七海
「……はあ」
数年間勤めた会社のビルを見上げる。
辞めるまではうだうだと悩むのに、その時が来てしまえば呆気ないものだ。私の両手にはオフィスに置いていた私物を詰め込んだ紙袋と、同僚がくれたプレゼントが入った紙袋がぶら下がっている。そちらの袋を覗いてみると、某ブランドのバスボムだった。
うわ、消耗品、助かる〜……。
同僚の気遣いにしみじみしながら、私の最終出勤日は幕を閉じた。
辞めてしばらくは、引越しの準備に次の仕事関連の手続きなど、あまりのんびりする暇もなく過ごしていた。だから、思い出さずに済んでいたのに。——親しくしていた噂好きの元同僚から「七海さん、会社辞めちゃったよー」とメッセージが来るまでは。
一瞬にして肝が冷える。電話じゃなくて良かった、この動揺を悟られず話せた自信がない。とりあえず、へーそうなんだ意外だねー、と適当に返しておいた。
私たちが付き合っていたことなんて、誰も知らないから。
「……そっか、七海、辞めちゃったんだ」
ダンボールに囲まれながら、ぽつりと呟く。
労働はクソだとか言ってたけど……別の労働に移るのかな? 身体大丈夫かな? ちゃんと食べてるかな? いや、食に関しては心配無用か……など、たった一ヶ月しか同じ時間を過ごしていないのに、一丁前に元カノ面をしてしまった自分が恥ずかしい。
同じ会社に勤めていて、一ヶ月だけ付き合った元恋人の七海。私は彼に何も告げず退職した。
気まずくて別れて以来雑談すら出来なくなっていて、更には付き合っていた時になんとなく聞いていた彼の有給取得日を自分の退職日にしたので、彼がどう思ったのかはわからない。
なんか私、逃げてるみたいだな。辞めた理由は『元カレが同じ会社にいて気まずい』なんて青いものではないのだけれど。お金で頭が埋め尽くされる事にはとうにうんざりしていたし、色んなタイミングが重なってしまって、何となく後ろめたかったのだ。
スマホを手に取って、写真フォルダを開く。
私も七海も、あまり写真が得意ではなかった。いい歳の大人だからこそ、恥ずかしかったのだ。でもなんか、一枚くらいさ、あってもいいよね、しゃしん。なんて私がしどろもどろ言えば、七海がすっと私のスマホを奪い取って、肩をぐっと引き寄せて自撮りした。
無表情の七海と、彼に向かって目を丸くしている私。色気の欠片もないこのツーショットに、二人で爆笑した。
『なにこれ、意味わかんないじゃん』
『私たちらしくて良いのでは? 写真なんてこれからたくさん撮れるでしょう』
彼はそう、笑ってくれたのに。
結局あれが最初で最後の写真になってしまって、そして、別れた後も消す事は出来なかった。液晶の中の、金色を撫ぜる。
「……会いたいなあ」
気付いた時には、いつも遅い。
連絡先は、消してしまった。
◇
新しい職場には寮があるというので、家は引き払った。心機一転、私は今『東京都立呪術高等専門学校』の門前に立っている。
昔から視えていたものの正体を、私はつい先日——七海と別れた少し後、ようやく知る事が出来た。子供の頃はおばけだろうと受け流し、大人になったらなったで、まあ妖怪くらいこの世にいるだろうとそれらを受け入れた。周りの人には見えていないようだったので、誰かに相談する事もなく二十数年が過ぎた。
けれど、先日街で買い物を楽しんでいた時——また視えた。でも、いつもとは違う、巨大で邪悪で、あ、死ぬかも、なんて考えた初めての日。
「いやーあの時は驚いたよ。街中に突如出現した呪霊、あれ見て、周りの人に逃げろって言う一般人がいるなんてね」
「……その節はどうも」
「で、その時五条さんが助けてスカウトしたと……?」
「そー。面白いもんも見れそうだったしねー。ま、それはあくまでもついで。君の呪力は中々に高い。これからどんどん鍛錬して任務行っちゃってー! よろしく!」
「……」
給料弾むよ〜とにこやかに適当に笑うその人は、あの日街で私を助けれくれた五条悟さん。なんだかこの界隈ではとても有名で最強らしい。
