南の肖像
九月も半ば、そろそろ季節は秋を迎えようとしていた。
生徒会は、次の代に引き継がれ、俺たち三年生は受験に専念するようにと、顧問が笑いながら合格のお守りを渡してくれた。ちょっとさびしい気持ちになりながらも、俺もとうとう将来のことを考えなくてはいけないな、と思うのだった。
受験勉強の講習を受けて、帰りが遅くなった。今日は満月だ。
校門を出ると少し先に見慣れた後ろ姿が見えた。
「高尾」
「あれ?宮地サン、今帰りっすか?」
勉強おつかれさま~っす、と付け足すと、高尾は俺の横に並んだ。途端にぺらぺらとしゃべりだした。俺の予想通り、高尾は佐藤に生徒会へ勧誘されているが、そんな気分じゃねーや、と一蹴しているらしい。ちょっと笑える。
とりとめのない話をしていた途中で、気になっていたことを聞いてみた。
「そういや帰んの遅いなオイ、何してたんだよ」
「いやー、友達と一緒にいたんすよ」
「あー、一緒に飯食ってる?」
「そうっす!」
なんだ、結構仲はいいんじゃないか。それから、高尾はその友達の話をしてくれた。
話を聞いていると、その友達とやらはやっぱり変わった奴らしかった。
まず、自分から動こうとしない。自転車で移動するときに、自分は後ろに乗って、高尾に漕がせるのは当たり前。それから、クールといえば聞こえはいいが、表情はめったに崩れない、無愛想。それは高尾でも呆れるレベル、らしい。
友達のことを話す高尾は、珍しく饒舌だった。そんな話を聞いて、俺はひどく安心したのだ。
「なぁ、そいつ、なんていうの」
「あ、真ちゃんっていうんすよ。真実の真、で真ちゃん」
高尾の目の下に、隈がない。あぁ、よかった。柄にもなく、そう思った。
それから、俺は前より高尾と話すようになった。基本的にそれは帰り道だった。真ちゃんは、学校の近くに住んでいるらしいことが高尾の会話から伺えた。真ちゃんと別れた高尾と、講習が終わった俺は、待ち合わせなどしなくてもしばしば校門で会うのだった。
会話に出てくる真ちゃんにはまだ会ったことがないが、高尾と話しているうちに、俺は一方的に真ちゃんをよく知るようになっていた。聞けば聞くほど、真ちゃんは変わった奴だった。でも、それと同じくらいすごくいい奴ってことも伝わってきた。
今度、真ちゃんと直接会うことが出来たなら、まだ知らないその本名を聞いて、改めて伝えてみたい。ありがとう、真ちゃん。高尾のそばにいてくれて。本当にありがとう。
「高尾が一緒に飯食ってるやつと会ったことある?」
九月最後の登校日、佐藤にこう尋ねてみた。
「ないですよー。まぁ、高尾はあぁ言いますけど、多分いい奴なんですよね。それはわかりますよ」
あぁ言う、というのは、ちょっと変わっているということだろう。俺が思っていたことを、佐藤も同じように思っていたらしい。
「お前は、そいつと飯食わないの?」
「うーん、なんとなくそれはダメな気がして」
「ダメ?」
「いや、ホントになんとなくですけど、その友達といるときは、高尾をそっとしておいてあげようって言うか…。なんて言ったらいいか分かんないですけど…」
だんだん尻すぼみになる彼の声に、俺も同感した。
多分、真ちゃんは、いつもへらへら笑っている高尾が本音を出せる唯一の奴だ。
「そういえば、緑間も変わった奴だったなぁ」
「緑間?」
俺がそう聞き返した途端に、佐藤はしまったという顔をした。怪訝な顔をした俺に、佐藤はもごもごとしながら俯いてしまった。
「あ、えと、亡くなった…」
そこまで言って、俺も合点が行った。亡くなった彼の名前は、緑間というのだろう。暗黙の了解への気まずさか、佐藤はこれ以上この話をしなかった。本当に、意図せず佐藤はその名前を口に出してしまったのだろう。俺もまた追及はしなかった。
この夏に亡くなった緑間。緑間と親友だった高尾。高尾が本音を出せる真ちゃん。
