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南の肖像



 俺は初めて、こいつが泣くところを見た。今までどんなことがあろうと、決して涙を見せなかったこいつが、わんわんと声を上げて泣いていた。一言、大丈夫かと問うことが出来れば良かったのに、俺には、それがなんだかそれが見てはいけないもののような気がして、とっさにドアの陰に隠れてしまった。
 周りに人がいないことを確認すると、こいつの涙を見たのが俺だけだという優越感と、一人で泣けていることへの安心感でほっとした。
 なんだ、お前、泣けるんじゃん。
 10分くらい経っただろうか、嗚咽はまだ聞こえているものの、こいつは落ち着いたようだった。その間、俺はその場から一歩も動けずに、廊下の向こうから誰かが来るのを恐れた。誰も聞いてやらないで欲しかった。
 ふと、以前こいつが、俺、家嫌いなんすよ、と言っていたのを思い出した。学校の方が好き、一人の家は楽しくないし、ぼーっとするのが得意じゃない。そんな理由だったと記憶している。
 こいつはもしかしたら、ずっとこうやって、ここで一人で泣いていたのかもしれない。哀しくないわけないよな、と今更気づいた。笑っていられるわけないよな、と俺まで泣きたくなった。西日が差しこむ、めったに人の来ない特別棟の四階で、泣いていたんだ。
 ごめんな、そう言葉にしそうになった。
 俺が謝ったところでなんにもならないが、無性にそう伝えたかった。今まで気づいてやらなくてごめんな。
 もしそんなことを言えば、きっと、こいつは笑うだろう。なんすか、宮地サンらしくない、そう言って。
 でも、俺は決して口には出さないだろう。多分、俺は見なかったことにするだろう。こいつは、これからもへらへら笑って生きていく。俺もまた、こいつはへらへらした奴だと思い続けて生きていく。ただの先輩と後輩。中学が同じで少し仲が良かっただけ。この関係は、変わらない。
 西日が落ちきって、もうすぐ夜になる。
 この優しい後輩は、そうやって生きてきたんだろう。心配をかけないように、迷惑をかけないように、全然平気なんかじゃないのに、こっそりこっそり泣いていたんだろう。そんなこいつを慰めることなど俺には出来ない。
 だから、どうかせめてこの場所を誰からも見えなくしてしまえと思った。今までもこれからも、この場所はこいつだけのためにあるべきだ。






 まだ残暑の残る夏休み明け、風の便りで後輩が学校に来ていないことを聞いた。
「頼んだぞ、宮地。お前ぐらいの距離のやつの方が、声もかけやすいだろう」
 そう言って、俺の手に渡されたプリントは、たったの数枚だった。どうやら、来ていないとは言っても、その後輩はたいして学校を休んでいないとみえる。それなのに、後輩の担任であり、生徒会の顧問でもあるこの初老の教師を心配させるほど、後輩の欠席は珍しいものであるらしかった。

 その後輩の名前は、高尾という。
 高尾は、俺と同じ中学出身で家も近い。中学では、お互い生徒会に入っており、今でもそれなりに仲が良い。そんな俺は、プリントを届ける適役だったのだろう。
 高校に入って、俺は中学時代でのこともあってか生徒会に勧誘された。特に断る理由もなく、生徒会の役員になった俺は毎日を忙しく過ごしていた。三年生になってもそれは変わらなかったが、一つだけ変わったことがある。
 高尾が、この高校に入学したのだ。
 俺たちはメールや電話はたまにするにしても、会ったりするようなことはなかった。連絡もほとんど高尾から。こいつはマメなんだな、と思っていた。疎遠になりかけた関係は、なにかの弾みがなければ切れてしまうと聞いたことがある。俺たちのなにかの弾みは、高尾の入学だったようだ。
 入学式が終わったころ、生徒会らしく体育館の片づけや、新入生歓迎会の準備をしていると後ろから声をかけられた。
「宮地サン、お久しぶりっす」
 左胸に、新入生の花をつけて、真新しい制服を着て、高尾は立っていた。
「高尾、お前ここ入ったのかよ」
 正直、驚いた。久しぶりに見たその顔は、少しばかり大人びてはいたが、あどけない笑顔が俺に中学の頃を思い出させた。
「宮地サンに憧れたんすよ、なんてね」
「お前変わってねーな、ちょっとウザイところとかな」
「ひっでー!」
 ケタケタ笑う高尾に、俺も思わず笑ってしまう。すごく輝いているな、とその時唐突に思ったことを覚えている。俺は、所謂受験生って呼ばれる学年だったし、新しい環境に入って胸を高鳴らせる高尾が羨ましかったのだろう。
 そんな光景を見ていた周りの人間に、その子誰? と聞かれた。中学時代の生徒会の後輩と答えれば、高尾が続いて丁寧に挨拶した。あまりに丁寧な挨拶に、眩しい笑顔。こんな人間に悪評価を持つ方が難しいだろう。高尾はあっという間に俺の周りの人間にも好かれてしまった。こんな経緯で、以後高尾は生徒会にしつこく勧誘されることとなる。