その隣で気まずそうにしているのは補助監督の伊地知さんだ。胃、痛そう。
私が今まで視えていたものは『呪霊』というそうだ。呪力がなければ見ることや祓う事が出来ず(呪具の有無も関係するらしかった)、あの日街で見た禍々しいものをものの一瞬で祓ってくれたのが、五条さんだった。
『君、見えてるの』
『あ、はい……あなたも見えるんですか? なんなんですかこれ……』
『ねえ、うちに来ない?』
『はい?』
空からすとん、と地上に降り立った彼はふと首を傾げてそう言った。そしてあれよこれよと事は進み、私は証券会社を辞め、高専に行く事にした。
黒布で目を覆ういかにも怪しい人に言いくるめられたとはいえども、私がこれまで見えていたものを祓ってくれた、ひいては一般人をそうやって守ってくれていた人がいたこと。そして私には呪力というものがあるらしかったこと。つまり、これまでの様にただ傍観するだけではなく、次は人を助ける術を得られるかもしれない、ということが決め手だった。今まで助けてくれた人達への遠回しの恩返しと言えば聞こえが良いが、もしかすると何の取り柄もなく平々凡々に生きてきた中で刺激が欲しかったのかもしれない。因みに任務中死ぬかもしれないと言われたが、それでも良いと思った。
——もう、七海もいないし。
わいわいと雑談をひとり繰り広げる五条さんを目の前に、ため息をついた。
ああ私、結局七海を軸にしちゃってるな。
「あ、七海ー」
向かい合わせのソファの向こう側に、五条さんがひらりと手を振った。七海、という言葉に肩がぴくりと揺れる。私の背中側だ。五条さんが声を掛けた『七海』という人の姿は見えない。でも。
「ちょっと人紹介するからこっち来て〜」
「五条さん、すみませんが私はこれからにん……」
あの愛しい声を、聞き間違える訳がないのだ。
◇
任務へ、という言葉は最後まで口に出来なかった。
あまり好ましくない上司の隣に——彼女がいたから。
——二度と会えないものだと、思っていた。
金の事ばかり考えるあの会社の中で、同僚として接してきた彼女との時間だけは、とても居心地の良いものだった。それは、自分がこれまでの人生で経験し得なかったもの。いつかの青い春は仲間の喪失や自分のなす事に疑問を感じてしまったし、一般社会に逃げてみれば労働はクソだった。そういった色んな呪いが、彼女といる時だけは感じられなかった。人との繋がりなど無縁だと思っていたのに、どこか彼女とシンパシーを感じていたのだ。他人と一線を画して全てを曝け出せない姿に、自分を重ねた。
そうして目で追う内に、彼女も自分と同じ感情を抱いている気がした。廊下ですれ違う時、休憩室で鉢合わせる時。まともに話した事はなかったが、視線が交わるのを確かに感じていた。
とある日飲み会の席で偶然隣になった彼女の手に、テーブルの下でこっそり自分の手を重ねた。目の前や彼女の隣には同僚や上司がいる。我ながら中々大胆な真似を、と思う反面、拒否されないだろうという謎の自負もあった。目を丸くして顔を見つめてきたと思えば、自身の手に彼女の指が絡んだ。
彼女の耳が朱に染まる。手持ち無沙汰にもう殆ど液体の入っていないグラスを持ったり置いたりしているのを見て、つい笑ってしまってこっそり蹴られたのは結構良い思い出だ。
大勢いるのに、まるで二人だけの世界になった気がして。
一週間、幸せの絶頂。
二週間、少し冷静になる。
三週間、違和感を抱く。
四週間、どちらからともなく「話があると」言い出す。
別れ際は、あっさりと、あっけないものだった。どちらが悪い訳でもない離別。
……いや、それでも彼女に別れ話をさせたのだから、原因はこちらにもある。自分には視えるものがある。そしてたまに祓う。
一般人の彼女を巻き込む訳にはいかず、そういった自分を曝け出す事が出来なかった。近付けば近付くほど、守る事が難しくなってしまう。同じ沼に落ちてくれと言う度胸も、引き摺り込む根性もなかった。
彼女から感じる距離は埋まる事もなく、自身も踏み込む事が出来ず、終わってしまった。
