短編
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昼休み直前の教室はうるさかった。
照橋さんを囲んだ男子の浮ついた声。
机を引く音や喧騒。そういう全部の音の奥から、「澪」と呼ぶ声だけは妙にはっきりと聞こえてきた。
亜蓮が立ち上がって真っ直ぐこっちへと向かってくる。
その瞬間、自分でも笑いそうになるくらい胸が高鳴った。
「お前それ、どうした」
頬に指が触れる。
前日にぶつけた頬がジクジクと熱を持って疼いていた。
「あー、階段で転んだ」
「嘘つけ」
即答だった。
眼鏡の奥の瞳が険しい。
ああ、そんな表情も好きだなと思う。
自分の為だけに顔を歪めるところ。
「最近ずっと怪我してんだろ」
「ドジなんだよね」
「んなレベルじゃねぇって」
亜蓮は眉間に皺を寄せたまま俺の顔を覗き込む。
近い。制服越しに体温まで伝わってきそうで息が詰まった。
「痛ぇか」
「まあ」
「腫れてんじゃねぇか……」
触れ方だけが妙に優しい。
痛いはずなのに、触れられた場所から別の熱が広がっていく。
そのまま手首を掴まれ廊下へと引っ張り出された。
「うお、亜蓮はや」
「いいから来い」
授業開始前の階段の踊り場は静かだった。
窓から入る風が妙に生ぬるい。
亜蓮はしゃがみ込みまた澪の頬を撫でる。
「絶対誰かにやられてんだろ」
「だから違うって」
「……お前さ」
澄んだ低い声。
「もっと人頼れよ」
胸の奥がじわりと溶ける。
自分のことを見てくれて、気にかけてくれている。
それだけで殴られた痛みが全部報われた気がした。
最初は本当にただの偶然だった。
放課後、突然の発熱でふらふらしながら歩いていると街の不良にぶつかった。
胸ぐらを掴まれ酒臭い息が顔にかかる。
熱に浮かされた体では、思考も停止し謝る気力さえも無かった。
視界がぐらぐらして、ああこのまま倒れるかもなと思った瞬間、横から誰かの腕が伸びる。
次の瞬間には不良達が地面に転がっていた。
何が起きたかわからなかった。
ただ、目の前に立っていた窪谷須亜蓮だけがやけに鮮明に覚えている。
「おい、大丈夫か」
低い声。
差し出された手が大きい。
掴んだ瞬間、「熱っ」と顔をしかめる。
「お前熱あんのかよ」
「……たぶん」
「歩けるか?」
「無理かも」
亜蓮は少し黙ったあと「じゃあ来い」とぶっきらぼうに言った。
連れていかれた家は、外壁に変な落書きが大量にされていてちょっと怖い。
それでも部屋は妙に綺麗だった。
いかにもヤンキーな内装に内心驚愕するも、部屋の中は優しい柔軟剤の匂いが漂っている。
「適当に寝ろ」
「ごめん……」
「いいって」
なんとも言えない柄の布団に入った瞬間、意識がどろりと暗闇に落ちていく。
次に目を開けた時、机の上にはラーメンが置いてあった。
ほかほかと湯気が立っている。
亜蓮はスマホを見ながら「あ、起きた」と笑っていた。
「食えるか?」
「……食う」
寝起きのラーメンはやたら美味しくて、ぼやけていた頭が少しずつ覚醒する。
「お前さ」
亜蓮が言う。
「前から思ってたけど見てて危なっかしいわ」
胸の奥の空っぽだった場所に何かが落ちたのはその時だった。
それからは少しずつ話すようになった。
放課後にラーメンを食べに行ったり、コンビニへ行ったり、くだらない動画を見たり。
亜蓮は学校では優等生ぶっているくせに、時々口が悪い。
その度に自分だけが知っている顔みたいで少し嬉しくなる。
でも亜蓮は誰にでも優しかった。
海藤にも、燃堂にも、困ってる奴にも。
そんな様子を見る度に、ドロドロとした感情が心を支配する。
ある日、放課後にラーメンへ誘うと「今日は瞬達と約束あんだ」と断られてしまう。
たったそれだけなのに、ずっと胸の奥がざらざらしていた。
その夜、コンビニ帰りの大学生グループにわざと肩をぶつけると、案の定絡まれる。
殴られながら頭のどこかでは冷静に考えていた。
これ、明日亜蓮心配してくれるかな。
翌日、教室へ入った瞬間に亜蓮の顔色が変わる。
「誰にやられた」
怒っていた。
その顔を見た瞬間、ぞくりと背筋が震える。
ただ気持ちがよかった。
