世界に馴染む

 天井から床まで壁一面を覆う本棚。
 壁だけではなく幾つもの本棚が室内にならび、室内はさながら図書室のような本棚の迷路を造り出している。
 ぎっしりとつまった重厚な背表紙を目で追っていく。
 日光は書物を傷めるために本を保管している部屋は窓がない。
 一定の間隔に浮いている蝋燭の火がゆらゆらと室内を照らしていた。
 「『死にそうで死なない苦しみを与える毒草百選』あった」
 目当ての本を見つけて手に取る。
 ずっしりとした重みは本好きには嬉しい重みだ。
 オレンジ色の灯りの中、満足げに少年は微笑む。
 図書室の中央には椅子と机が設置してある。机の上は本と羊皮紙で溢れており、新たな本の追加に本の塔が雪崩を起こした。
 少年は慌てて杖を振るう。本と羊皮紙は宙でふわふわと浮いて止まった。
 「いけない。本に傷がついたら大変だ」
 安堵の息をもらし、とりあえず読み終わった本を棚に戻すことにした。これ以上、机の上に本を置いては満足に羊皮紙を開いて物を書くスペースすらなくなってしまう。
 杖を振るい、本を定位置に戻していく。
 ふと、間近でカツンと靴音が響いた。驚いて振り返ると、そこには白いシャツと黒いズボンを履いた長身の人物がいた。
 ひとつに緩くまとめられ、背に流された金の髪が蝋燭の灯りにきらきらと輝いている。
 空色の瞳は意志の強さを表すようにまっすぐと少年を見つめ、
その人物が纏う凛とした清廉な空気と凛々しく整った顔立ちは近寄りがたいような印象を他人に与える。
 突然現れた人物の姿を認めて、少年は再び安堵の息を吐いた。
 「母上、驚かさないで下さい」
 「驚かせるつもりはなかったぞ。鍛錬が足りんな。母の気配ぐらいすぐに気づけるようになれ」
 形の良い唇が弧を描いて笑う。
 「気配を消していた母上に気づくのは父上だけです」
 「確かに。気配の消し方は完璧のはずだが、あやつは必ず見つけるな。私も鍛錬が必要かも知れん」
 「父上曰く、母上への愛ゆえに気配がわかるらしいですね」
 「ふむ。なら仕方ないな」
 一見、美青年に見える妙齢の母親クローディアはあっさりと納得したように頷いた。
 「それで、母上。なにかありましたか? この図書室に来られるなんて珍しい」
 母はあまり本を好まない。小さな文字の列を見ていると頭痛がするらしい。
 「これだ」
 黄色味がかった一枚の封筒を差し出された。
 宛名は「シド・セルウィン様」とエメラルド色のインクで書かれている。
 紋章入りの紫色の蝋で封印は見覚えがあった。大きくHと書かれた文字の周りをライオン、鷲、穴熊と蛇が囲んでいる姿は何度か見たことがある。封筒は分厚く重かった。
 「ホグワーツ魔法魔術学校からですか。ああ、そういえば僕もそろそろ11歳だった。これは入学案内と考えるべきですね」
 「そのようだ」
 淡泊な息子の反応に母親は不満げだった。
 「魔力があって入学が確定していたとはいえ、もう少し子供らしい反応が欲しかったぞ」
 「喜び飛び跳ねるなんて無理です」
 そんな子供っぽくて恥ずかしいとシドは主張するが、「おまえは子供だ」と母親は一刀両断した。
 「ああ、でも、この屋敷から離れるのは淋しいです。ホグワーツは全寮制ですから」
 「休暇には帰って来れば良い。ホグワーツでは新たな出会いがある。出会いを楽しめ。かけがえのない友を得れば、寂しさなど吹き飛ぶものだ」
 「まだこの図書室の蔵書を制覇していないのに」
 途端にべしっと頭を叩かれた。
 「なんですか、いきなり叩くなんて」
 「親の言葉ぐらい聞いておけ!」
 「一応、聞いていました。ホグワーツで新たな蔵書との出会いを楽しんできます」
 「おまえの頭の中はどれだけ蔵書のことでいっぱいなんだ?!」
 呆れたように息を吐く姿は一枚の絵のように美しいが、ため息の理由があまりに情けなかった。
 「その中に教科書と教材のリストが入っているはずだ。明日、ダイアゴン横丁へ買いに行くぞ」
 「一人で行けますよ」
 正直なところ、この男装の麗人な母親と出歩くのは苦手だった。
 とにかくすれ違う女性の目が多くて痛い。その辺の男の立場など無きに等しいぐらい道行く女性を虜にする。
 「そう母を邪険するな。私も買いたい物があるのだ。それに教書や鍋など荷物は多いぞ。とても子供一人で持ち運べるものではない」
 反論は許さないと宣言し、クローディアは踵を返す。
 「そうだ、そろそろ夕食の時間だ。魔法薬学の研究は今日はそこまでにしておけ」
 それだけ告げると図書室を出て行く。
 母親がいなくなったあと、シドは封筒を開いた。
 母親が言った通りに教科書と教材のリスト、ホグワーツの入学許可の羊皮紙が入っていたのを見て苦笑気味に呟く。
 「入学許可か………まいったな。どんどんハリポタの世界に足を踏み入れていくじゃないか」