別れてから暫くして、彼女はあっさりと会社を辞めてしまった。しかも自分の休みの日に、だ。自分がいると気まずいからだろうか。自惚れ過ぎか? たった一ヶ月の付き合いだと言うのに。
これからどうするのだろう。次の仕事は決まっているのだろうか? 食が細いから、心配だ。ちゃんと食べているだろうか。……一瞬でも一丁前に元カレ面をしてしまった事に、フーと深い息を吐くしかなかった。
彼女なしの、自分の将来を考えた時。——あそこに戻ろう。もう誰も沼に引き摺り込まなくて済むのだから。金の事ばかり考えるのももう飽き飽きした。そう色んな理由を付けて、高専へ出戻ったのだ。
けれど、任務の途中に命の危機を感じる時、ふとした夜に空を眺める時。どんな時でも思い浮かべるのは、彼女の顔だった。
会いたかった。けれど、彼女の連絡先は消した。
気付いた時には、もう掴む手はない。
なかった、はずだ。
「な、なみ……? なんでここにいるの? ……何そのサングラス」
久々の邂逅一番彼女が口にしたのがそれで、少し落胆したのは黙っておく。
「……それは後で説明します。まず五条さん、これはどういう」
「えっ二人知り合ーい!? 超偶然じゃん! 運命かな〜!? 因みにどこまで関係発展してんの〜?」
「なっ……、いや五条さん、私と七海は」
爛々と目を輝かせる上司にうんざりする。どうせこの人は全て知っているのだ。私達が過去に関係があった事も。その上でこんな態度を取っているんだからタチが悪い。
深い深い息を吐いて、ガヤガヤ騒ぐ上司を睨む。その隣で驚きを隠せないようにこちらを見ている彼女を視界の端に捉え、手を取って談話室へ向かう事にした。
「……任務の件ですが」
「貸しイチね〜!」
恐らく最初からそのつもりだったのだろう。五条さんは任務の交代をあっさり認めてくれた。貸しという言葉がものすごく恐ろしいが、今回だけは感謝する事にする。
◇
久しぶりに会った元恋人は、奇妙なサングラスを掛けていた。
どうしてここに、なにその格好、あれまたガタイ良くなってない? など疑問符が渦巻く私の心いざ知れず。七海は私の手を掴んで、すたすたと進んで行く。付き合っていた時にもなかった彼の少し強引な行動に混乱しつつも、なんとか足を動かして着いて行くことだけで精一杯だった。
「え、あの、七海。五条さんいいの?」
後ろを振り返りながら問い掛ける。五条さんはニヤニヤしながら手をひらりと振っていて、伊地知さんからは「ご武運を……!」と謎の激励を受けた。何だこの状況は。
一方の七海は「あの人の事は忘れて下さい」と少しドスの効いた声で呟いた。仲悪いの?
連れてこられた談話室には誰もおらず、少しホッとした。向かい合ってソファに腰掛けて、口火を切る。
「……久しぶり、だね」
「……そうですね。お元気でしたか」
「……うん」
半年、いやもう少し経っているだろうか。一度開いてしまった距離は更に広く様に感じた。別れてから話すのは初めてだし、なんて言ったって、七海は私が知っている頃とはファッションセンスが少し変わっている。こんなネクタイ見た事あったっけな、とぼんやり過去を振り返る。恋人の時垣間見た穏やかな眼差しや優しい声音も、遥か遠い昔に感じてしまう程に殺伐としていた。私達って他人なんだな。きっと呪術師ってのは大変な仕事なんだな。そう考えて無理矢理自分を納得させた。
でも、七海は私より後に会社を辞めたはずだ。なのにどうして私より先にここにいるんだろう。もしかして知られていた——? いや、それはどうしようもない自惚れだ。これは、だだの偶然。運命でも何でもないんだから。
邪念を振り切って、七海が自販機で買ってくれたカフェオレを受け取った。
「ありがと。……覚えててくれたの?」
「忘れる方がどうかしてるかと」
私が甘党だという些細な事だったけれど、彼のさっぱりした物言いに思わず頬が緩む。
「あのさ、七海はなんでここに……」
「それはこちらの台詞です」
そこで、初めて七海と視線が交わった。サングラスはいつの間にかテーブルの上に置かれていた。私の知っている『あの瞳』に貫かれて、胸がずくんと音を立てた。