 生徒会の顧問には、俺もお世話になっているし、高尾との関係も知られている。頼まれれば、もちろんプリントを届ける。だがそんなに心配なら、俺のような中途半端な奴に行かせないで同じクラスの奴に行かせればいいのに、と思った。高尾のことだから、クラスでは人気者に違いないし、仲の良い友人だって一人や二人いるだろう。そのことを問えば、高尾の担任はバツの悪そうな顔をしながら、一言すまないと口を開いた。
 そこで俺は、やっと高尾の身に起きた事実を知った。
 夏休みの間、高尾のクラスのとある男子生徒が、事故で亡くなったそうだ。
 その男子生徒は、高尾と席が前後で、担任は二人が話しているところをよく見かけた。
 あぁ、そればっかりは、同じクラスのやつに頼めない。

 家に帰る道すがら、ちょっと遠回りをして、高尾の家に向かった。はっきりと道順を覚えていなかったが、足は迷うことなく高尾の家にたどり着いた。中学校近くの一軒家。
 インターホンを押しても、誰かが玄関から出てくることはなかった。誰もいないのだろうか。プリントをポストに突っ込んで帰るのもどうかと思った。あの優しい顧問、もとい高尾の担任の顔には、高尾を見てきてほしいと書いてあったからだ。
 ただ、高尾が居留守を使っている場合は、これをポストに突っ込むしかない。俺だって、知ってるやつが死んでしまったら、しばらくは誰にも会いたくないと思うだろう。
 きっと、高尾と死んでしまった彼は、担任が思う以上に仲が良かった。
 クラス中が悲しむ。それでも、学校に来れないほどではない。高尾以外は。そんなものだ。
 いつもへらへら笑っている高尾の顔が頭に浮かんだ。
 プリントの処遇を考えていると、後ろから肩を叩かれた。ぼーっとしていたらしい。
「宮地サン?」
「た、かお」
 乾いた声が喉の奥から出た。
 高尾が、まるで今学校から帰宅したとでもいうような格好で、俺を見つめていた。俺は何も悪いことなどしていないのに、顔を背けてしまった。
「どーしたんすか?」
 俺が何も言えずにいると、高尾は俺の手の中にあるプリントを見て察したらしい。ありがとうございます、と丁寧に礼を述べられた。
「上がっていきます?お茶くらいなら出せますよ、俺にも」
「いい。…お前、学校行ったんなら教室にくらい顔出せ」
 にこりと笑った高尾の頭を、プリントで作った筒ではたく。そのまま高尾の手にそれを押し付けた。俺は今、どんな顔をしているのだろう。
「いや、すいません。なんか、今まで真面目に生きてきたし、数日くらいサボってもいいかなぁって」
「お前な…」
 もっと悲しみに打ちひしがれていると思っていたのに、なんだか呆れた。ちょっと泣いたっていいじゃないか。でも、なんとなくその方がこいつらしくていいなとも思った。
「気ぃ遣ってくれたんすよね、すみません。明日からはちゃんと行くつもりなんで」
「そうしろ」
「はーい、宮地サン」
 なんとも気の抜けた返事を聞いて、俺は心底安心した。
 じゃあな、そう言って俺は踵を返した。後ろから、さよーならーと高尾の声が飛んでくる。多分俺は、心配していたんだ。高尾が変わってしまうことを、高尾が笑わなくなってしまうことを。
 その夜、高尾にメールを送ろうと、メールの作成画面を開いて、小一時間文面を考えた。どんなふうに送ろうか思案を巡らせていると、携帯が鳴った。
 高尾からのメールだった。また、高尾からメールを送らせてしまった。多少の後悔と同時に、さすがだな、と思った。気を遣うのが上手くて、優しい奴。
 そこには、今日の礼と、少しの本音が表れていた。
 俺は、俺が思っていた以上に、ショックだったらしいです。
伝聞形で書かれたその文章は、この数日間の高尾の全てである気がした。
 話なら、いつでも聞いてやる。俺は、それだけ高尾に送ると、携帯を放り投げた。俺には、聞くことしかできない。別に、自分は無力だと自己嫌悪するつもりはない。本当にそれしかできないのだから。