高尾は、ちょっと変わった奴とばかり仲良くなる才能でもあるのか。前に、高尾を相手にできるのは、ちょっと変わった奴かもしれないなと思ったことを思い出した。いや、それとも変わった奴の相手をできるのが高尾ぐらいなのか。それともその両方か。
亡くなってしまった緑間は、真ちゃんと面識があったのだろうか。
そこで俺は、恐ろしい想像をしてしまったのだ。
*
「聞いているのか?宮地」
「えっと、」
この生徒会顧問に呼び出されて、職員室まで来たのはいいものの、すっかり話を聞いていなかった。
「しょうがないな、もう一度は言わんぞ。宮地、お前この前の備品点検の時、特別棟の四階が担当だったろう。その時な、四階の廊下の突き当たりに絵が掛かってなかったか?」
「あーっと、覚えてないです」
「そうか、そうだよな。もう一か月近く前のことだしな。いや、ちょっとその絵の行方を捜しててな。勉強してる時に呼び出してすまんな」
そう言うと、顧問は飴を渡してきた。緑のキャンディー、メロン味。俺は、礼を述べポケットにそれを突っ込んだ。
職員室には、俺と、顧問しかいないようだった。
俺には、どうしても聞きたいことがあった。今なら、誰にも聞かれないだろうか。
「先生、あの教えてほしいことがあるんです」
「なんだ?」
「夏に亡くなった生徒って、どんな奴でしたか」
顧問は、書類に落としていた視線を俺に戻した。驚いたようなその顔は、少しだけ寂しい顔だった。罪悪感にとらわれながらも、俺は真っ直ぐ高尾の担任の目を見つめ返した。
「頭が良かったよ、何事にも真面目でな。真面目すぎる故に、ちょっと変なところもあったがな」
「そうですか」
いろいろなことを思い出しているのだろうか。目の前の教師は、とてもとても優しい顔で、机の上の出席簿を撫でていた。不慮の事故さえなければ、こんな泣きそうで優しい顔を見ることはなかった。高尾の目の下にできた隈も、佐藤の寂しそうな顔も、見ることはなかったんだ。
「先生、その生徒の名前は、」
俺は、今から聞く名前が、自分の予想を裏切ってくれることを願っていた。
先生、俺の恐ろしい想像を、粉々に打ち砕いてくれ。
そして、俺の勘違いを聞いた後で、馬鹿だなぁと笑ってほしいんだ。
「緑間、緑間真太郎っていうんだ」
―――お願いだから。
*
佐藤から、緑間の名前を初めて聞いた九月最後の夜、俺は勉強もせずにベットに転がっていた。何もする気が起きずに、ぼんやりとしていた。そんな時だった。
始まりは、ちょっとした興味本位だった。
真ちゃんと呼ばれるのだから、シンから始まる名前なのだろう。シンゴでも、シンヤでも、シンノスケでも探してみよう。
俺は、生徒会だったこともあり、全校生徒の名簿を持っていた。入学式の前後で配られた名簿は、本来であれば、生徒会を引き継いだ時に返すべきだったのだろうが、返し忘れたまま引き出しの奥底に眠っていた。
それを、おもむろに引っ張り出すと、一年のページを一組から指でなぞっていく。
生徒会の顧問が受け持つ、高尾や佐藤の在籍するクラスは、一年二組。真ちゃんは、他のクラスで間違いないから、一年の二組以外の男子名簿をならっていく。
しかし、一年の最後の組までいっても、真から始まる名前は存在しなかった。
もしかして、やっぱり彼女だった?真子ちゃんで、真ちゃんとか?いやいや、苗字が真田で真ちゃんとか、そもそも一年じゃないとか。
条件を変えて、名簿全てをなぞりなおす二順目。
それでも、俺が見た限り、真から始まる名前は存在しなかった。まず、シンという読み方を見つけても、それは大抵新しいの新であり、高尾のいう真実の真を持つ該当者がいない。
高尾が嘘でもついてるんだな、と結論を導き、名簿をパタリと閉じた後、俺はまだ探していない条件があるのに気付いた。
一年二組。
そこで、俺はとんでもないことを思いあたる。佐藤が、一回でも真ちゃんのことを呼んだことがあったか? 佐藤は、高尾が飯を食っている友達の名前が真ちゃんということを知っているのか?