「転職したと人伝に聞きました。でも、どうしてわざわざこんな危険な所に?」
責める様な目は、容赦なく私の心を砕いた。問い掛ける様な、諭す様な、怒る様な声音。
「……別れた後さ、買い物してたら呪霊、ってやつが街で暴れてて。昔からそういうの見えてはいたんだけど……」
「……そこで五条さんと?」
「うん。スカウトって言うのかな? この界隈では」
役に立てるかわからないけどさ、と目線を逸らして缶を煽る。緊張で張り付きそうな喉に余ったるい液体は少しパンチが足りなかったけれど、こうして間を繋がないと心が保ちそうになかった。
「……で、色々教えてもらって。証券会社の仕事は私以外でも出来るけど、呪術師は性質の問題もあるでしょ」
「……」
「まあ、恩返しっていうと聞こえが良いんだけどさ。やれる事やろうって思ったの」
「いえ、あなたらしいと思いますよ。……ただ」
今にも泣きそうな震える声。俯いていた顔を上げて再び視線が交わると、そこには彼の切羽詰まった表情があった。——初めて見る顔だった。
「なな、み——」
後の言葉は、全て彼の胸へ吸い込まれてしまった。ガタンとテーブルが鳴る。気が付いたら、七海に抱き込まれていた。腰回る腕は骨が音を立てそうな程に力強くて、熱い。
「どうして来てしまったんですか……! こちら側に! せっかく遠ざけたのに、」
ぎゅう、と腕にまた力が籠る。祈る様な七海の叫びが私の脳をすり抜ける。七海、どうしたの。何の話をしているの。どうしてそんなに強く抱き締めてくれるの。
「これじゃ振り出しに戻ったも当然です。あなたを守れない」
「七海、何の話——」
「……私達の間に、壁があるとは思っていませんでしたか」
「……ないと言えば嘘になる」
拘束は解いてくれないけれど、腕の中に少し空間が出来たので七海の胸にそっと手を置いてみた。見上げると、彼はフーと大きな溜息をついてみせた。あ、これ怒ってる時のやつじゃん。
「……私は元々、高専の生徒でした。あなたと出会うずっと前、こういった事をしていました。そしてあなたと別れて、全部どうでも良くなって戻って来た」
「そう、なの……。私も言い出せなかった、お化けや妖怪が見えるなんて……。じゃあもしかして」
「私達は同じ隠し事をしていた様ですね」
お互いが感じていた距離——それは呪いだ。私は七海にかつて化け物だと信じていたもの達の話をすることが出来なかった。そして、七海も私に過去の話をすることが叶わなかった。それが仇となって私達は別々の道を歩む事になって、また巡り合ってしまった、という事だとしたら。
内容は違えど同じ種類の秘密を抱えた元恋人と転職先で再開する確率。一体どのくらいだろう。希少だと信じたい。この再会を素直に喜びたい。けれど、ぬか喜びはごめんだった。だから私はまた嘘をついてしまう。
「なんかこれってさ、すごい……偶然、だよね。この界隈ではよくある事なのかな」
「これだけの事を偶然で片付けるつもりですか?」
「へ?」
ドスの効いた声がしたと思えば、突然の浮遊感。戸惑う暇もなく、七海はすたすたと歩みを進めた。私を横抱きにして。
「ちょっ、七海!? 何!? 下ろして恥ずかしい!」
「ここまで来たらもう逃しません。あ、あなた職員寮に入るんですよね。さっそくお邪魔しますよ」
言い訳はそこで、と七海の眼がぎらりと光る。え、私、地雷踏んだ……? 逃さないって、それは……。
こんなに彼の体温を近くに感じる事が久しぶりなのと、自分の状況に混乱して色々と上手く飲み込めない。職員寮の方へと向かっているらしい七海は私の言葉を全て振り払ってしまう。
「あっ、ナナミーン! 今日って泊まりの任務じゃ……あれ? どしたのその人」
「七海下ろして! 本当に!」
「虎杖くん」
虎杖くん、と呼ばれた少年——高専の生徒だろうか。ナナミンというワードにツッコむ暇もなく、私を腕の中に収めたまま七海は彼に向き合った。どんな顔すればいいの! とてつもなく恥ずかしい!