「高尾、一緒に飯食おーぜ」
 次の日、偶然通りかかった廊下で、高尾の名前が聞こえてきた。どうやら、クラスメイトが高尾を昼飯に誘っているようだった。
「いや、わりーな。先約あるんだ」
 俺は自動販売機から、そのまま声のする方へ向かい、後ろから高尾の頭を買ったばかりのペットボトルで軽く小突いてやった。
「彼女か、お前。是非紹介しろ」
 茶化して高尾に言ってみれば、宮地先輩、とそのクラスメイトが俺に片手をひらひらと振る。高尾のクラスメイトは、生徒会でも知った顔の佐藤という後輩だった。にやにやする俺と佐藤をよそに、高尾は大げさにやれやれと首を振った。
「違いますよ、友達。まず女の子じゃありませーん」
「なんだよ。先に言えよ!あ、それがちょっと変わってるっていう友達?」
 佐藤がそう高尾に尋ねると、高尾はそうそう、と言って笑った。そして、待たしてるからお先に宮地サン、と付け足すと、昼飯の入った袋をぶら下げて行ってしまった。
「高尾って友達っつーか人脈が広いっすよねー」
「ていうか」
「なんすか?」
「ちょっと変わった友達ってなに?」
 そこで俺は、我慢しきれず笑ってしまった。高尾と昼飯を食べる『ちょっと変わった友達』。あの高尾と仲良くできるのが、ちょっと変わった奴なのは、なんとなく納得がいった。そこまで考えたら、面白くなってしまったのだ。
「何笑ってんすか宮地先輩」
「そんなことより、お前もいい奴だな」
 目の前で頭の上にはてなマークを浮かべている佐藤もまた、高尾を昼飯に誘えるだけの優しさがあるのだろう。俺の周りはいい奴ばっかりだ。
 佐藤と別れた後、高尾のちょっと変わった友達のことを考えた。
 今の高尾のそばにいてやれる奴。話を聞いて、慰めてやれる奴。なんとなくクラスに居づらいと思っている高尾を昼飯に誘える奴。それに高尾が承諾出来る奴。俺の中で、まだ実体のないそいつが、少し羨ましく感じた。
 俺には、絶対できないことだ。

