短編
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大学二年の春頃から古書店でアルバイトをしていた。
駅前のチェーン書店と違って、客より本のほうが多い店だった。
商店街のいちばん奥、潰れたレコード屋の隣。
昼でも薄暗く奥の棚へ行くほど空気が冷たい。
古本の匂いと少し湿った木の匂いが混ざっていて、雨の日はそれが少し強くなる。
講義が終わるとそのままバイトへ入る生活を続けていると、季節の変化が商店街の匂いでわかるようになった。
七月に入るころにはアスファルトが湿気を持ち始める。
夕方のシャッター街には熱がこもり、遠くの海からぬるい風が吹いてくる。
店の扇風機は首を振るたび変な音を立てていた。
男を初めて見たのはその頃だ。
外国文学の棚の前に立っていた黒いシャツを着ていた紅白頭のおめでたそうな男。
背が高いせいか少し猫背で本棚を眺めている。
その姿はどちらかと言えば本を探しているというより、背表紙の間に何か思い出を置いてきた人みたいな立ち方だった。
男はその日、何も買わなかった。
ただ長いこと棚の前にいて、閉店前に静かに帰ってしまった。
入口のベルが鳴ってガラス扉が静かに閉まる。
ただそれだけなのになぜか印象に残るのは、珍しい二色の髪色のせいだろうか?
次に来たのは二日後だった。
今度は文庫本を何冊か抱えている。
でも結局、一冊だけを残してあとは棚へ戻してしまったのだ。
レジへ持ってきたのは有名な文学作家の古い本だった。
ページの端が茶色く焼けたやつ。
会計をしながらなんとなく聞いてしまう。
「この作家、好きなんですか?」
男は少し考えてから「悪ぃ、そんなに詳しくねえんだ」と答える。低い声だった。
「聞いといてアレですが、僕は全く詳しくありません」
「お、本屋の店員さんもわかんねえモンなんだな」
「僕は文学本はちょっと」
絵本が好きなんですと付け足すと、男は少し笑った。
整っていて綺麗な顔立ちをしていると思う。
くしゃりと眉を下げて微笑むその笑い方が、なぜか意外だった。
もっと冷たい人かと思っていたからだ。
「店員さんがそんな感じだと本も手に取りやすくて安心する」
「恐縮です」
外は雨だった。アーケードを叩く音が大きい。
傘を持たない男は袋を受け取ってからも、しばらく店先に立っている。
「雨、強いですね」
見兼ねて声をかけると男は驚いたのか、「お」と小さく声をあげた。
さっきも言っていた気がするなと頭の片隅で考える。
「奥にお客さん用の休憩スペースがあるので、良かったら雨が止むまで休みますか?」
「悪ぃ、助かる」
奥の小さな休憩スペースに男を案内する。
普段は店長が占領しているが、今日は2階の住居スペースで仮眠を取っているみたいだ。
ペラペラと男が買った本を捲る音だけが店内に響いている。
時々ふっと微笑みながら読書を楽しんでいるその姿が、何故か脳裏に焼き付いている。
翌週、男はまた店に来た。
今度は店長も大あくびをする閉店間際の時間だった。
レジへ持ってきたのはピーターパンだ。
表紙の金箔が擦れてほとんど消えている。
「可愛いの、読むんですね」
「ああ、たまに読み返したくなる」
「面白いですか?」
「怖い」
思わず顔を上げた。
男は本を見たまま「大人になれない話っていうより、帰れなくなる話だから」と寂しそうに言った。
その瞬間、少しだけ男の事が理解できた気がした。
この人は本を読んでるんじゃない。
ずっと、どこかへ戻ろうとしてるんじゃないだろうか?