「ここからは大人の時間です」
「へ?」
「所謂十八禁という奴です。では」
「お、おー……なんかよくわからんけどわかったわ、頑張って……」
「七海のばか!!!」
目を点にした少年に別れを告げると、七海は再び歩き出してしまう。私の断末魔の様な叫びは虚しく消えていった。
◇
新品のシーツの中でどろどろに甘やかされて、別れた時の事や退職した日の事をくどくど詰め寄られ、七海って案外執念深いんだなあ、と思う余裕が出来たのは、次の日の朝の事だった。
「死んでもいいと思った?」
「……すみません」
この道に進む決め手を微睡の中話していたからか、余計な事まで口走ったらしい。七海がいない世界なら死んでもいいと思ったのは本当の事だ。しかし、七海は眉を吊り上げて表情とら裏腹に艶かしい手付きで生まれたままの私の腰を撫でた。
「ひゃっ!」
「……あなたは死にませんよ。もう誰も、置いていきません」
祈りにも似た呟きは、私の嬌声に掻き消えた。
お揃いのシルバーリングと共に七海が永遠の誓いを立ててくれるのは、それよりもう少し先の話だ。
数年間勤めた会社のビルを見上げる。
辞めるまではうだうだと悩むのに、その時が来てしまえば呆気ないものだ。私の両手にはオフィスに置いていた私物を詰め込んだ紙袋と、同僚がくれたプレゼントが入った紙袋がぶら下がっている。そちらの袋を覗いてみると、某ブランドのバスボムだった。
うわ、消耗品、助かる〜……。
同僚の気遣いにしみじみしながら、私の最終出勤日は幕を閉じた。
辞めてしばらくは、引越しの準備に次の仕事関連の手続きなど、あまりのんびりする暇もなく過ごしていた。だから、思い出さずに済んでいたのに。——親しくしていた噂好きの元同僚から「七海さん、会社辞めちゃったよー」とメッセージが来るまでは。
一瞬にして肝が冷える。電話じゃなくて良かった、この動揺を悟られず話せた自信がない。とりあえず、へーそうなんだ意外だねー、と適当に返しておいた。
私たちが付き合っていたことなんて、誰も知らないから。
「……そっか、七海、辞めちゃったんだ」
ダンボールに囲まれながら、ぽつりと呟く。
労働はクソだとか言ってたけど……別の労働に移るのかな? 身体大丈夫かな? ちゃんと食べてるかな? いや、食に関しては心配無用か……など、たった一ヶ月しか同じ時間を過ごしていないのに、一丁前に元カノ面をしてしまった自分が恥ずかしい。
同じ会社に勤めていて、一ヶ月だけ付き合った元恋人の七海。私は彼に何も告げず退職した。
気まずくて別れて以来雑談すら出来なくなっていて、更には付き合っていた時になんとなく聞いていた彼の有給取得日を自分の退職日にしたので、彼がどう思ったのかはわからない。
なんか私、逃げてるみたいだな。辞めた理由は『元カレが同じ会社にいて気まずい』なんて青いものではないのだけれど。お金で頭が埋め尽くされる事にはとうにうんざりしていたし、色んなタイミングが重なってしまって、何となく後ろめたかったのだ。
スマホを手に取って、写真フォルダを開く。
私も七海も、あまり写真が得意ではなかった。いい歳の大人だからこそ、恥ずかしかったのだ。でもなんか、一枚くらいさ、あってもいいよね、しゃしん。なんて私がしどろもどろ言えば、七海がすっと私のスマホを奪い取って、肩をぐっと引き寄せて自撮りした。
無表情の七海と、彼に向かって目を丸くしている私。色気の欠片もないこのツーショットに、二人で爆笑した。
『なにこれ、意味わかんないじゃん』
『私たちらしくて良いのでは? 写真なんてこれからたくさん撮れるでしょう』
彼はそう、笑ってくれたのに。
結局あれが最初で最後の写真になってしまって、そして、別れた後も消す事は出来なかった。液晶の中の、金色を撫ぜる。
「……会いたいなあ」
気付いた時には、いつも遅い。
連絡先は、消してしまった。
◇
新しい職場には寮があるというので、家は引き払った。心機一転、私は今『東京都立呪術高等専門学校』の門前に立っている。
昔から視えていたものの正体を、私はつい先日——七海と別れた少し後、ようやく知る事が出来た。子供の頃はおばけだろうと受け流し、大人になったらなったで、まあ妖怪くらいこの世にいるだろうとそれらを受け入れた。周りの人には見えていないようだったので、誰かに相談する事もなく二十数年が過ぎた。
けれど、先日街で買い物を楽しんでいた時——また視えた。でも、いつもとは違う、巨大で邪悪で、あ、死ぬかも、なんて考えた初めての日。
「いやーあの時は驚いたよ。街中に突如出現した呪霊、あれ見て、周りの人に逃げろって言う一般人がいるなんてね」