 コーヒーの缶を開け、屋上にごろんと横になる。俺だって、たまにはサボりたくもなる。サボるといっても、生徒会の活動ではあるが。今日は一年に一度あるかないかの備品点検の日で、放課後になるや否や、生徒会役員が一斉に集められた。
 我が高校の生徒会役員は多くない。故に役員の友達や、先生が手伝いを頼まれてるらしい。集められた顔ぶれに、高尾の姿もあった。佐藤あたりが頼んだのだろう。
 配られれたプリントを見れば、どうやら俺の担当は特別棟の四階。そこは多目的教室や、使われていない教室が並ぶだけで、そもそも備品など机と椅子ぐらい。人気のないそこで、早々にリストにチェックをつけてしまえば、なんだか余所を手伝おうとは思えずにそのまま階段を一つあがり、今に至る。
 昨日までの残暑とは一変して、九月らしい風が気持ちよかった。グラウンドから、部活を行う生徒たちの声が聞こえてくる。
 夏休みが明け、はや一週間。高尾のクラスの亡くなった彼の話は、何故かあまり噂にならなかった。特に全校集会があったわけでもないし、学年が違えば、むしろ知らない奴もいるくらいだった。顧問にこっそり聞くところによれば、亡くなった彼の遺族が、事を大きくしないでほしい、と学校側に伝えたらしい。同じクラスの後輩でさえ、夏休み明け初日に知ったくらいだ。
 始業式の朝、準備のために早く登校していた俺たちに、顧問が少し遅れたことを詫びていた。その時も、顧問はずっと悲しんでいたはずだ。自分がうけもっているクラスの一人が、亡くなっているのだから。
 それから、亡くなった彼のことを話してはいけないような暗黙の了解が生まれた。
 もちろん、彼の死をなかったことにするつもりでそうしているのではない。誰もがみな、事を大きくしないでほしいという遺族に気を遣っているらしかった。意外に、高校生も大人なんだなと思った。俺だって高校生だけど。
 俺もその暗黙の了解とやらに従って、その話題を口に出すのは控えていた。だが、人づてに知った事実もある。
 彼は、この八月のはじめ、学校に勉強しに来ていた。夕方、通学路に飛び込んできた車から小学生の女の子をかばった。そして、彼は頭を強く打った。即死だった。
 高尾は、いつそのことを知ったのだろう。
 佐藤や他のクラスメイトと同じように、始業式の日に担任の口から聞いたのだろうか。いやそうではないだろう、と今なら思う。根拠もなく、高尾と彼は親友だったんだろうという確信があった。
 つまり、事故の当日に、彼が、死んでしまったと……
 もしそうなら、高尾にとってこの夏は、消えてしまいそうな夏だっただろう。そこまで考えて、俺は目を瞑った。瞼の裏に、自分の家族や、友達、後輩、先輩、先生、いろんな人の顔が浮かんだ。もうこれ以上考えたら、頭がおかしくなりそうだった。
 二十分くらいまどろんでいただろうか。
 俺の声を呼ぶ声に、瞼を開ければ、そこに高尾が立っていた。
「宮地サーン、何寝てるんすかもう」
「うるせぇ、いいだろ。今まで真面目にやってきたんだから、たまにはサボってもいいと思ったんだよ」
 数日前に聞いたセリフを、同じような調子で返せば、高尾は苦笑しているようだ。日が落ちかけていて、高尾の顔もオレンジ色だった。五時を告げるチャイムが屋上にも鳴り響いた。
 上体を起こして、高尾を見れば、大きなあくびが一つ出た。最近寝不足のようだ。
「ほら、点検終わったんすよ」
「そっか。にしてもよくここだって分かったな」
「あぁ、最後集まったとき宮地サンいなかったし、担当ここの四階だったでしょ?だとしたら、ここだろうなぁ~って」
 そういう高尾は、小脇に何かを抱えていた。白い布で包まれた少し大きめのそれを、高尾は自分が担当していたところから多目的室に移すよう言われて持ってきたものだと説明した。なるほど、そっちが本題のようだ。
 多目的室には、歴代の賞状や、トロフィーなんかが置いてある。そこに一つ、歴代の賞状が増えるのだと理解した。
 多目的室のカギを締め、高尾と並んで階段を下りる。このカギを返すために、隣の棟の職員室まで行かねばならなかった。先ほどもまで考えていたこともあって、なんだか気まずい。今日に限って、高尾と何をしゃべっていいか分からなかった。
「ね、宮地サン、疲れてます?ほら」
 指で目の下をなぞりながら、高尾が顔を覗き込んできた。確かに今日は、隈がひどかった。
「そうかもなぁ、俺も受験生だし。一応な」
「一応って。宮地サンどうせ今も変わらず頭いいでしょう?だったら、俺と違ってどこだって行けるっすよ、羨ましい」
 あーあ、と派手にため息をつく高尾の頭をはたいてやろうと思ったら、高尾が立ち止った。それに合わせて俺も立ち止る。
「宮地サン、あんまり無理しちゃダメっすよ。とりあえず、カギは俺が返しておくんで、早く帰って寝てください」
「たか…」
「つーわけで、お疲れ様っす!」
 名前を最後まで呼ぶ前に、高尾が敬礼をしながら笑って走り去る。いつのまにか、俺の手にあったカギは、高尾に奪われていたらしい。
 馬鹿か、お前。
 俺、知ってるんだ。お前、今日遅刻してきたんだってな。それに、お前だって、隈がひどかった。
 無理してるのは、お前の方じゃないのかよ。高尾。


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