冷や汗が、背中を伝った。九月ももう終わるというのに、汗が止まらない。
シン、真、と名簿をなぞる。ぴたりと指が名簿の下の方で止まる。
そんな馬鹿な、きっと偶然だ。
真太郎。シンタロウ、シンちゃん。
その生徒の、下の名前は、真ちゃんと略すにふさわしい響きだ。そして、その生徒の苗字は、緑間。緑間という珍しい苗字は、今日聞いたばかりの、亡くなった生徒のものだった。
一年二組、緑間真太郎。八月のはじめ、亡くなった生徒。
*
十月初めの登校日、久しぶりに高尾と校門ではちあわせた。いつものように、高尾が俺の横に並んで、歩き出す。
「高尾、その真ちゃんって、本名なんていうんだ」
出来るだけ、違和感なく言った。話の腰を折らない程度に、さりげなく。
あ、言ってませんでしたっけ。そう首を傾げる高尾は、今まさに真ちゃんの今日の奇行について語ったばかりだった。
「緑間真太郎っていうんすよ。苗字が珍しいっすよね~」
それでーまじ笑えるんっすよ、と話の続きを話し始めた高尾をよそに、俺はなんともやるせない気持ちになった。
疑問は確信へ、そして今、とうとう真実になってしまった。
高尾の言う真ちゃんは、高尾の頭の中だけの存在だ。真ちゃんは、最初からどこにもいなかった。
高尾と別れ、家に帰ると、自分以外帰っていないのか、家じゅうが真っ暗だった。電気も付けずに靴を脱ぎ捨て、自室のドアを閉める。肩から下した鞄は、教科書だらけにも関わらず、とても軽いものに思えた。ベットに倒れこむと、よく分からない涙が出た。
このまま眠ってしまいたいと思った。
なんで誰も高尾や真ちゃんを助けてくれないんだろう。俺なんかじゃ、力不足なんだよ。
遠くで聞こえた母の声に、俺は目を覚ました。
制服のまま寝てしまっていたようだ。すっかり日は昇っており、時計は午前七時を指していた。
準備を整え、昨日から中身の変わっていない鞄を持つ。生徒でざわめく昇降口を通っていたら、教室には向かいたくなくなった。生徒達の流れに逆らって、俺はまた特別棟の屋上にいた。
今日、ここで休んだら、俺は受験生に戻ろう。俺は、緑間真太郎の名前も知らなかった。そもそも会ったことのない奴を知っていることの方がおかしいのだ。俺は、高尾の先輩で、たまに一緒に下校する仲。そう、俺は何も知らなかった。最初から、何も知る権利はなかったのだ。
ごろごろして、寝て、母の弁当を貪り、参考書を見つめてみる。十月の風は、少し寒かったが、今の俺にはちょうど良かった。
寝て起きてみれば、すっかり夕方だった。最近の俺は、寝てばかりいる気がする。朝から、何も飲んでいなかったせいか、ひどく喉が渇いていた。財布だけをポケットにすべりこませ、屋上の扉を開ける。人気のない校内は、とても静かで、その静寂をこわさないように、俺は無意識にそろりそろりと段差を下った。
そんな時だった。ふいに、あー、あー、と泣き喚くような声が聞こえた。どうやら、四階のどこかのようだった。気づいてしまった以上、放っておくわけにもいかない。一歩下りかけた足を戻す。
この階の教室は、どこもカギが掛かっているはずで、誰もいないはずだった。しかし、一部屋だけ、ドアが開けられていた。
多目的室の前から聞こえる声と、盗み見たその姿はよく見知ったものだった。
その時、俺は初めて、高尾が泣くところを見た。今までどんなことがあろうと、決して涙を見せなかった高尾が、わんわんと声を上げて泣いていた。一言、大丈夫かと問うことが出来れば良かったのに、俺には、それがなんだかそれが見てはいけないもののような気がして、とっさにドアの陰に隠れてしまった。
周りに人がいないことを確認すると、高尾の涙を見たのが俺だけだという優越感と、一人で泣けていることへの安心感でほっとした。
なんだ、お前、泣けるんじゃん。
10分くらい経っただろうか、嗚咽はまだ聞こえているものの、高尾は落ち着いたようだった。その間、俺はその場から一歩も動けずに、廊下の向こうから誰かが来るのを恐れた。誰も聞いてやらないで欲しかった。
ふと、以前高尾が、俺、家嫌いなんすよ、と言っていたのを思い出した。学校の方が好き、一人の家は楽しくないし、ぼーっとするのが得意じゃない。そんな理由だったと記憶している。
高尾はもしかしたら、ずっとこうやって、ここで一人で泣いていたのかもしれない。哀しくないわけないよな、と今更気づいた。笑っていられるわけないよな、と俺まで泣きたくなった。西日が差しこむ、めったに人の来ない特別棟の四階で、泣いていたんだ。
ごめんな、そう言葉にしそうになった。