「……その節はどうも」
「で、その時五条さんが助けてスカウトしたと……?」
「そー。面白いもんも見れそうだったしねー。ま、それはあくまでもついで。君の呪力は中々に高い。これからどんどん鍛錬して任務行っちゃってー! よろしく!」
「……」
給料弾むよ〜とにこやかに適当に笑うその人は、あの日街で私を助けれくれた五条悟さん。なんだかこの界隈ではとても有名で最強らしい。
その隣で気まずそうにしているのは補助監督の伊地知さんだ。胃、痛そう。
私が今まで視えていたものは『呪霊』というそうだ。呪力がなければ見ることや祓う事が出来ず(呪具の有無も関係するらしかった)、あの日街で見た禍々しいものをものの一瞬で祓ってくれたのが、五条さんだった。
『君、見えてるの』
『あ、はい……あなたも見えるんですか? なんなんですかこれ……』
『ねえ、うちに来ない?』
『はい?』
空からすとん、と地上に降り立った彼はふと首を傾げてそう言った。そしてあれよこれよと事は進み、私は証券会社を辞め、高専に行く事にした。
黒布で目を覆ういかにも怪しい人に言いくるめられたとはいえども、私がこれまで見えていたものを祓ってくれた、ひいては一般人をそうやって守ってくれていた人がいたこと。そして私には呪力というものがあるらしかったこと。つまり、これまでの様にただ傍観するだけではなく、次は人を助ける術を得られるかもしれない、ということが決め手だった。今まで助けてくれた人達への遠回しの恩返しと言えば聞こえが良いが、もしかすると何の取り柄もなく平々凡々に生きてきた中で刺激が欲しかったのかもしれない。因みに任務中死ぬかもしれないと言われたが、それでも良いと思った。
——もう、七海もいないし。
わいわいと雑談をひとり繰り広げる五条さんを目の前に、ため息をついた。
ああ私、結局七海を軸にしちゃってるな。
「あ、七海ー」
向かい合わせのソファの向こう側に、五条さんがひらりと手を振った。七海、という言葉に肩がぴくりと揺れる。私の背中側だ。五条さんが声を掛けた『七海』という人の姿は見えない。でも。
「ちょっと人紹介するからこっち来て〜」
「五条さん、すみませんが私はこれからにん……」
あの愛しい声を、聞き間違える訳がないのだ。
◇
任務へ、という言葉は最後まで口に出来なかった。
あまり好ましくない上司の隣に——彼女がいたから。
——二度と会えないものだと、思っていた。
金の事ばかり考えるあの会社の中で、同僚として接してきた彼女との時間だけは、とても居心地の良いものだった。それは、自分がこれまでの人生で経験し得なかったもの。いつかの青い春は仲間の喪失や自分のなす事に疑問を感じてしまったし、一般社会に逃げてみれば労働はクソだった。そういった色んな呪いが、彼女といる時だけは感じられなかった。人との繋がりなど無縁だと思っていたのに、どこか彼女とシンパシーを感じていたのだ。他人と一線を画して全てを曝け出せない姿に、自分を重ねた。
そうして目で追う内に、彼女も自分と同じ感情を抱いている気がした。廊下ですれ違う時、休憩室で鉢合わせる時。まともに話した事はなかったが、視線が交わるのを確かに感じていた。
とある日飲み会の席で偶然隣になった彼女の手に、テーブルの下でこっそり自分の手を重ねた。目の前や彼女の隣には同僚や上司がいる。我ながら中々大胆な真似を、と思う反面、拒否されないだろうという謎の自負もあった。目を丸くして顔を見つめてきたと思えば、自身の手に彼女の指が絡んだ。
彼女の耳が朱に染まる。手持ち無沙汰にもう殆ど液体の入っていないグラスを持ったり置いたりしているのを見て、つい笑ってしまってこっそり蹴られたのは結構良い思い出だ。
大勢いるのに、まるで二人だけの世界になった気がして。
一週間、幸せの絶頂。
二週間、少し冷静になる。
三週間、違和感を抱く。
四週間、どちらからともなく「話があると」言い出す。
別れ際は、あっさりと、あっけないものだった。どちらが悪い訳でもない離別。
……いや、それでも彼女に別れ話をさせたのだから、原因はこちらにもある。自分には視えるものがある。そしてたまに祓う。
一般人の彼女を巻き込む訳にはいかず、そういった自分を曝け出す事が出来なかった。近付けば近付くほど、守る事が難しくなってしまう。同じ沼に落ちてくれと言う度胸も、引き摺り込む根性もなかった。
彼女から感じる距離は埋まる事もなく、自身も踏み込む事が出来ず、終わってしまった。
