短編
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気が付けば遠くへ来すぎていた。
亜蓮はバスのシートに深く沈みこんだまま、薄く開いた瞼から差しこむ曇天の色に目を細めた。
車内は彼ひとりだけで静かに停車している。
先客の手垢で汚れた窓から見えるのは、雨を孕んだ曇り空と、舗装もまばらな田舎の終点だった。
「……まじかよ」
誰に聞かせるでもない声が乾いた車内に落ちる。
ツレの家を出た帰り、心地のよい揺れと暖房のぬくもりに油断して深く寝入ってしまったのだろう。
ぼんやりとした意識のなかで亜蓮はスマホを取り出す。
圏外ではないがバスはすでに折り返しまで時間があるらしい。
仕方なく亜蓮は重い腰を上げた。
気まぐれな散歩のようにバス停から外に出る。
どこか懐かしい、けれど明確な記憶にない田舎の風景が広がっていた。
空は低く山の稜線も柔らかに霞んでいる。
枯葉混じりの風が舗道に寝そべるように吹き、冷たい空気が首筋を撫でた。
空気が澄みすぎていて、都会のノイズが逆に恋しくなるくらいだ。
「ダリぃな……」
小さく呟いたその時、不意に冷たい粒が額に落ちる。
空を見上げるまでもなく雨が降り始めていた。
ぱら、ぱら、と音を立てて時間の感覚さえ少しずつ溶かしていく。
亜蓮は仕方なく元のバス停へ戻ることにした。
見慣れない町をぶらつくには、寒さと雨の組み合わせが少しばかり厄介すぎたからだ。
バス停は小さくどこかノスタルジックな雰囲気を醸し出している。
亜蓮の背丈だと屋根の下で真っ直ぐ経つことはできないが、ベンチもありこれ以上濡れないだけマシだろう。
ポケットに手を突っ込み脚を開いて座り、雨の帳を眺めていた。
そこに小さな足音が聞こえてくる。
静かに近付いてくる誰かの気配。
乾いた道が雨でぬかるむ音に、もうひとつ細いリズムを刻んでいる。
足音の人物が傘も差さずに駆けてくる姿に気付いたとき、亜蓮は少しだけ眉を上げた。
「……お前、なんでここにいんだよ?」
思わず声が漏れたのは意図したというより、驚きが勝ったからだった。
目の前に立ったのは、眼鏡をかけたまま肩まで濡れた同じクラスの地味なやつ。
「……図書館。バス、時間合わなくて」
呟くような声。すこしだけ息が上がっていた。
その手には小さなトートバッグと文庫本。
細い銀縁のメガネが濡れて曇っている。
「マジ?こんなとこまで?」
亜蓮は我知らずで問い返す。
彼は頷きながら前髪を無造作にかき上げる。
「静かで、空いてて、読みやすいから」
言葉数は少ないのに不思議と耳に残る声だった。
そういえば瞬と時々話しているのを見たことがある。
けれど、こうして正面から向き合ったのはたぶん、初めてだ。
「……濡れてんな。風邪ひくぞ」
気が付けばそう口にしていた。
彼は「うん」とだけ返し、傍に座る。
男二人が幅の狭いベンチに座れば、肩と肩がかすかに触れ合ってしまう。
静かな時間が流れていく。
雨音だけが規則的に耳に降り積もっている。
その沈黙の中、彼は不意に隣でメガネを外した。
くもったレンズを指先で拭う仕草。
その一瞬で素顔があらわになる。
ぱちりとした二重の瞳。長く濡れた睫毛。
頬に流れる水滴が透明な光を孕んでいた。
「……」
言葉がどこかへ落ちた。
それまでただの「地味なやつ」と思っていた。瞬と時々話している、特に気にも留めていなかったただのクラスメイト。
だが今、目の前にいるのは――
「……なんか、顔ちがくね?」
無意識に出た言葉に彼はすこしだけ笑った。
そんなふうに言われたのは初めてだったのか、ほんの少しだけ困ったような顔で目を伏せる。
「メガネ、ないとあんまり見えないんだけど……雨でくもってるから」
ただそれだけ。
なのに、彼の顔がいっそう柔らかく見えた。
「へえ……」
亜蓮は軽く相づちを打ちながら視線をそらせない。
白い肌に細く通る鼻筋、やわらかそうな唇――
じっと見ていると雨粒がすうっと頬を滑って、まるで、触れもしていないのに指先を滑らせたみたいだ。
その水の軌跡を亜蓮の視線がゆっくりとなぞる。
雨音が壁のようにふたりを包んで、世界の音が遠ざかる。
「……そのへんに、図書館なんてあったか?」
やっとのことで出てきた言葉はあまりに普通すぎて、自分でも呆れそうになる。
けれど彼はふっと目を細めて頷いた。
「あるよ。小さいとこだけど、ひとが少ないから好きなんだ」
「へえ」
まつ毛の先に乗った雨がまたひとつ落ちた。
視線を逸らせばいいはずなのに、亜蓮は逸らさない。
その一滴までも見逃したくないような、そんな気分になっていたからだ。
「……お前さ、瞬とはまたに話してるけど、いつも1人だよな」
ふと浮かんだ疑問をそのまま口に出す。
彼は少し驚いたように目を開いてから、やがて笑った。
「瞬くん、おもしろいよね」