俺が謝ったところでなんにもならないが、無性にそう伝えたかった。今まで気づいてやらなくてごめんな。
もしそんなことを言えば、きっと、高尾は笑うだろう。なんすか、宮地サンらしくない、そう言って。
でも、俺は決して口には出さないだろう。多分、俺は見なかったことにするだろう。高尾は、これからもへらへら笑って生きていく。俺もまた、高尾はへらへらした奴だと思い続けて生きていく。ただの先輩と後輩。中学が同じで少し仲が良かっただけ。この関係は、変わらない。
西日が落ちきって、もうすぐ夜になる。
この優しい後輩は、そうやって生きてきたんだろう。心配をかけないように、迷惑をかけないように、全然平気なんかじゃないのに、こっそりこっそり泣いていたんだろう。そんなこいつを慰めることなど俺には出来ない。
だから、どうかせめてこの場所を誰からも見えなくしてしまえと思った。今までもこれからも、この場所はこいつだけのためにあるべきだ。
あの日、備品点検の日、高尾はカギを素直に返さなかったのだろう。それを咎める気には全くならなかった。高尾の安息地が出来たのなら、それでいい。
辛かっただろう、親友のいない教室で勉強するのは。胸が張り裂けそうだったろう、親友のいない教室で飯を食うのは。認められなかったろう、親友のいない教室で自分以外の全員が何もなかったかのように過ごしているのは。
なんで、真ちゃんはいないんだろう。いっそのこと、高尾の頭の中から出てきてくれよ。
あれから、一週間が経った。高尾とは、一度だけ校門ではちあわせた。その時も、世間話に、真ちゃんの話、俺の受験の話をするだけで、今までと変わりなかった。変わらないでいようとした。
俺は、受験生としての生活を取り戻さねばならなかった。だからこそ、この秘密を他に口外するつもりはなかった。そもそも知らなかったことにしようと決意したのだから、口外しないという表現は少しばかりおかしいかもしれないが、この秘密は俺が責任を持って墓場に持っていこうと決めた。
誰が何と言おうと、真ちゃんは高尾の中に存在するのだ。
進路のことを聞こうと思い、職員室に入ると、高尾の担任と俺の担任が話をしていた。
教師二人の話を遮るのも何かと思い、後ろで黙っていると、教師二人の会話が聞こえてきた。その話の内容に胸が塞がる思いがした。
「念のため、多目的室のカギを変えておきますかねぇ」
「何か、あったんですか?」
焦りを悟られないよう、会話に飛び込んだ。
「おお宮地か、あのな、特別棟の四階廊下にあった絵画が見つかったんだよ。多目的室から。ただなー、最近だと備品点検の時しか開けてないから、誰か忍び込んでるかもしれないと思ってなあ」
「他ならともかく、あそこはトロフィーやら賞状やらありますからね。とにかく、事務員さんにでも言っておきましょうか」
頭の中が白くなった。どうしよう、一番に思ったのはそれだった。高尾の笑った顔と同時に、泣き喚いている顔も浮かんだ。
呆然としていると、教師の話から、その理由がなんとなくわかった。廊下に飾ってあった絵画は、ここの卒業生の書いた絵で、今度その人に返還することになったらしいが、肝心の絵が見つからない。それを教師陣で一斉捜査した結果、多目的室の後ろの方に立てかけられていた。その絵の譲渡が明日の朝らしい。
結果、このままでは高尾が安息できる場所がなくなってしまう。どうしたらいい。
カギの件は、俺が閉め忘れたかもしれないと苦し紛れの弁明をしようかと考えていると、後ろからバサリと教科書やノートが落ちる音が聞こえた。
振り返ると、そこにいたのは、目を見開いた高尾だった。
顔を真っ青にした高尾は、落とした教科書やらをそのままに職員室を飛び出してしまった。
「高尾!」
俺も高尾の後を追いかけて、職員室を飛び出した。途中、高尾を見失ったが、行くところの検討はついていた。もちろん、特別棟四階、西日が差しこむ多目的室だ。
俺が多目的室のドアを開けようとすると、中からカギが掛かっていた。
「宮地サン…」
そのかわり、小さな声がドア越しに聞こえてきた。
「高尾、ここ開けて、話をしよう」
ゆっくりと小さい子に言い聞かせるように言えば、数秒の沈黙の後、ガラガラとドアが開いた。
俯いている高尾がいつ泣き始めてしまうかと、俺はビクビクしていた。
「部屋にはいっても、いいか?」
「はい」
教室の椅子に腰かけた高尾にならって、その斜め前に俺も座った。部屋のカギは、俺が閉めた。
「高尾、」