別れてから暫くして、彼女はあっさりと会社を辞めてしまった。しかも自分の休みの日に、だ。自分がいると気まずいからだろうか。自惚れ過ぎか? たった一ヶ月の付き合いだと言うのに。
これからどうするのだろう。次の仕事は決まっているのだろうか? 食が細いから、心配だ。ちゃんと食べているだろうか。……一瞬でも一丁前に元カレ面をしてしまった事に、フーと深い息を吐くしかなかった。
彼女なしの、自分の将来を考えた時。——あそこに戻ろう。もう誰も沼に引き摺り込まなくて済むのだから。金の事ばかり考えるのももう飽き飽きした。そう色んな理由を付けて、高専へ出戻ったのだ。
けれど、任務の途中に命の危機を感じる時、ふとした夜に空を眺める時。どんな時でも思い浮かべるのは、彼女の顔だった。
会いたかった。けれど、彼女の連絡先は消した。
気付いた時には、もう掴む手はない。
なかった、はずだ。
「な、なみ……? なんでここにいるの? ……何そのサングラス」
久々の邂逅一番彼女が口にしたのがそれで、少し落胆したのは黙っておく。
「……それは後で説明します。まず五条さん、これはどういう」
「えっ二人知り合ーい!? 超偶然じゃん! 運命かな〜!? 因みにどこまで関係発展してんの〜?」
「なっ……、いや五条さん、私と七海は」
爛々と目を輝かせる上司にうんざりする。どうせこの人は全て知っているのだ。私達が過去に関係があった事も。その上でこんな態度を取っているんだからタチが悪い。
深い深い息を吐いて、ガヤガヤ騒ぐ上司を睨む。その隣で驚きを隠せないようにこちらを見ている彼女を視界の端に捉え、手を取って談話室へ向かう事にした。
「……任務の件ですが」
「貸しイチね〜!」
恐らく最初からそのつもりだったのだろう。五条さんは任務の交代をあっさり認めてくれた。貸しという言葉がものすごく恐ろしいが、今回だけは感謝する事にする。
◇
久しぶりに会った元恋人は、奇妙なサングラスを掛けていた。
どうしてここに、なにその格好、あれまたガタイ良くなってない? など疑問符が渦巻く私の心いざ知れず。七海は私の手を掴んで、すたすたと進んで行く。付き合っていた時にもなかった彼の少し強引な行動に混乱しつつも、なんとか足を動かして着いて行くことだけで精一杯だった。
「え、あの、七海。五条さんいいの?」
後ろを振り返りながら問い掛ける。五条さんはニヤニヤしながら手をひらりと振っていて、伊地知さんからは「ご武運を……!」と謎の激励を受けた。何だこの状況は。
一方の七海は「あの人の事は忘れて下さい」と少しドスの効いた声で呟いた。仲悪いの?
連れてこられた談話室には誰もおらず、少しホッとした。向かい合ってソファに腰掛けて、口火を切る。
「……久しぶり、だね」
「……そうですね。お元気でしたか」
「……うん」
半年、いやもう少し経っているだろうか。一度開いてしまった距離は更に広く様に感じた。別れてから話すのは初めてだし、なんて言ったって、七海は私が知っている頃とはファッションセンスが少し変わっている。こんなネクタイ見た事あったっけな、とぼんやり過去を振り返る。恋人の時垣間見た穏やかな眼差しや優しい声音も、遥か遠い昔に感じてしまう程に殺伐としていた。私達って他人なんだな。きっと呪術師ってのは大変な仕事なんだな。そう考えて無理矢理自分を納得させた。
でも、七海は私より後に会社を辞めたはずだ。なのにどうして私より先にここにいるんだろう。もしかして知られていた——? いや、それはどうしようもない自惚れだ。これは、だだの偶然。運命でも何でもないんだから。
邪念を振り切って、七海が自販機で買ってくれたカフェオレを受け取った。
「ありがと。……覚えててくれたの?」
「忘れる方がどうかしてるかと」
私が甘党だという些細な事だったけれど、彼のさっぱりした物言いに思わず頬が緩む。
「あのさ、七海はなんでここに……」
「それはこちらの台詞です」
そこで、初めて七海と視線が交わった。サングラスはいつの間にかテーブルの上に置かれていた。私の知っている『あの瞳』に貫かれて、胸がずくんと音を立てた。
「転職したと人伝に聞きました。でも、どうしてわざわざこんな危険な所に?」
責める様な目は、容赦なく私の心を砕いた。問い掛ける様な、諭す様な、怒る様な声音。
「……別れた後さ、買い物してたら呪霊、ってやつが街で暴れてて。昔からそういうの見えてはいたんだけど……」
「……そこで五条さんと?」
「うん。スカウトって言うのかな? この界隈では」
役に立てるかわからないけどさ、と目線を逸らして缶を煽る。緊張で張り付きそうな喉に余ったるい液体は少しパンチが足りなかったけれど、こうして間を繋がないと心が保ちそうになかった。