「まぁな。…いや、そうじゃなくて。仲良さそうだけどよ、たまに話してんなーくらいで」
「うん、そんな感じだと思う。僕あんまり、人とずっと一緒にいるの得意じゃないから」
「ふうん」
それは、わかる気がした。
一歩ひいて、でも完全には距離を取らない。
黙っているくせに、どこか視線の届くところにいる。
そういう空気を彼は纏っていた。
「でも、亜蓮くんとは、いま結構話してるね」
その名を呼ばれて胸の奥がかすかに鳴る。
声は落ち着いているのにどこかに火が潜んでいるような口調だった。
「いきなり名前で呼ぶ奴があるかよ」
「あっごめん。瞬くんがそう呼んでたから…。じゃあ、窪谷須くん?」
「別にどっちでもかまわねぇけどよ」
彼は笑った。その笑みも雨で少し濡れている。
目元に張りつく前髪と、柔らかく揺れる吐息。
その空気になんだか無償に触れたくなる。
バスが来るまであと二十分。
ふたりともそれを知っているのに、どちらも時計を見ようとしなかった。
ただひたひたと降り続ける雨音の中で、彼の存在感がしだいに際立っていくのを感じる。
「……寒くね?」
そう言ったのは亜蓮だった。
空気に薄くしみ出すような言葉に彼は少し肩をすくめる。
「うん、ちょっとだけ。けど……雨に包まれてるの、なんか落ち着く」
「……わかんねえけど、言いたいことはわからなくもねぇ」
雨音はときどき強く、ときどき弱く、ふたりの間にある無言に形を与えていた。
それはまるで言葉よりも深く、沈黙よりもやさしい何かだった。
亜蓮はふと、斜め横を見る。
目の前にいるのにまるで夢のなかのようだ。
ぬれた前髪から覗くその横顔は、昼間の教室では見たことのない輪郭をしている。
制服の枠を外された彼は、どこか違う空気をまとっていて、綺麗だった。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと痛くなる。
「……なんかさ、お前」
「うん?」
「地味なヤツだと思ってたけど、ぜんぜんちがったわ」
そう口にしてから思ったよりも自分の声が掠れていて、亜蓮は少しだけ言葉を詰まらせた。
彼は驚いたように目を見開いてから、すこし笑って、うつむいた。
「それ、褒めてる?」
「どーだろな……でも、いまの顔見て、ちょっと、ドキッとした」
それは正直すぎる言葉だった。
でも嘘はひとつもない。
彼は何も言わず、けれど視線を外さずにまっすぐこちらを見ている。
その瞳に映る自分が、ほんの少しだけやわらかく見えた気がした。
ぬれたコンクリートに落ちる水音。
遠くで風が木を揺らし、何かが軋むような音がした。
それでもこの狭いバス停の屋根の下は、妙にあたたかい。
「亜蓮くん、前髪……」
彼がそう言ってふいに手を伸ばす。
指先が額に触れる。
濡れた前髪をすっと払うとそのわずかな仕草が体温の芯をなぞっていく。
「……ありがとよ」
そう言うのがやっとだった。
息が混ざるほどの距離。
ふわりと立ちのぼる香りに亜蓮は気づいた。
洗剤でも香水でもない彼自身の匂いだ。
少しだけ雨に濡れて冷たいはずなのに、どこか甘いような、柔らかい匂い。
近づくたび頭じゃなくて身体が反応していく。
言葉を選ぶ余裕もなく、ただそのままの距離に酔っていた。
「いい匂いすんな」
「そう?」
「うん。なんか、ちょっと……」
言い淀む。
けれど、その先はもう言わずとも伝わっていた。
見つめる視線がそれを語っている。
「ドキドキする?」
その言葉は、囁くような声で。
けれど静けさのなかでは確かに響いた。
亜蓮の肩がびくりと揺れる。
「お前さ……それ、わかってて言ってんのか」
「どうだろ」
彼は小さく笑って視線を外した。
一瞬の沈黙がなぜかやけに長く感じられる。
時間がゆっくり流れていき、緩やかに溶ける。
「……なあ」
「ん?」
「なんかさ、今日変だわ。俺」
「うん。僕も、そう思う」
「なんで?」
「……たぶん、雨のせいかな」
その返事に、亜蓮は少しだけ目を細める。
たしかに、そうかもしれない。
濡れた空気。くぐもった光。重たい雲。
そして、ふたりきりの、この狭い屋根の下。
「雨ってさ」
「うん」
「風情があるよね」
「んだ、それ?」
今度は、冗談っぽく笑ってみせる。
亜蓮には知らない単語だった。
けれど彼はそのまま黙ってそっと視線をこちらに戻す。
そのまなざしが静かに何かを受け止めるようで、亜蓮は思わず息をのんだ。
「ま、わからなくもねぇ」
「うそつき」
―あ。多分、これは……
ぼんやりとした頭で彼の濡れて流れた髪を耳にかけてやる。
亜蓮の乾いた手のひらを湿らす柔らかい髪の感触はリアルなのに、どこか現実味のない感覚。
雨音だけがやけに鮮明に耳に残り、絶え間なく振り注ぎ続けていた。
(ヒトメボレ、ってヤツだな)
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