 シドには前世の記憶がある。
 赤ん坊の時から前世である川瀬蓮という日本人の記憶があり人格があった。
 シドはここではない世界で生まれて生きて、そして大型トラックに轢かれて死んだのだ。
 その世界ではこの世界は本の中の物語だった。
 「夢か冗談だと思ってたんだけどなぁ。異世界転生ってそんなの望んでる奴にやってくれればいいのに」
 例えば前世の世界の姉とか。
 年の離れた姉は両親が死んだあと、川瀬蓮を若いながら女手ひとつで育てた人物だが、彼女はいわゆる腐女子だった。
 ボーイズラブなる物が大好物で、同人誌や二次創作サイト巡りなど生き甲斐にしていた。
そして彼女はこの世界ハリーポッターが大好きだった。
 常々、トリップしたいと言っていた。転生じゃないのは「私が死んだら蓮が泣くでしょ」という理由からだった。
 「ごめん、姉さん。俺が姉さん泣かせちゃったよ」
 大型トラックに轢かれた衝撃は生々しく覚えていた。痛みの感覚はすぐに消えた。
 おそらく自分は即死だったのだろう。その後、気がついたら大声で泣いていた。
 世界が眩しくて息が苦しかった。温かい場所から抜け出てしまって不安で仕方がなかった。
 それがシドとして生まれ落ちた最初の記憶となった。

 シドがなぜ異世界転生やトリップという言葉を知っているかと言えば、腐女子であった姉が懇切丁寧に説明してくれ、なおかつ「蓮、文章書くの得意だったよね。さあ、このお姉様が満足する萌えな男夢のBL小説を書いてごらんなさい」と無理難題を押しつけられた経験があるからだ。
 いつか覚める夢だと願い続けた赤ん坊時代。あきらめて開き直った幼少期はとりあえずこの魔法の世界を楽しむことに決めた。
 幸いにして、このセルウィン家は幼児の頃から妙に大人びたシドを不気味がることもなく、他の兄姉と隔てなく愛情を注いでくれた。 
 そんな愛情を受けてすくすく育ち、今は魔力を持った者が通うホグワーツからの入学許可の手紙を手にしている。
 「年代からしてハリーの話にぶつかることないか」
 ハリーポッターシリーズは映画で見たが本は読んだことがなかった。だから覚えている内容はおぼろげだった。
 今は70年代。ハリーが入学するのは90年代と記憶している。
 原作に接触しなければ未来に支障はないはずだ。なので気楽に学園生活を楽しませてもらおうとシドは考えていた。
 ホグワーツの数多あろう蔵書に思いを馳せながら。






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