ぬるま湯と星月夜
「……フリンズ、ちと来てくんね?」
危険な巡回もなく、静かで穏やかな夜。先に風呂に入ったはずの恋人から呼びかけられ、フリンズは読んでいた本を閉じた。
「おや、もう上がられたのですか」
「なわけねぇだろ。良いからちょっと来てくれよ」
もしや、何か不備でもあっただろうか。いかんせん灯台の地下室はラドヴァンが産まれるよりも前から存在しているため、かなりボロが目立つはずだ。
呼ばれるがままに風呂場へと向かうと、ラドヴァンは顎でちょいと風呂を指した。覗いてみると、張られた湯は透明ではなく薄く透明感が高い青紫に染まっており、フロストランプ特有の甘くて少しだけツンと鼻の奥を刺激する香りが、ほのかに充満していた。
これは――入浴剤でも使ったのだろうか。
「これどう思うよ。私お前の髪の色に見えて仕方ねぇんだけど」
「ふむ……そう言われてみれば確かに……?」
「こっち見んな」
ぷいっと視線を逸らすラドヴァンを一通り眺めてから、フリンズは再度浴槽に視線を移した。
「それにしても珍しいですね、あなたが入浴剤を使うだなんて」
「いやーさ、今日ナシャタウンまで行ったじゃん? したら旅人ちゃんに押し付けられたわけ。『ネフェルから貰ったんだけど、私達じゃ使いきれないからあげる!』だとよ」
なぜこの男は今までナシャタウンでも生きて来れたのだろうか。旅人は確かに信頼できる友人だが、どうも裏がある気がしてならない。話しているから当然なのだが、自分とラドヴァンの関係は知っているだろうし、偶然と処理するにはあまりにも出来すぎている。
恋人兼相棒の警戒心の無さに呆れてため息が出る一方、フリンズの胸の内は静かな甘さで満たされていた。髪の色に似ている湯船に浸かる、これ即ちラドヴァンはフリンズ自身の色に染まっていることと同義。常日頃よりとめどなく溢れる独占欲を満たすにはちょうど良い。
「ったく、せめてヤフォダちゃんとかアイノちゃんにあげりゃ良いのに……まあ良いや、じゃ風呂先に借りるぜ」
「せっかくですし、僕もご一緒しますよ」
平然と言い放ったからか、ラドヴァンの肩掛けコートを脱ぐ手がぴたりと止まった。おまけに信じられない物でも見るかのような目でこちらを見ている。
「待て今ので一緒に入る流れあったか?」
「あなたがここに呼んだ辺りからですかね」
「シンプル下心じゃねぇか」
そう愚痴りながらも、ラドヴァンはようやくコートの留め具を外した。以前ならもう少しごねられたものだが、ようやく、無意味な抵抗は諦めてくれたらしい。まあ、それはそれで寂しいと言ったら怒られてしまう。
徐々に顕になっていくラドヴァンの体の線を眺めながら、フリンズは外套のボタンに手をかけた。
あれやこれやと身を清めてから、二人は湯船に浸かっている。背後から腰に腕を回され、ラドヴァンは少しだけいたたまれない気持ちで振り向いた。自分を捕まえている張本人、フリンズは相変わらずどこか楽しそうに微笑むばかりでこちらの気持ちなど露も知らないだろう。なんなら、ラドヴァンもフリンズの気持ちなど読めやしない。背中に当たるちょうど良い胸板の奥から伝わるはずの心音も、人の理から外れた彼からは感じ取れないのだから。耳まで熱いのは湯加減のせいだ。きっと。
「……あのさ、やっぱ野郎二人で風呂入ってるって絵面結構地獄だと思うんだよな」
「おや、浮気をお考えで?」
「お前しか見てねぇのになんつー言い草」
これだから妖精は……とため息をつくラドヴァンをよそに、フリンズは満足そうに微笑んで抱きしめる腕に力を入れ直した。
そういえば、と、ラドヴァンは湯船に沈むフリンズの髪を一房掬って引き上げた。手からお湯がこぼれる音が、妙に大きく聞こえる。毛先に行くにつれて色素が薄くなっていく不思議な長髪は、あまりにも入浴剤の色彩とマッチしていて感慨深い。例えるなら――そう、
「……夜空」
「はい?」
「お前の髪。確かに蒼炎の色でもあるんだけど、星月夜のほうが似合うな」
フリンズは言葉を失ったまま、ラドヴァンの横顔をただ見つめていた。
スネージナヤにいたあの頃、宮殿のフェイ達が口々に「鬼火を見た」と陰で囁いていたのを思い出した。それはフリンズが蒼炎のフェイであるが故、忌むべき死者の魂を導く者としての宿命のようなもの。――その役目に負い目など感じたことはない。死してなお、安寧たる眠りを迎えられない方がよほど苦しいだろうから。