「宮地サン、宮地サンのことだから、カギの件はもうわかってますよね。ホントにすみません。ただ、ちょっと休憩できるところが欲しくて」
「いーよ、気にすんな。別に怒ってるわけじゃねーから」
長い沈黙だった。後ろの方に目をやれば、布に包まれた絵画が、顧問たちの言うとおりそこにあった。どこの誰だかしらないが、今更絵を欲しがらなきゃ、高尾がこんな目に合わなかったのに。
俺が、ここの四階に来るのは、いつも夕暮れだ。オレンジの斜光が、教室の床を、高尾の横顔を染めていく。小奇麗にされていたこの教室は、存外居心地が良かった。それは、高尾が掃除をしていたからに違いなかった。
「どうしよう、宮地サン」
泣きそうな笑顔で、高尾がおもむろに口を開いた。
「どうしよう。俺ね、緑間が亡くなってから、結構ショックで。教室に居づらかった。人目につかないとこに行きたかった。そんな時に、宮地サンが備品点検でここ、担当になりましたよね。正直、ラッキーって思いました。ごめんなさい。カギの件は謝ります。ただ、俺、このままじゃどうにかなりそうで」
どうやら、高尾は俺が緑間と真ちゃんが同一人物であることを知らないと思っているようだった。その件に関しては、俺もつっこむつもりはなかった。
「高尾、俺がなんとかしてやる。今回だけは、力にならせてくれ」
そういうと、高尾は驚いたような顔をしていた。これだけは俺にしか高尾を助けてやれないと思った。
高尾の返事を待たずに、俺は席を立った。その足で職員室に戻るつもりだった。あの教師二人に、俺があの日、備品点検のリストにあの絵画がなかったのを不審に思ったこと、だからと言って片づけるわけにもいかずそのまま多目的室に立てかけておいたこと、それらを今の今まで忘れていたことを伝えるために。
こじつけでも嘘でもなんでもいい、俺は、俺の立場を利用して高尾を助けてやりたかった。
カギの件を、なんとか納得させ、職員室を出るころには六時を回っていた。とりあえずは大丈夫だと高尾にすぐ伝えたかった。帰りに多目的室に寄ってみたが、中はもぬけの殻だった。そのかわり、あの絵もなくなっていた。
白い布で包まれた、あの絵。
そこで俺は、やっと気が付く。あの絵は、備品点検の時に高尾が屋上に持ってきたものだ。あれは賞状なんかじゃなかった、絵だったんだ。
なんで高尾が持ってきたんだ? それに、今どうしてあの絵がなくなっている。まるで、高尾が持ち去ったかのように。
特別棟四階の廊下の突き当たり、茶色い額縁の絵。そうだ、確かあの絵は、男が描かれていた。俺の勘が、真実を確かめなければならないと警鐘を鳴らし始めていた。
「先生!!」
あの絵は、誰が描かれているんです。職員室に飛び込んだ俺の剣幕に驚いたのか、顧問はどもりながら答える。
「あ、あれはな、生徒の自画像だ。そうだ、亡くなった緑間の父親が、ま、まだこの高校に在学していた時に描いたもので…」
そこまで聞けば、もう充分だった。真ちゃんは、高尾の頭だけの存在じゃない。
真ちゃんには、ちゃんと実体があったのだ。
写真と違って、絵は特徴を捉えようとするから、なおのこと親子じゃ顔は似ているだろう。
どうしよう、と高尾は言った。俺は、高尾があの部屋にもう入れないことだと思った。
でも実際は違う。高尾は、「真ちゃん」がどこかへ行ってしまうことに、どうしようと言ったのだ。職員室で顔を真っ青にしたのも、多目的室のことじゃない。あの絵画が、返還されることの方だったのだ。
高尾は、もう一度真ちゃんを失うことを恐れている。
高尾の下駄箱を開けると、上履きが入っていた。もう学校から出てしまったに違いない。
上履きのまま、俺は校門を飛び出した。
学校の外になっては、高尾がどこに行くかなど検討もつかなかったが、盗んだものを置いておくにはやっぱり自宅だろうと思った。
自分でもありえないくらいの速さで走ると、いつもの倍以上の早さで高尾の家に着いた。電気はどこもついていない。チャイムを押す前に、玄関のドアノブを捻ってみると、カギが開いていた。中に高尾のと思われるスニーカーがあった。高尾は帰ってきていると確信した途端に、鼻をつく臭いがした。
――灯油だ。
俺は、今度こそ恐ろしい想像に血の気が引いた。土足で家に上がりこみ、家じゅうを探し回る。走り回ったせいで、声が出なかった。
さっき聞いたばかりの顧問の声が、頭に再生される。
「緑間の父親が、絵のことを思い出して、返してほしいと頼まれたんだ。高尾君に見せたいのだと言っていたよ」
高尾、それはまだ早いんだ。あの絵は、高尾の手が届かなくなるわけじゃない。
どうか、間に合ってくれ、神様。
*