八月に入ると夕立が増えた。
空が急に暗くなって、道路が白く煙るくらい雨が降る。
その日も店には客がおらず、店長は奥の休憩スペースで高校野球を見ながら居眠りをしていた。
男は窓際の棚に寄りかかって文庫本を読んでいる。
雨音しか聞こえない薄暗い店内は、全てが水の底に沈められたみたいだ。
しばらくして男が本を閉じる。
「ここ、涼しいな」
「クーラー壊れてるんですけどね」
「じゃあ本のお陰かもな」
笑いながら言う。
「梅雨の時、クーラーのない湿気った本屋のバイトを経験したら二度とそんな事は言えないと思いますよ」
「そんなにやべえのか」
ふたりで笑ってからその後、ぽつぽつと言葉を交わす。
大学のこと。
この辺に美味しい定食屋がないこと。
最近の夏が暑すぎること。
大した話じゃなかった。
男は話している途中で時々黙る。
言葉を探しているというより、ちゃんと考えてから喋る人だった。
大学の同級生みたいに沈黙が雑じゃなくて心地よい。
帰り際、名前を聞かれた。
澪と答えると、男もぽつりと名前を言った。
轟焦凍と言うらしい。綺麗な名前だと思った。
それから少しずつ、焦凍さんが来る時間を待つようになった。
夕方、入口のベルが鳴るたび顔を上げる。
いない日は店内が少し広く感じた。ような気がする。
九月、台風が来た。
昼過ぎから雨が強くなって、商店街の旗が千切れそうなくらい風が吹いていた。
客も来なかったので店は早く閉めることになりシャッターを下ろしていると、商店街の入口に焦凍さんがいた。
コンビニ袋を提げて柱のところで雨宿りしている。
「お」
「焦凍さん、傘は?」
「あったけど折れたから捨てた」
「だからびちょ濡れなんですね」
「ああ。本を見に行こうと思ったんだが…」
「もう今日は閉めちゃいました」
「だよな」
雨に濡れた髪やシャツから水滴がポタリと落ちている。
気まぐれに買ったグミと清涼飲料水は甘ったるくて気に入らなかったらしい。
コンビニ袋も焦凍さんと同じくらい濡れている。
成り行きで駅まで一緒に歩くことになった。
シャッターの閉まった商店街は薄暗く、風の音だけが響いている。
歩きながら焦凍さんは出版社で働いていることを話してくれた。校正の仕事だという。
「一日中人の文章読んでると時々わからなくなるんだ。何がちゃんとした言葉なのか」
「…」
どう返すのが正解かがわからなくて黙り込んでしまう。
駅へ着くころには二人ともかなり濡れていたし、どうやら方向は真逆らしいのでここでお別れだ。
改札前で焦凍さんが眉を下げて少し笑う。
「聞いてくれてありがとな」
その顔を見た瞬間、妙な感覚。
胸の奥が少し遅れて熱くなる。
帰り道はその困ったような笑顔ばかりを思い出していた。
十月になると、夕方が急に短くなった。
金木犀の匂いが漂い始め、店の前には落ち葉が溜まる。
焦凍さんは相変わらず店へ来た。
そして以前よりも話すようになった。
眠れない日のこと。
昔住んでいた街のこと。
子どもの頃、図書室だけが好きだったこと。
「家、嫌いだったんですか?」
そう聞くと焦凍さんは少し考えてから「嫌いっていうか、静かすぎたんだと思う」と言った。
「誰も喋らない家だったから」
その言い方が妙に頭に残る。
気が付くと焦凍さんの事ばかり考えるようになっていた。
今日は来るだろうか、とか。
昨日ちゃんと眠れたんだろうか、とか。
そんなことばかり。
ある夜、閉店後になりゆきで二人でラーメンを食べにいった。
ちょっと汚くて古い小さな街の中華料理店。
カウンターしかなくて換気扇の音がうるさいけど心地良い。
焦凍さんはラーメンを食べるのが妙に遅かった。
「伸びますよ」
「猫舌なんだ」
「ははっ、たしかに猫舌っぽい」
湯気の向こうで焦凍さんは笑う。
その顔を見ていると不思議と安心したような気持ちになった。
この気持ちが恋だと気が付いたのは、すぐそのあと。
焦凍さんが三日くらい店へ来なかった。
それまで毎日のように顔を見ていたせいで店の空気が妙に空っぽだ。
夕方になるたびに入口のベルを気にしている自分に気が付いて、そして少し驚いた。
四日目、閉店前に焦凍さんが来た。
少し痩せた見えるような気がする。
「最近来なかったですね」
少しトゲのあるような口調で言うと、焦凍さんは少し目を丸くした。
それから「待ってた?」と笑う。
冗談みたいな言い方だった。