だが、それを頭では理解していても、今思い出せばまるで木材に染み付いてしまったインクのように記憶を穢す。未だに切っていないこの髪も、結局は惰性でしかない。かと言って切ってしまえば、何かを失う気がしてならない。芯を抜いてしまえば、それに付随する中身はどうなるのか、考えるだけでも途方もない虚無に落ちる気がして。
ラドヴァンはいつも、「死ぬならお前の炎に焼かれたい」と口にする。いくら言葉で繋ぎ止めても、いずれは“死”という終点に辿り着かなくてはならない。それがこの世界が定めた生命体の鉄則、世界が循環するために必要な摂理。
わかってはいる。わかってはいるのだ。
だからこそ、先のラドヴァンの言葉には虚を突かれた。
「……あなたは僕の蒼炎に恋をしたのだとばかり思っていました」
「まァ、それもあるっちゃあるぞ。最初にお前の炎に惚れたのは事実。それはそれとして、私はどんなお前でも好きでいたいって思ってる。それに——」
ラドヴァンはフリンズの肩に頭を預けるように寄りかかった。安心させるための笑みを浮かべるレッドスピネルと、珍しく少し見開かれたスフェーンが交差する。
「私は……“蒼炎のキリル”について何も知らない。今のお前しか知らない。だからこそ、お前を知りたい。知ることは存在を証明することと同義だからな。お前の過去も、今も、未来も、私が証明したい」
存在の証明。
名前というアンカーが無ければその存在すら消してしまうこの不条理な世界において、最も合理的な救済措置。ラドヴァンが向けるそれは、知識欲とはまた違う、奉仕に近い愛だ。――ああ、やはり敵わない。
フリンズはラドヴァンの体を少しだけ起こすと、唇を重ねた。舌を入れることなく、ただ触れるだけのキス。普段こんな風に口付けようものなら、相当暴れられたものだ。大人しく受け入れるその姿は、嗚呼、やはり、警戒心が足りなさすぎる。
「やはり、あなたには敵いませんね。全てを曝け出してしまいそうになりますから」
「良いじゃん? 私のこと知っておいて、お前だけは隠し通すとかフェアじゃねぇしさ」
知ること、それはお互いの証明をすることだ。決して間違えたりなどしない。例え種の違いが二人を裂こうとも、ほつれた赤い糸を何度だって掴み取るまでのこと。
それが、二人の約束であった。
危険な巡回もなく、静かで穏やかな夜。先に風呂に入ったはずの恋人から呼びかけられ、フリンズは読んでいた本を閉じた。
「おや、もう上がられたのですか」
「なわけねぇだろ。良いからちょっと来てくれよ」
もしや、何か不備でもあっただろうか。いかんせん灯台の地下室はラドヴァンが産まれるよりも前から存在しているため、かなりボロが目立つはずだ。
呼ばれるがままに風呂場へと向かうと、ラドヴァンは顎でちょいと風呂を指した。覗いてみると、張られた湯は透明ではなく薄く透明感が高い青紫に染まっており、フロストランプ特有の甘くて少しだけツンと鼻の奥を刺激する香りが、ほのかに充満していた。
これは――入浴剤でも使ったのだろうか。
「これどう思うよ。私お前の髪の色に見えて仕方ねぇんだけど」
「ふむ……そう言われてみれば確かに……?」
「こっち見んな」
ぷいっと視線を逸らすラドヴァンを一通り眺めてから、フリンズは再度浴槽に視線を移した。
「それにしても珍しいですね、あなたが入浴剤を使うだなんて」
「いやーさ、今日ナシャタウンまで行ったじゃん? したら旅人ちゃんに押し付けられたわけ。『ネフェルから貰ったんだけど、私達じゃ使いきれないからあげる!』だとよ」
なぜこの男は今までナシャタウンでも生きて来れたのだろうか。旅人は確かに信頼できる友人だが、どうも裏がある気がしてならない。話しているから当然なのだが、自分とラドヴァンの関係は知っているだろうし、偶然と処理するにはあまりにも出来すぎている。
恋人兼相棒の警戒心の無さに呆れてため息が出る一方、フリンズの胸の内は静かな甘さで満たされていた。髪の色に似ている湯船に浸かる、これ即ちラドヴァンはフリンズ自身の色に染まっていることと同義。常日頃よりとめどなく溢れる独占欲を満たすにはちょうど良い。
「ったく、せめてヤフォダちゃんとかアイノちゃんにあげりゃ良いのに……まあ良いや、じゃ風呂先に借りるぜ」
「せっかくですし、僕もご一緒しますよ」
平然と言い放ったからか、ラドヴァンの肩掛けコートを脱ぐ手がぴたりと止まった。おまけに信じられない物でも見るかのような目でこちらを見ている。
「待て今ので一緒に入る流れあったか?」
「あなたがここに呼んだ辺りからですかね」
