奇人変人からの手紙



 久しぶりに帰ってきたスピナーズ・エンドは汚れた川の異臭が鼻についた。
 曇り空で澱んだ空気に、薄汚れた壁や道。
 生気がなく表情の乏しい大人達の陰鬱な様が相変わらず不気味だった。
 セブルスは自分の手を引く母アイリーンを見上げる。
 彼女も以前は彼らのような表情をしていた。
 父の暴力に怯え、情緒不安定で陰気に沈んでいたのに、今はその面影すらもない。
 優しく微笑みながらホグワーツでの学校生活を聞いてくる。
 一体なにがあったのかすぐにでも聞きたいが、その話をしてしまうと母の優しげな笑顔が消えてしまうような気がして、セブルスから切りだすことはできなかった。
 寮や同室のシドのこと、一年間で楽しかったホグワーツでの話をアイリーンに話しているうちに家についた。
 アイリーンが鍵を開けたが、父親がいると思うと後を追って家の中に入る気がしなかった。
 あの男は嫌な物が戻ってきたと子供にも有り有りとわかる顔をするだろう。言葉で罵倒し、暴力を振るってくるはずだ。
 「セブ?」
 扉の前で立ち止まったセブルスの頭をアイリーンは優しく撫でた。
 「大丈夫よ。あの人は外国に出稼ぎに行ってるわ」
 「は?」
 それは単に妻子を捨てて家を出て行っただけじゃないのかとセブルスは思った。
 あの男が家族の為に外国まで出稼ぎに行くわけがない。借金でも作って逃げ出したと言われた方がよほど納得できた。
 変わったと思っていた母はやはり以前のままで、己に暴力を振るう男の愛を欲して、逃げ出した男を愚かに信じているのか。
 「詳しい説明は家に入ってからね」
 アイリーンに促されて家に入って再び驚いた。
 日当たりの良くない部屋が薄暗いのはいつも通りだったが、今までとは比べものにならないぐらいに室内がきれいに清掃されていた。
 貧しい生活の為に仕事に追われ、夫の暴力に脅えていた母は必要最低限の家事しかできず、家はいつも薄汚れていたのだ。
 壁も床も汚れておらず、テーブルやキッチンも清潔だった。
 キッチンの隅にいつも見かけた酒の瓶の姿はなく、父親がまき散らして家に染みついていた酒の匂いもまったく感じなかった。
 「さあ、荷物を自分の部屋に置いてきなさいな。その間に紅茶とクッキーを用意しておくわ」
 お話はその時しましょうと促されて、驚きが抜けないままセブルスは自室へ向かう。
 ベッドと机があるだけの殺風景なはずのセブルスの部屋もきれいに清掃されていた。
 薄汚れたカーテンもボロボロだった寝具も新しいきれいな物に変えられている。
 「………」
 驚きの連続に思考がついていかない。一度目を閉じ、大きく深呼吸してから再び室内を見る。そこにはやっぱり清潔にされた部屋ときれいな寝具があった。
 父親はセブルスの為に金を使うのを嫌う。
 母が稼いだ金でもセブルスの為に使おうものなら、母を殴るのだ。だからこれは父親のいない今のうちに母の一存で購入したものだろう。
 机も床もざらざらしない。ベッドの寝具は汚れても穴も空いてなく、柔らかくて清潔な匂いがした。
 窓から見える景色は確かに長年見慣れたものだったし、子供らしくない殺風景な部屋も間違いなく自分の部屋だ。
 母親の劇的な変化とこの家に起きた大きすぎる変化は好ましかった。
  父親が出稼ぎとやらでいないのも、殴られる心配がないと思えば多いに嬉しかった。
 リビングに戻ると紅茶の良い匂いがした。
 テーブルの上にセブルスが好きなチョコチップクッキーが並んでおり、ふわりとした湯気が揺れるカップを母親から受け取る。
 正直言えば紅茶もクッキーもシドが作る方が美味しいが、懐かしい味がしてじんわりと胸が温かくなった。
 セブルスの空になったカップに紅茶を注ぎながらアイリーンは話はじめた。
 「去年の11月にセルウィン家から手紙が届いたの」
 「シドの家から?」
 思いがけない名前が出て驚いた。
 「セブがあちらの家の手違いで数日寝込んだって謝罪の手紙だったの。びっくりしたわ。あの名門セルウィン家からの手紙にも驚いたし、セブが寝込んだのも初耳だったもの」
 去年の11月に寝込んだと言えばシドの祖母の媚薬の件しか心当たりがなく、内容が内容なためにわざわざ報告する気もなかった。