でもその瞬間、たぶん顔に出た。
ぽぽぽと赤くなっていく頬が自分でもわかる。
気恥ずかしくなって頬に手を当てる焦凍さんは笑わなくなった。
静かな顔でこちらを見つめる。
その視線だけで全部見透かされそうな気がした。
冬が近づいていた。
十一月の終わり、誘われて焦凍さんの部屋へ行った。
海の近くの古いマンションだった。
狭い部屋だけどベランダから港のクレーンが見える。
インクの少ないボールペンと本と、飲みかけの缶コーヒー。
人が暮らしている匂いがした。
焦凍さんは窓際に座って港を眺めている。
「なんか安心する部屋ですね」
部屋を見回しながら言うと「散らかってるだろ?」と笑った。
「大人って感じ」
そう言ったあと、なんだか自分がとても子供みたいに思えて少し恥ずかしくなった。
でも焦凍さん何も言わない。
ただこちらを見つめて「コンビニ行くか?」と笑う。
年齢はそこまで変わらないはずだが、無理に会話を広げない所が大人の余裕を感じさせるのかもしれない。
その夜、二人でアイスを買いに行った。
帰り道は港沿いの道を歩く。
冬の匂いと海の香りが混じった藍色の空に、白い息が街灯と共に溶けていく。
並んで歩くと焦凍さんの歩幅が、自分より少しだけ大きいことを知った。
十二月、最初の雪が降った。
店を閉めたあと、二人で海を見に行く。
雪の降る港には誰もおらず、黒い海だけが揺れている。
焦凍さんはマフラーを巻きなおしてから白い息を吐いている。
「…子どもの頃」
波の音のあとに声が落ちる。
「本気でどっか別の場所へ行けると思ってたんだ」
焦凍さんはぽつりぽつりと、言葉を紡ぐ。
「ちゃんとした場所がある気がしてた」
遠くで連絡船の汽笛が聞こえる。
「でも、どこに行っても自分がいるから意味ないんだよな」
その横顔を見た。
どうしようもなく寂しそうな顔をしている。
たまらなくなって、気が付くと口が動いていた。
「ここじゃ、駄目ですか」
焦凍さんがこちらを見る。
風の音がした。また遠くで船の汽笛の音が響いている。
「僕じゃ、駄目ですか」
言った瞬間、終わったと思った。
でも焦凍さんは笑わなかった。
長いこと何も言わず、それから海を見て一言。
「ずるいな」
小さく言って今度はこちらをみた。
また眉を下げて困ったような、そんな笑顔。
「そういう言い方」
「え、んっ…!?」
不意に唇が触れる。
冬の海の匂いがした。そしていい匂い。
焦凍さんの香水だろうか?
安心できるような香りが鼻腔をくすぐる。
唇がゆっくりと離れ、白い吐息が混ざっていく。
「び、っくりした」
「顔真っ赤だ」
夜の海に影が混じる。
年が明ける頃には、焦凍さんは店へ来る前に連絡をくれるようになった。
閉店後に一緒に帰る日が増えた。
そんな日常が愛おしい。
部屋で好きな映画を一緒に見る。
眠くなったらそのまま眠る。
特別なことは何もない。
でも、気が付くと生活の中に焦凍さんがいた。
春が近づくころ、港沿いの道に白い花が咲いた。湿った風が吹いている。
坂道を並んで歩く。
夕方の街は薄く霞んでいた。
「ネバーランドってさ」
ふいに焦凍さんが言う。
「子どもの国じゃなくて、帰りたい場所の事なのかもな」
その横顔を見た。
最初に古書店で見た頃よりも、随分と柔らかい表情をするようになった。
それが自分のせいだといいな。
そうだといいなと心から願う。
遠くで電車の走る音がした。
ガタンゴトンと音に合わせて木々も揺れる。
春の匂いがした。
焦凍さんが八百屋に並ぶ青々としたキャベツを見て「買うか」と指を指す。
くだらないのになんだか嬉しかった。
たぶん昔の焦凍さんなら、どこへ行っても同じだと思っていたんだと思う。
帰りたい場所なんてないまま大人になった人だから。
それでも今はこうして隣を歩いている。
海の匂いがして、春の風が吹いて、どうでもいい話をしている。
それだけで、十分だった。
遠くで電車が走る音がする。
焦凍さんが少しだけこちらを見て笑った。
僕は多分、その横顔をずっとは覚えてはいない。
それでもこの春の匂いだけはきっと忘れないと思う。
ふたりで歩幅を合わせながら港の見えるあの部屋へと向かう。
ネバーランドなんてものは案外、遠くはないのかもしれない。
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