、ふっくらツヤツヤに炊けた白いごはんと良くあっている。
みそ汁も丁寧に出汁をとった甲斐がありとてもおいしい。
己の料理の腕が鈍っていない満足感に笑みがこぼれる。
ふと、嗚咽の声に同席者を見れば、彼は鳥の唐揚げを口いっぱいに頬張りながら泣いていた。
泣いているのは気になるが、作り手としては気持ちの良い食べっぷりだった。
唐揚げをひとつ箸でつまむ。なにか恨みがましい目で見られたが、気にせずに一口食べる。
カリッとした衣に肉汁の溢れるジューシーな唐揚げはとても良い出来だった。イギリスの鶏肉のフライとは違う香ばしい醤油の風味が懐かしかった。
鯖の味噌煮定食を食べ終わり席を立つ。
「あ、あの」
「ほうじ茶を淹れてくる」
何か言いかけた言葉に被せるようにシドは言った。
同席者は肉じゃがをうっとりと噛みしめて食べていたが、席を立ったシドに慌てたように腰を椅子から浮かしかけ、シドの言葉に大人しく椅子に腰を下ろした。
食べ終わった食器はしもべ妖精が目敏く片付けはじめた為、洗った食器は厨房で預かっていて欲しいと頼むと、しもべ妖精は快く了承してくれた。
お湯を用意してもらい、荷物の中にあった急須とほうじ茶を用意する。
湯飲みは桜の花びらが描かれた色違いの夫婦湯飲みだった。
肉じゃがを食べ終わったのか、テーブルはしもべ妖精によってきれいに片付けられていた。ついでに彼の涙まみれだった顔もきれいになっていた。
湯飲みをテーブルに置き、シドは再び同席者であるレギュラス・ブラックの正面に座った。
なにか言いたげなブラック家の次男を無視して、熱い湯気をたてる香ばしいほうじ茶に息を吹きかける。
「…………あの料理は貴方が?」
短い沈黙ののちに戸惑いがちな声がそう告げた。
「そうだ」
「お嫁に来て下さい!」
「断る!」
唐突なプロポーズを一刀両断に却下する。
「じゃあ結婚して下さい!」
「断る。意味は同じだ」
「な、なら貴方の作ったみそ汁を毎朝飲みたい」
「古い。とりあえずお茶を飲んで落ちついたらどうだ」
湯飲みを進めると、フウフウと熱いお茶に息を吹きかけながらほうじ茶を飲み、幸せそうに緩んだ表情を見せる。
以前に厨房近くの地下通路で兄弟ケンカをしていた硬質な印象はまったくなく、またハロウィンの日に会話した時のいかにも良家の子息と言った優美さもない。
年齢相応の子供に相応しい幼い表情だ。
お茶を飲みながらチラチラとこちらを伺っている。
シドが視線を向ければ、サッと目を逸らす。シドが彼から視線を外せばこちらを見ている状態だ。
それを何度か繰り返したあと、やがて意を決したようにレギュラスは口を開いた。
「貴方は何者ですか?」
「セルウィン家当主の第三子。シド・セルウィン」
「それは知っています。僕が聞いてるのはそんなことじゃありません」
「なぜ日本食を作れるか?」
「イギリスの名門の子息が白米炊けて、出汁をとったみそ汁作って、日本の家庭の味肉じゃがに鯖の味噌煮、しかもめちゃくちゃおいしいなんてあり得ません」
「鳥の唐揚げは?」
「文句なしにおいしかったです。おかわり下さい」
正直な発言にシドは苦笑する。
「同じくイギリス魔法界名門子息の君が日本食にそこまで詳しいのも普通じゃない」
料理の名前を知っている上に、箸の使い方も完璧だ。ブラック家があの極東の島国に興味もしくは縁があったとはとても思えない。
いくつかの可能性を脳裏で整理していく。結論を出すには早急すぎる。だが、目の前の子供の言動を見ているとそうとしか考えられなかった。
テーブルの上にローブから取り出した小瓶を置く。
小瓶の中には赤や青、黄色に桃色や白などの淡い色彩のとげとげした丸い物体が詰め込まれている。
灰色の瞳をキラキラさせたレギュラスはそれを見て「金平糖だ」と嬉しそうに呟いた。
「僕が何者かと言ったね。大したことはない。ただ前世の記憶を持っているだけだ」
「……………………ハリー」
長い沈黙ののち発せられた言葉の続きをシドは無言で促した。
「ハリー・ポッターという本を知っていますか?」
「リリーとジェームズの息子の話」
「やっぱりあんた俺と同じなのか!」
興奮のあまり椅子から立ち上がって、テーブル越しにレギュラスは詰め寄ってきた。
突然言葉使いが荒くなったことに驚きながらシドは話を続ける。
「それは君も前世の記憶を持っていて、なおかつこの世界が前世では本の世界だったと知っているという意味でなら、おそらく君と同じだ」
「っ!」
「…………なぜまた泣くんだ?」
脱力したようにレギュラスは椅子にどさりと座った。その双眸からは再び涙が溢れ出ていた。堪えきれないような嗚咽が喉から漏れる。
「ずっと、ずっと俺は自分の頭がいかれてんだと不安だった。生まれた時から狂ってると思ったこともある。本の世界にいるなんて馬鹿馬鹿しい話し誰が信じる? しかもこの世界の未来を知ってる、知りたくもない自分の死すらも知ってるだなんて、俺だって人に言われたら相手の正気を疑うさ。完璧に頭のいかれた奴の発言だ」
嗚咽しながら話す声は助けを訴える悲鳴のように聞こえた。
それはシドにはわからない苦しみだった。
シドも彼同様にこの本の世界に生き、未来を知っているが、それを悲観視したことはない。
実際に本に名前が出てきた者とその存在すらもなかった者との違いだろう。
彼は自分の残酷な運命を知っている。レギュラス・ブラックは若くして死ぬのだ。
自分と家族の名前、魔法界、そして闇の帝王が揃っていれば、ハリー・ポッターを読んだ者なら自分の運命に行き着くのは容易い。
まして彼は孤独だ。生粋の純血主義者の父親に、高圧的な母親。母親寄りというだけで敵視する兄を持っている。
肉親は頼るべき相手ではなかった。
前世の記憶など人に言えるわけもなく、自分が狂っているのかと一人で悶々と悩むしか術がなかったのだろう。
「でもあんたがいた。この世界を本の世界だと言ってくれるあんたを見つけた。俺は狂ってない」
「君は正気だ。心配ない」
涙に濡れた灰の瞳を見て告げれば、レギュラスは堰を切ったように声を上げて泣き出した。