 シドの親からの手紙に詳細が書いてあったのか、連絡しなかったことをアイリーンは責めなかった。
 「セブの同室の子、シド君がセルウィン家の次男なのよね? お母さんね、シド君のご両親を知ってるの。彼らは憧れの先輩だったの」
 母の話によると母が入学した時、シドの両親は最上級生だった。
 スリザリンの王子様と呼ばれる麗人に、名高い名門出身でありながら周囲が呆れるほどのクィディッチ馬鹿の熱血漢は何かにつけて有名な二人だった。
 整った顔立ちをした美形の二人がすばらしいクィディッチ選手ならば、当然ながら寮問わず憧れる生徒は沢山いた。
 アイリーンは「昔はクローディア様のファンクラブに入っていたのよ。あの人はとっても素敵だったの」とうっすらと頬を染めながら少女のようにキラキラとした目で述べたが、セブルスとしては友人の母のファンクラブに自分の母親が入っていたと知るのは微妙な気分だった。
 確かに以前見たシドの母親の写真はとても女性には見えない美青年ではあったが。
 クィディッチ試合終了後の衝撃にプロポーズを興奮気味に述べる母の姿はどこかリリーを思い出させた。
 女性は幾つになってもこの手のロマンス話が好きらしい。
 「彼らは学生結婚して卒業間近の頃にはクローディア様のお腹の中に子供もいたの。 私は幸せそうに笑い合う二人を大広間で何度も見たわ。
 いつもきりりと勇ましいクローディア様がとても柔らかに笑っていて、好きな人と結婚が幸福に満ちたことなのだと当時のホグワーツの女の子はみんなそう思ったわ。 私も彼らのような結婚を夢見た」
 興奮気味に語っていた母親の声が小さくなっていく。
 「セルウィン家からの手紙を受け取った時、そんな昔を思い出して、子供の頃に見た夢と現実の違いに絶望したわ。
 幸せになるために結婚したのに、あの人のために家族も魔法界も捨てたのに、なぜ私はすべてを捨てて愛した人の暴力に脅えて惨めに小さくなって生きてるんだろうって」
 白くなるほど握りしめた己の手を見ていたアイリーンが顔をあげる。セブルスと同じ黒い瞳に涙が溢れていた。
 「結婚を決めた時、両親に勘当されたの。私はスリザリン出身だったから、マグルであるあの人と結婚したら友達もほとんどいなくなった。でもすべてを捨てても良いと思えるほどあの人が好きだった。幸せになれると思っていたわ。
 幸福な毎日が続いて、子供も一緒に大切に育てていくんだって、あの時は信じて疑っていなかった」
 ごめんなさいと涙をこぼしながらアイリーンはセブルスに謝罪してきた。
 「あなたが生まれた時は沢山の愛情を注いであげようと思っていた。私の大切な赤ちゃんだった。
 なのに私はいつの間にかあの人に暴力に脅えて、子供を愛することも忘れていた。
 手紙が来た時、最後にあなたを見た時の顔が思い出せなくて驚いたわ。そうしたら、今度は最後にセブが笑ったのはいつだったか疑問に思った。
 あなたはいつも寂しそうな不安な顔をしていた記憶しかなくて、小さな子供に自分はなにをしていたのかと情けなくなったわ」
 笑顔を忘れた幼い息子。そんな息子に貧しさや暴力の恐怖を理由に自分は気づいてやれなかった。
 この家で一番弱いのは子供で、母親である自分は息子を守らなければならなかったのに。
 すぐに職を失っては酒を飲み、暴力を振るう男を恐れながらも、いつか過去の優しかった彼に戻ってくれると淡い願いを抱き続けていた。けれどその願いは子供を道連れにこれ以上不幸になってまで願う価値のあるものなのか。
 「色々ショックを受けて寝込んでしまったけど、一週間かけてそう思うようになったの」
 寝込んだという言葉にセブルスは焦ったが、「もう大丈夫よ。去年の11月のことだもの。セブは優しいのね」とセブルスの頭を撫でた。
 「今まで一番大切なものを間違えてきたわ」
 自分と同じ色の瞳が強い決意に満ちていた。こんな生き生きとした母の姿は驚きだったが、しっかりと自分を見てくれる変化はセブルスの胸に安心感をもたらしてくれた。
 「今まであなたを守れなくてごめんなさい。セブ、私はあなたをきちんと守れる母親になるわ」
 もう私はあなたの母親に対する信頼を失ってしまっている? 
 私をまだお母さんだと思ってくれる?