「シンプル下心じゃねぇか」
そう愚痴りながらも、ラドヴァンはようやくコートの留め具を外した。以前ならもう少しごねられたものだが、ようやく、無意味な抵抗は諦めてくれたらしい。まあ、それはそれで寂しいと言ったら怒られてしまう。
徐々に顕になっていくラドヴァンの体の線を眺めながら、フリンズは外套のボタンに手をかけた。
あれやこれやと身を清めてから、二人は湯船に浸かっている。背後から腰に腕を回され、ラドヴァンは少しだけいたたまれない気持ちで振り向いた。自分を捕まえている張本人、フリンズは相変わらずどこか楽しそうに微笑むばかりでこちらの気持ちなど露も知らないだろう。なんなら、ラドヴァンもフリンズの気持ちなど読めやしない。背中に当たるちょうど良い胸板の奥から伝わるはずの心音も、人の理から外れた彼からは感じ取れないのだから。耳まで熱いのは湯加減のせいだ。きっと。
「……あのさ、やっぱ野郎二人で風呂入ってるって絵面結構地獄だと思うんだよな」
「おや、浮気をお考えで?」
「お前しか見てねぇのになんつー言い草」
これだから妖精は……とため息をつくラドヴァンをよそに、フリンズは満足そうに微笑んで抱きしめる腕に力を入れ直した。
そういえば、と、ラドヴァンは湯船に沈むフリンズの髪を一房掬って引き上げた。手からお湯がこぼれる音が、妙に大きく聞こえる。毛先に行くにつれて色素が薄くなっていく不思議な長髪は、あまりにも入浴剤の色彩とマッチしていて感慨深い。例えるなら――そう、
「……夜空」
「はい?」
「お前の髪。確かに蒼炎の色でもあるんだけど、星月夜のほうが似合うな」
フリンズは言葉を失ったまま、ラドヴァンの横顔をただ見つめていた。
スネージナヤにいたあの頃、宮殿のフェイ達が口々に「鬼火を見た」と陰で囁いていたのを思い出した。それはフリンズが蒼炎のフェイであるが故、忌むべき死者の魂を導く者としての宿命のようなもの。――その役目に負い目など感じたことはない。死してなお、安寧たる眠りを迎えられない方がよほど苦しいだろうから。
だが、それを頭では理解していても、今思い出せばまるで木材に染み付いてしまったインクのように記憶を穢す。未だに切っていないこの髪も、結局は惰性でしかない。かと言って切ってしまえば、何かを失う気がしてならない。芯を抜いてしまえば、それに付随する中身はどうなるのか、考えるだけでも途方もない虚無に落ちる気がして。
ラドヴァンはいつも、「死ぬならお前の炎に焼かれたい」と口にする。いくら言葉で繋ぎ止めても、いずれは“死”という終点に辿り着かなくてはならない。それがこの世界が定めた生命体の鉄則、世界が循環するために必要な摂理。
わかってはいる。わかってはいるのだ。
だからこそ、先のラドヴァンの言葉には虚を突かれた。
「……あなたは僕の蒼炎に恋をしたのだとばかり思っていました」
「まァ、それもあるっちゃあるぞ。最初にお前の炎に惚れたのは事実。それはそれとして、私はどんなお前でも好きでいたいって思ってる。それに——」
ラドヴァンはフリンズの肩に頭を預けるように寄りかかった。安心させるための笑みを浮かべるレッドスピネルと、珍しく少し見開かれたスフェーンが交差する。
「私は……“蒼炎のキリル”について何も知らない。今のお前しか知らない。だからこそ、お前を知りたい。知ることは存在を証明することと同義だからな。お前の過去も、今も、未来も、私が証明したい」
存在の証明。
名前というアンカーが無ければその存在すら消してしまうこの不条理な世界において、最も合理的な救済措置。ラドヴァンが向けるそれは、知識欲とはまた違う、奉仕に近い愛だ。――ああ、やはり敵わない。
フリンズはラドヴァンの体を少しだけ起こすと、唇を重ねた。舌を入れることなく、ただ触れるだけのキス。普段こんな風に口付けようものなら、相当暴れられたものだ。大人しく受け入れるその姿は、嗚呼、やはり、警戒心が足りなさすぎる。
「やはり、あなたには敵いませんね。全てを曝け出してしまいそうになりますから」
「良いじゃん? 私のこと知っておいて、お前だけは隠し通すとかフェアじゃねぇしさ」
知ること、それはお互いの証明をすることだ。決して間違えたりなどしない。例え種の違いが二人を裂こうとも、ほつれた赤い糸を何度だって掴み取るまでのこと。
それが、二人の約束であった。
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