自分のせいで亜蓮が感情を乱されている。
それがどうしようもなく嬉しい。
「またかよ……」
保健室へと連れていかれ、絆創膏を貼られ、帰りは家まで送られた。
その日の亜蓮はずっと不機嫌だった。
一瞬、じとりとした目の斉木と視線が合った気がしたが、気にせず会話を続ける。
「最近マジで怪我多いぞお前」
「ごめんって」
「謝れって話じゃねぇんだよ」
その声が優しくて、また胸が熱くなる。
駄目だな、と思った。
それでも止められない感情は、グルグルと思考を支配する。。
怪我が治る頃には、亜蓮は安心したような顔をする。
その表情を見ると、急に息苦しくなってしまうのだ。
もう大丈夫だな、って顔。
もう心配しなくていいな、って顔。
それがたまらなく嫌だった。
だからまた新しい傷を作る。
駅の階段からわざと落ちた時は、思ったよりも痛くて少し泣いた。
けど翌日、亜蓮は真っ青な顔で駆け寄ってきくる。
「お前何してんだよ!」
両肩を掴まれる。
その熱で、痛みも全部どうでもよくなった。
ああ。
痛いのに。
嬉しい。
それからはもっと簡単だった。
知らない不良に金を渡して殴ってほしいと頼み込む。
最初は気味悪がられたけど、金を積めばみんな思い通りだ。
頬を殴られる。
腹を蹴られる。
どろりとした赤い血が滴り落ちる。
痛い。
でも翌日には亜蓮がいる。
「大丈夫か」
「保健室行くぞ」
「無理すんな」
その度に、亜蓮の優しさで空っぽだった心が少しずつ満たされていく。
それからはもう、やめられなかった。
冬の夕方。
コンビニ帰りに後ろから肩を掴まれる。
振り返ると、以前に金を渡した不良だった。
「お前さぁ」
煙草臭くて濁った息。
「最近調子乗ってんだろ」
思ったよりも機嫌が悪かったようで、そのまま路地裏へと引きずり込まれる。
壁に叩きつけられ、何度も殴られた。
痛い。
口の中が鉄臭い。
それでもどこか安心していた。
明日、亜蓮がまた心配してくれる。
そう思ってしまった。
全部終わった頃には、ガクガクと足が震えていた。
彷徨うようにふらふらと歩く。
気が付けば亜蓮の家の前だった。
落書きだらけの塀にもたれかかる。
自分はいったい何をしているんだろうと冷静になり笑った瞬間、
「澪?」
声が落ちてきた。
ひどく驚いた表情の亜蓮だった。
コンビニ袋を下げたままこっちを見て固まっている。
「……誰にやられた」
笑えない声だった。
その顔を見た瞬間、不思議なくらい安心する。
ああ、大丈夫だ。
ちゃんと俺を見てる。
「ちょっと転んだ」
「その顔で通るかよ」
亜蓮が近付いてくる。
ふるふると小さく指先が震えていた。
怒っているのか、焦っているのか、たぶん両方だ。
「ここで待ってろ」
低く言って、そのままバイクで走り去る。
数十分後。
帰ってきた亜蓮は、半殺しみたいになった不良を引きずっていた。
いったいどうやって見つけてきたのかは分からないが、亜蓮の拳は傷だらけだった。、
「ひっ……ご、ごめんなさい……!」
泣きながら謝る男を見下ろしながら、亜蓮は静かな声で言い放つ。
「二度とコイツに触んな」
ぞくりと背筋が震えたのはその瞬間だった。
嬉しい、と思ってしまった。
ああ。
この人、自分の為にこんな顔するんな。
その夜、手当てをしてもらいながら亜蓮がぽつりと言った。
「お前見てると放っとけねぇ」
消毒液が傷口に染みる。
痛い。
でも、それ以上に胸が熱かった。
「……ありがと」
「礼言う前に怪我減らせ」
「努力する」
「絶対しねぇだろ」
亜蓮が呆れて笑う。
その顔を見ながらぼんやりと頭の隅で思った。
たぶんもう戻れない。
優しくされるたび、もっと欲しくなる。
傷が増えるたび、亜蓮が近くなる。
だからきっと、次もまた。
どこかでわざと怪我を作ってしまうんだろう。
亜蓮の服の袖を掴む。
不安になったって言えば「しょうがねえな」って苦笑いで許してくれるんだ。
どろどろとした純粋な愛を込めて、俺はきつく亜蓮の腕を掴んで微笑んだ。
「ずーっと守ってね」
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