記憶のおくすり
母の剥いたリンゴひとかけらを口に運び、ゆっくり咀嚼する。時間を置いて黄色くなってしまったそれは、噛みしめてもしんなりしているだけであまり美味しくなかった。すぐに食べればよかったと今更後悔する。飲み込むのにも時間がかかったが、そのおかげで質問に対する答えは決まった。
「黙ってて、もらえますか?」
そう答えると、宮地サンはやっぱりなという顔をした。俺の返答が分かっていたようだった。
「ごめんなさい、やっぱ余計な心配かけたくないんすよ」
先程最後のリンゴを剥いて病室を後にした両親には、知られたくないと思った。
昨日俺に話があると言った宮地サンは、今日両親がいない時間を見計らって俺の病室を訪れた。そこで伝えられたのは、信じがたい話だった。記憶を失う前の俺は、ストーカーに遭っていたという。その相談を俺は宮地サンにしていたのだそうだ。まぁ、確かに宮地サンは頼りになるからそこはなんとなく納得できるぞ、俺。
ただ、ほんの数日前に目が覚めたら事故に遭ってて、しかも大学1年生の夏休み中だった、ときた。自分の感覚的に、東京の大学に受かったところまでは覚えている。それを宮地サンに報告したことも。ただそこから、俺がこの4ヵ月どんな大学生活を始めたのかと聞かれれば、たちまち記憶の輪郭がぼやけ始める。
しかし、俺よりも両親や宮地サン、周りの方が混乱しているようだった。俺は確かに記憶を失ったのかもしれないが、徐々に取り戻していけばいいんだ、という主治医の佐藤の言葉もあってかそこまで混乱していなかった。
自分で思った以上に、宮地サンの話は俺を混乱させた。男の俺が、ストーカー? まさか、そんなことあるのかよ。話が続くうち宮地サンの真剣な表情に、俺は冗談ではないのだと分かった。
それでも、両親の心配そうな顔を思い出すと、これ以上大事にはしたくないと思った。
「お願いします、宮地サン」
「…分かった。でも、なんかあったらすぐに言えよ。俺には絶対」
「はい」
こちらに滞在している間、俺の部屋に泊まっていた両親も俺の明日の退院とともに地元へ帰ってしまう。ただでさえ1週間近くもいてもらったのに、これ以上は両親にも迷惑はかけられない。宮地サンにも申し訳ないとは思いつつも、その好意に全力で甘えさせてもらうことにした。
「ありがとうございます、助かります」
「おう、気にすんなよ」
部屋を出て行く宮地サンの後ろ姿を、可能な限り頭を下げながら見送る。やっぱりあの人はカッコいい。いつだって心地よい距離で俺のことを気にかけてくれている。
残ったリンゴを全て食べ終わる頃には、大きな入道雲がオレンジの光の中にいた。面会時間が終わりに近づき、他の病室からもパタパタと足音が聞こえてくる。事故から一週間。驚くほどに俺の心境は穏やかだった。
ぼんやりと窓の外を眺めていると、トントンと躊躇いがちにドアをノックされた。面会時間は終わりに近い。母親だろうか、ナースさんだろうか。
「はーい」
そう答えれば、失礼します、と丁寧な声とともにドアが開かれる。そこに立っていたのは、緑の綺麗な髪色の、長身の男だった。歳は自分と同じくらいに感じる。
「えーっと、誰ですかね?」
思わず口を出た俺の言葉に、少しだけ目を見開いて、その男は一度視線を床に落とした。
「突然申し訳なかったのだよ。俺は緑間という。君の、その、大学の友人だった」
目を下にやったまま言われた言葉に、あぁ、と思った。やってしまった。申し訳なさそうな顔をするその緑間に、俺はすっかり自分が記憶障害であったことを忘れていた。友人だった。過去形で言われたその言葉に、なんと返していいか分からず、気まずい沈黙が流れた。俺は、なんてことを言わせてしまったんだろう。
「ごめん。本当にごめん」
「謝ることはないのだよ。本当に、無事で良かった」
俺の口から咄嗟に出たのは謝罪で、対して緑間はそれも予測済みといったような穏やかな顔だった。
「俺、高校卒業までの記憶はあるんだけど、大学からの記憶がないんだ。だから、正直緑間のことも覚えてない。本当にごめん」
「そのことに関しては、看護師さんから聞いていたから大丈夫なのだよ。……混乱させてしまうかもと思ったが、どうしてもお前の顔が見たかったんだ。俺の方こそ申し訳ない。もう来ないようにする。思い出してくれたら、その時はまた会ってくれるか?」
泣きそうな顔だった。眼鏡の奥の緑の瞳から、いつ雫が落ちてきてしまうかと冷や冷やした。どうしよう。俺の、友達。大学で出来た、新しい友達。他にもそうやって確かに気を遣ってくれていた友人がいたのかもしれないが、わざわざ見舞いに訪ねてくれた大学の友人は初めてだった。それでも来てくれたのだ、俺は覚えていないのに。そう思っていたら、俺の方が泣いていた。
「高尾!」
「ごめん、……いやごめんじゃないや、ありがとう。ありがとう、俺に会いに来てくれて」
「……そのくらいどうってことないのだよ」
もう一度、お前の友達になってやろう。面会終了の音楽が夕暮れの病室に流れる。泣いている俺に、緑間はそう言って、ドアに手をかけた。
「また、来てくれよ。俺、……緑間のこと早く思い出したい」
「あぁ」
最後、ドアが閉まる直前で緑間が少しだけ、笑ったのが見えた。
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