「……で、色々教えてもらって。証券会社の仕事は私以外でも出来るけど、呪術師は性質の問題もあるでしょ」
「……」
「まあ、恩返しっていうと聞こえが良いんだけどさ。やれる事やろうって思ったの」
「いえ、あなたらしいと思いますよ。……ただ」
今にも泣きそうな震える声。俯いていた顔を上げて再び視線が交わると、そこには彼の切羽詰まった表情があった。——初めて見る顔だった。
「なな、み——」
後の言葉は、全て彼の胸へ吸い込まれてしまった。ガタンとテーブルが鳴る。気が付いたら、七海に抱き込まれていた。腰回る腕は骨が音を立てそうな程に力強くて、熱い。
「どうして来てしまったんですか……! こちら側に! せっかく遠ざけたのに、」
ぎゅう、と腕にまた力が籠る。祈る様な七海の叫びが私の脳をすり抜ける。七海、どうしたの。何の話をしているの。どうしてそんなに強く抱き締めてくれるの。
「これじゃ振り出しに戻ったも当然です。あなたを守れない」
「七海、何の話——」
「……私達の間に、壁があるとは思っていませんでしたか」
「……ないと言えば嘘になる」
拘束は解いてくれないけれど、腕の中に少し空間が出来たので七海の胸にそっと手を置いてみた。見上げると、彼はフーと大きな溜息をついてみせた。あ、これ怒ってる時のやつじゃん。
「……私は元々、高専の生徒でした。あなたと出会うずっと前、こういった事をしていました。そしてあなたと別れて、全部どうでも良くなって戻って来た」
「そう、なの……。私も言い出せなかった、お化けや妖怪が見えるなんて……。じゃあもしかして」
「私達は同じ隠し事をしていた様ですね」
お互いが感じていた距離——それは呪いだ。私は七海にかつて化け物だと信じていたもの達の話をすることが出来なかった。そして、七海も私に過去の話をすることが叶わなかった。それが仇となって私達は別々の道を歩む事になって、また巡り合ってしまった、という事だとしたら。
内容は違えど同じ種類の秘密を抱えた元恋人と転職先で再開する確率。一体どのくらいだろう。希少だと信じたい。この再会を素直に喜びたい。けれど、ぬか喜びはごめんだった。だから私はまた嘘をついてしまう。
「なんかこれってさ、すごい……偶然、だよね。この界隈ではよくある事なのかな」
「これだけの事を偶然で片付けるつもりですか?」
「へ?」
ドスの効いた声がしたと思えば、突然の浮遊感。戸惑う暇もなく、七海はすたすたと歩みを進めた。私を横抱きにして。
「ちょっ、七海!? 何!? 下ろして恥ずかしい!」
「ここまで来たらもう逃しません。あ、あなた職員寮に入るんですよね。さっそくお邪魔しますよ」
言い訳はそこで、と七海の眼がぎらりと光る。え、私、地雷踏んだ……? 逃さないって、それは……。
こんなに彼の体温を近くに感じる事が久しぶりなのと、自分の状況に混乱して色々と上手く飲み込めない。職員寮の方へと向かっているらしい七海は私の言葉を全て振り払ってしまう。
「あっ、ナナミーン! 今日って泊まりの任務じゃ……あれ? どしたのその人」
「七海下ろして! 本当に!」
「虎杖くん」
虎杖くん、と呼ばれた少年——高専の生徒だろうか。ナナミンというワードにツッコむ暇もなく、私を腕の中に収めたまま七海は彼に向き合った。どんな顔すればいいの! とてつもなく恥ずかしい!
「ここからは大人の時間です」
「へ?」
「所謂十八禁という奴です。では」
「お、おー……なんかよくわからんけどわかったわ、頑張って……」
「七海のばか!!!」
目を点にした少年に別れを告げると、七海は再び歩き出してしまう。私の断末魔の様な叫びは虚しく消えていった。
◇
新品のシーツの中でどろどろに甘やかされて、別れた時の事や退職した日の事をくどくど詰め寄られ、七海って案外執念深いんだなあ、と思う余裕が出来たのは、次の日の朝の事だった。
「死んでもいいと思った?」
「……すみません」
この道に進む決め手を微睡の中話していたからか、余計な事まで口走ったらしい。七海がいない世界なら死んでもいいと思ったのは本当の事だ。しかし、七海は眉を吊り上げて表情とら裏腹に艶かしい手付きで生まれたままの私の腰を撫でた。
「ひゃっ!」
「……あなたは死にませんよ。もう誰も、置いていきません」
祈りにも似た呟きは、私の嬌声に掻き消えた。
お揃いのシルバーリングと共に七海が永遠の誓いを立ててくれるのは、それよりもう少し先の話だ。
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