短編
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「タバコ」
「……お前も吸うか?」
「煙いだけ」
「ん」
火がともる音が静かな部屋に響いた。
ジッという音のあと、火のついた煙草が土方の唇に吸われ、深く深く肺を満たしていく。
ふぅ、と長く吐かれた煙が六畳一間の空気ににじむ。
灰色がゆっくりと部屋を侵食していくのが、なぜか気に障った。
「女抱いた後も、それ吸うの?」
「なんで?」
「……別に」
寝転んだまま、枕元のペットボトルを手探りでつかみ、ひと口。
ぬるい水が喉を通りすぎ、ひやりともしない残滓だけが腹に落ちた。
ボトルの口から垂れた雫が、首筋に触れて消える。
どこか、むかついた。
「ケツいて」
「ちゃんと解したろ。丁寧にやったつもりだがな」
「おまえ、チンコでけぇし」
「そりゃどうも」
「褒めてねぇよ。……なんか、ちょっとムカつく」
土方は苦笑いすらせずまた煙草をくわえた。
気だるくて、火照っていて、眠いのに眠れない身体のままぬるい水を煽る。
熱の名残が体にまだうっすら残っていて、それが余計に、彼の無頓着な仕草を際立たせている。
「水、俺にもくれ」
「もうない。冷蔵庫行きゃ、冷えたのあるよ」
「だりぃ」
煙草の灰がぽたりと落ちる音と同時に、土方の携帯が鳴った。
すぐに舌打ち。
通話を短く済ませ、火をもみ消し、黙って立ち上がる。
すぐに冷蔵庫の扉を開ける音がして、新しい水が取り出された。
「仕事?」
「……今から。後始末らしい」
「ご苦労さま、副長さん」
「皮肉か?」
「どーだろ」
布団に沈む体。
まだ余熱の残る皮膚が寝具にまとわりつく。
土方は羽織っていた浴衣を脱ぎ、隊服を丁寧に身につけていく。
その背を目でなぞる。言葉は、もう出なかった。
「寝んのか」
「うん」
「……腹、冷やすなよ」
「……行ってらっしゃい」
ぽん、と頭に軽く触れる手のひら。
やさしさでも愛情でもない、ただの「癖」のような手つきだった。
それでも、少しだけ胸が疼く。
玄関が閉まり、音が遠のくのを聴きながら澪は目を閉じる。
…
まとわりつく暑さで目が覚めた。
エアコンが切れていたらしく、空気は湿っている。
布団から体を引きはがし、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。
ひと口。
アルコールの冷たさが喉から胸元に落ちていく。
その瞬間だけ、世界が少しだけ澄んだような気がした。
窓の外はうっすらと白んでいる。
夜明けの光が灰色の部屋をすこしずつ輪郭づけていく。
脱ぎ捨てられた浴衣。溢れた灰皿。
彼が座っていたあたりにぬくもりはもうない。
ただ、そのどれにも名残だけがあった。
彼は、この部屋に「泊まった」ことは一度もない。
始まりもなければ、終わりもない。
約束もなければ、喪失もない。
ただ、置いていかれる夜が、幾度となく繰り返されるだけ。
脱ぎ捨てられた黒い浴衣が妙に目について、虚しさを抱いた澪を嘲笑っているかのようだ。
「……畳んで帰れよ、たまには」
呟いても返事はない。
ベランダへ出る。
缶ビールと、置き去りの煙草を持って。
風が頬をなぞり鈍色の空が広がっている。
一口、ビールを煽る。
そして煙草に火をつけた。
吸い慣れていない。肺に入れずに、煙を吐く。
朝の光に溶けた灰色の煙が風に紛れて消えていった。
「……まっず」
それでも、もう一度吸ってみた。
煙が喉を刺し、目頭が熱くなる。
けれど、引き返す理由も、誰かに伝える言葉もなかった。
この孤独は、誰のものでもない。
ただこの部屋に染みついた、自分自身の体温だ。
「……苦ぇ……」
ぽとりと、灰が落ちる。
その先にあるのは、今日と変わらない明日だった。