 アイリーンは必死にそう問いてきて、その迫力に押されながらも、結局のところ母は父を優先にしていただけで、決してセブルスに愛情がなかったわけじゃないことは理解していたので、「僕はあの男が嫌いなだけでお母さんは嫌いじゃない」と答えた。
 好きと素直に言えないのがセブルスだが、アイリーンは嬉しそうに微笑んで抱きしめてきた。
 「ありがとう。私の可愛い坊や」
 「坊やはやめてほしい………あの男は?」
 アイリーンの優先順位が父から自分に変わったのは理解した。その上で、一体母親はなにをしたのだろうか。
 彼女とこの家の劇的な変化の理由を知りたかった。
 アイリーンは少しだけ躊躇するような様子を見せたが、思い出すような仕草をしながらすべてが変わった日の出来事を語り出した。
 セルウィン家からの手紙を受け取り、今までの結婚生活について悩み落ち込んでいる時に、夫はいつものように酒を飲んで暴力を振るおうとしてきた。
 『なんでこんな気味の悪い魔女なんかと結婚しちまったんだ』と吐き捨てられるのはもう慣れたはずなのに、その時は強い怒りに駆られた。
 夫の価値に疑問を持ちはじめ、今まで蔑ろにし続けていた息子への感情が大きく傾いていたから、夫の侮蔑の言葉に反感を持つのは簡単だった。
 怒りに我を忘れて魔力が暴走した。
 気づいた時には夫は壁に叩きつけられ気絶していた。
 倒れた男を前に、彼が目覚めたらまた殴られるという恐怖心は沸かず、だからと言って夫の体を心配する感情もおきなかった。
 怒りが静まると心は不思議なほど冴えていて、これからどうするかを冷静に考えはじめていた。
 殺すのは後始末が面倒だ。だからと言って魔力を暴走させてしまった記憶だけ消しても、同じことを繰り返すだけだ。
 今は壁に叩きつけただけだが、次もそうなるとは限らない。
 なによりもうこの男に罵倒されるのも殴られるのも嫌だった。
 アイリーンの言葉を聞いていてセブルスは呆然とした。
 「殺す?」
 まさか母からその言葉が出るとは思わなかった。
 「………女は昨日まで愛してた人を次の日には本気で憎むこともできるのよ。私は自分で気づかないうちに沢山の不満を心に持っていたみたいね」
 セブルスも大人になったら恋人を大切にしないとダメよと諭され、リリーを思い浮かべながらも必死に首を縦に振った。
 リリーは怒るととても怖いから、万が一に本気で憎まれたら再起不能にされそうで恐ろしかった。
 「あの男を殺したの?」
 出稼ぎは口実であの男は庭の土の下にでも埋まっているのか。
 あの男を殺してやりたい。庭にでも埋めてやりたい。
 それはかつて殴られた後にセブルスが強く願ったことだった。
 「子供がそんな言葉を口にしちゃいけないわ。出稼ぎに行ったと言ったでしょう。気絶したあの人に眠り薬を飲ませて、その間に魔法薬を作って飲ませたの」
 「魔法薬?」
 「そう。母に習った門外不出の強い惚れ薬で『愛の奴隷』と言うの。すごく強力で薬を飲まされた人は相手の言うことを何でもきくのよ。どんな理不尽なことでも笑顔で喜んで従ってくれる。
 解毒剤を飲ませないと死ぬまでずっと効いたままなの」
 「………服従の呪文に似てる」
 「まあ、服従の呪文を知ってるなんてえらいわ。しっかり勉強してるのね。大丈夫よ。
 これは魔法薬であって闇の魔法ではないわ。惚れ薬が強力になっただけ。恋する人は好きな人に喜んでもらいたい。その思いが強くなるだけの。
 私が外国に出稼ぎに行ってとお願いすれば、その日のうちにあの人は出て行ったわ。稼いだお金もきちんと送ってくれてるから薬の効き目はばっちりよ」
 母がスリザリン出身なのを今さらながら思い出した。
 母はあの男を死ぬまで飼い殺しする気なのだ。
 怒った女は心底恐ろしいと身震いしたが、母の生き生きとした笑顔を見ると、あの男の人生がどうなろうと気にならなかった。
 それから母は魔法界での職探しをはじめたという。出稼ぎ先からの送金はあるが、それに依存する気はなかったようだ。
 魔法界嫌いの夫の反対がなくなれば、魔法界と縁を切っている理由もない。
 暴力を振るう父親がいなかったにもかかわらず、セブルスにクリスマスに帰ってこないように連絡したのは、セブルスにとって嫌な思い出しかないだろうこの陰鬱とした家をまったく別物にしたい理由からだった。
 次に会う時は母親として胸をはって会いたかったと述べたアイリーンにセブルスは目頭が熱くなったが、情けない泣き顔を見られたくなくて必死に涙を止めた。
 長い間マグルの世界にいた魔女を雇う職場はなかなか見つからなかった。
 職探しで数ヶ月が過ぎ焦っている所に古い友人から手紙が届いた。
 手紙の差出人はレイブンクロー出身の魔女で、お互いに魔法薬学が得意で友人になり、卒業後も彼女がマグルと結婚したのを切っ掛けに再び交流がはじまった相手だ。
