記憶のおくすり
俺の後輩が事故に遭ったという連絡を受けたのは、8月に入ったばかりの暑い昼前だった。大学の夏休みも始まり、二度寝を敢行していた俺はその着信に叩き起こされた。ろくに着替えもしなかったが、靴だけはしっかりと履いて、告げられた病院に向かう。外来受付で、俺は思わず声を荒げた。
「高尾、高尾和成の病室はどこですか!?」
その後輩の名前は、高尾和成という。
A棟の2階、205号室です。廊下の左手の階段を……と、受付の人が丁寧に行き方を説明してくれるのを最後まで聞かず、ありがとうございますと一方的に告げて俺の足は動き出す。一刻も早く、高尾の顔が見たかった。
205号室のドアをノックもせずに開けると、包帯で体の至るところを覆った高尾が眠っていた。
「大丈夫かよ、お前」
横になった高尾のそばに立つと、包帯の巻かれていない部分もかすり傷だらけなのが分かって、それ以上声が出なかった。笑えるような怪我ではなかった。自分の脈が自然に早くなってくるのを感じた。
なんで、こんなことに。
しばらく数分間呆然としていると、ドアがノックされて白衣の主治医と思われる医者が入ってきた。佐藤、と書かれたプレートを首から下げた、まだ若いお医者様が俺に問いかける。
「君が、宮地君?」
「そうです」
そう答えると、佐藤は病室の隅にあったパイプ椅子に腰かけた。勧められた椅子を受けとり、俺もベットの反対側に腰を落ち着かせた。
「はじめまして、高尾君の主治医の佐藤です。……この際だから、単刀直入に言おう。高尾君は、昨晩交通事故に遭ってね。真夜中に、緊急手術が終わって、命に別状はない。ただ、ひどく頭を打ってしまってね、どうやら大学に入ってからの4か月ほどの記憶がなくなっているようなんだ」
「え……、」
「高尾君、2時間ほど前に一度目が覚めたんだ。その時に、事故直後にたまたま通りかかって救急車で同伴してきてくれた、高尾君と同じ大学の友人がいたんだが、その、」
「覚えてなかったんですね……」
「あぁ、事故の後は記憶障害になりやすいから、しょうがないんだが……。嫌な思いをさせてしまっただろうな」
そういいながら、悲しそうな顔をする佐藤はいい人なんだろうなと思った。この人は何も悪いことなどしていないのに。
その後の話は、少し複雑だった。
警察と医者で、高尾の親御さんや、大学に連絡を取っていたところ、高尾の携帯に最近頻繁に残っていた通話履歴の俺の名前を、高尾の親御さんに連絡ついでに聞いたのだという。そこで、俺たちが同じ高校の先輩後輩で、またお互い上京して近くに住んでいることが分かり、俺が呼ばれた。高尾が、両親のことは覚えていることから、高校の記憶はもしやと佐藤は判断したらしい。
俺も、高尾の親とは高校の時に何回か面識がある。また、俺と高尾の地元はかなりの遠方で、高尾の両親もこっちに向かってはいるが、到着は昼過ぎだという。
「どうか、そばにいてもらえないだろうか。もしかしたら、宮地君にも嫌な思いをさせてしまうかもしれないが……」
「構いません。こちらこそ、連絡をくださってありがとうございます」
俺の言葉に、佐藤が深々と頭を下げる。俯きがちなその顔には、高尾が俺を忘れていたら……、とはっきり書いてあった。
確かに、高尾が俺を忘れていたらなら落ち込むだろう。でも、それ以上に高尾が無事でよかったと思える。俺を病院に呼んでもらえてよかったし、だからこそこうしてそばにいてやれる。
短い沈黙の後、用があるからまたしばらくしたら、戻ってくるよと言って佐藤が部屋を出て行った。
さて、これから数時間もしないうちに高尾が目を覚ましたり、親御さんが到着したりするだろう。そして、高尾はそのうち回復して、佐藤が言う通り記憶も徐々に取り戻すのだろう。そうして、何事もなかったように過ごしていける。高尾なら。
ただ、ひとつ問題がある。
高尾は、大学に入ってから、ストーキングを受けていた。俺の名前が高尾の携帯によく残っていたのは、相談に乗っていたからで。
それを高尾は忘れているということになるのだ。
高尾が事故に遭ったと電話が来たとき、もしかしてと咄嗟に思った。まさかとは思うが、その事故が人為的なものであったら? 佐藤は、事故に遭ったと言っただけで状況までは教えてくれなかった。
非通知からの無言電話や、夜道で付けられている気配、送られてくる盗撮写真の数々。警察は取り合ってくれなさそうな些細なことだろう。病院は絶対安心とまではいかないが、ナースコールだってあるし、常に近くに人がいるからそこまで悪くはないはずだ。
高尾をあれほど憔悴させたのだ。忘れているなら、言わないでおくべきか。それとも、何かあってからでは遅い、伝えるべきか。
思いあぐねていると、もぞもぞと布団が動き出し、高尾がゆっくりと目を開いた。
「宮地…サン…?」
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