 夫が魔女だからと彼女との付き合いを反対するまえはよく会っていたりもした。
 最後に夫の事情を説明した詫びの手紙を送ったきり交流は途絶えていた。
 手紙には風の噂でアイリーンが魔法界で職を探しているのを聞いた。もし良かったら自分の職場に来ないかという誘いだった。
 彼女の職場は病気や呪いに関する魔法薬の研究所で、取り扱う病気や呪いが難解な物が多く、いつも研究員不足に悩まされている。
 興味があるようだったら連絡して欲しいと綴られいた。
 もともと結婚前は魔法薬の調合に関する仕事に就いていたアイリーンにとって渡りに船だった。すぐに友人に手紙を送った。
 「魔法薬の研究室に就職?」
 「そう。まだまだ研修期間なの。専門的な研究室で今までまったく知らなかったことを勉強しながら研究させてもらってるんだけど楽しいわ」
 思っていたより研究所は大きくて、設備もしっかり揃っていた。
 研究員達は専門職につく人間らしく気むずかしい人も多かったが、理不尽に暴力を振るう相手に比べれば何の問題もなかった。
 研究員は薄給のイメージがあったが、しっかりとしたスポンサーがいるらしく給料は親子二人が食べていくには充分なものだった。
 「セブはこの変化は嫌かしら? あの人に惚れ薬を飲ませて利用してるお母さんを嫌いになる?」
 少し不安そうに訊ねられて必死に首を横に振った。
 この状況は歓迎こそすれ、否定する理由は皆無だった。純粋に今までの生活をすべて変える決断をした母は凄いと思うし、自分を大切にしてくれてる気持ちが嬉しかった。
 


 父親のいない生活は快適だった。
 家の中で不快な酒の匂いはしないし、母や自分を脅えさせる暴力もない。
 アイリーンが笑顔で朝の挨拶をしてくれても、朝食の席についても怒鳴られない。
 一緒に食事をとり、後片付けをしたあとにアイリーンは仕事に行く。
 簡単な昼食は冷蔵庫に用意してあって、夜は七時までに帰ってきて、それから夕食の準備をして食べる生活を繰り返している。
  母がいない間に課題をしたり、母が魔法で父親には見えないように隠していた魔法薬の本を読んだりして過ごした。
 アイリーンは今までの親子の時間を取り戻すようにセブルスと話すようになった。
  仕事が休みの日は魔法薬を一緒に作り、調合の手際の良さを褒められて少しだけ得意な気分になった。
 日々仕事に忙しい母を労ってクッキーを焼いて振る舞ったらひどく驚かれ、シドに教えてもらったと話せば、「シド君は名家出身の男の子よね?」と微妙な表情で言われた。
 既にシドは料理上手と認識している為にセブルスは変に思っていなかったが、名家の次男が料理好きとは一般的に考えれば妙な話なのだ。
 だが「シドはセルウィンの人間だから」と口にすると、アイリーンはあっさりと納得してくれた。
 大人の世界でもセルウィン家の奇人変人ぶりは浸透しているらしい。
 母親の変化が嬉しくて喜びのままシドに手紙を書き綴ってしまった。
 暴力を振るう父親のことは伏せ、問題のある父親を母が見限って追い出した。
 母と一緒に魔法薬の調合やお菓子作りをして毎日が楽しいと高揚する気分のまま書いてしまい、手紙を送って一夜明けてから冷静になると、恥ずかしくて居たたまれなくなった。
 嬉しさで興奮するあまり自分はなんて手紙を書いたのか。あれでは自分が母親を大好きだと言っているようなものだった。
 事実そうなのだが、わざわざシドに教えることでもない。
 数日後にシドから手紙が届いた。
 新たなセルウィンはまだ誕生していないが、現在のセルウィンの家は新しい家族誕生に向けて毎日お祭り騒ぎでうるさくて落ち着かない。
 大人達が率先して子供の勉学の邪魔をするなんて問題だと愚痴が綴られていた。
 セブルスが出したテンションの高い手紙については触れておらず、ホッと安堵の息をついたが、手紙の最後の一枚にお菓子のレシピが入っていて首を傾げた。
 「かぼちゃのプリン?」
 それはかぼちゃのプリンのレシピだった。
 不思議に思いながらも作り方を読んでいき、一番最後に『ぜひお母さんと一緒に作ってみて』の一文を見つけた。
 瞬時にニヤニヤ笑っているシドの顔が思い浮かんで顔に熱がたまり、襲いくる羞恥心にベッドの上で唸りながらじたばたと悶えた。
 かぼちゃのプリンは美味しかった。
 一緒に作ったアイリーンが大絶賛して、セブルスの家の定番のおやつになったのだが、かぼちゃプリンを見るたびにニヤニヤ笑うシドの顔を思い浮かべてしまいセブルスは複雑な気分に陥ることになった。





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