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ここに来るまでのこと、どれだけ覚えているだろう。
たしかそう、動物の鳴き声が私の意識を叩いたのだ。ブルルッと馬の嘶きのような音が、私の重い意識を呼び起こした。瞬間に感じたのは肌寒さと草木の匂いだった。
「・・・?」
呼吸が浅い。苦しい。節々に痛みがあった。目をゆっくりと開いたが、霞がかってよく見えない。濃い緑にさす、いくつもの色。何かが私の周りも取り囲んでいるみたいだ。
「・・・」
ぼんやりとして考えが上手くまとまらない。ちくちく刺すような痛みが、落ちていこうとする私の意識を何度も引き止める。取り囲んでいるものたちがなんなのか知りたくて、まるで鉛のような腕をそれに差し出した。
瞬間にまた聞こえた馬の嘶き。
手に擦り寄るなにかの感触。それを筆頭に取り囲んでいたものたちも私の足や肩へと擦り寄る。
「・・・」
ぽかぽかと暖かくて、生き物だと認識した瞬間にまた私の意識は沈むように落ちた。次に目を覚ましたときにはその生きもの達はいなくなり、代わりに男の人が傍らに座っていた。
誰だろう。
声を出そうとしたが、掠れた音しか転がり出てこない。しかし私の意図を汲み取ってか、霞んだ視界の先にいるその男の人は名前を名乗ってくれた。
ポケモン研究所の、スオウ。
認識にだいぶ時間が掛かった。夢にしては出来すぎているとも思った。スオウさんは何か食べ物を持ってくると言って、部屋を出ていく。ポケモン、ポケモン、ポケモン。知っている。けれど、
「ぽけもん・・・?」
さーっと血の気が引くのが分かる。たしかに今わたしの意識は朧気ではあるけれど、包帯が巻かれた手足の痛みとやけにリアルなベッドのシーツの感触が嫌でもここを現実だと知らしめてくる。
「(なんで、わたし、)」
痛みを我慢して体を起こす。
前後の記憶が曖昧で、上手く思い出せない。ここに来るまで私は何をしていた?
[レオ!!]
思考も纏まらないまま、決定づけるものが現れてしまった。カエル?のような青いすらっとした記憶にない生き物は、部屋に飛び込んで私の顔を見るなりこちらへ飛びかかった。
「ひっ!?」
食べられるかと思ったが、青いそれは私のぎゅっと抱き込むとすりすりと頭へ頬擦りをした。
[レオ?ウォレン?]
ひとしきり擦り寄ると、青いカエルは私の顔を両手でぷにっとはさみ、まるで転んだ孫を心配するおじいちゃんおばあちゃんのように覗き込む。事実、鳴き声?も不安そうな、こちらを案じるような響きがにじんでいた。
「あ、の」
[レオレ〜]
ぎゅうっとまるで大好きなぬいぐるみを抱き込むように、全力の好意をもって絡め取られる。ひんやりとした感触が頬を伝わり、私は距離を取ることも、おそらく言葉も通じないであろう相手に抗議をすることも出来ずにカタカタと震えていた。
「おい、インテレオン」
刹那、男の人の声が割って入り私ははっと顔を上げる。見れば、先程の白衣を着た男の人がなにかを手に持ちながら室内へと足を踏み入れた。
「仮にも怪我人に飛びつくとは何事だ。おい、離れろ」
片眉を下げ、呆れ顔でその生き物を下げさせて木の器を私へと差し出す。受け取ればそれには温められた白いスープのようなものが入っている。
これ、シチュー、かな。
そっと口に運べば間違いなく、私の記憶のものとも相違無い優しい味がした。お母さんの手料理を思い出して、胸が苦しくなる。
「・・・」
食べ物を口にして、ぐるぐると思考が回っていく。頭の隅に、ティロンと軽快な通知音がかすめる。お父さんの誕生日、そうだ、わたしは、駅にいて、おちた、落ちたんだ線路に。それで、私はなぜこんなところに寝かされて、ここにはよく分からない生き物がいて、何より。
「(ポケモンって、)」
私の記憶の中にあるポケモンというのは、テレビの中、作品の中だけの生物で現実には存在しない。はずだ。なのに、目の前のものはポケモンで、シーツや木の器の感触はあまりにも生々しくリアルで、少しぬるめに温められたシチューはこんなにも。
「(おいしい)」
ここは、ここは一体。
☆
幾日か過ぎる頃には、頭に巻かれていた包帯が取れ、だんだんと身体も痛みが薄れてきた。カエルさん、もといインテレオンが有難くも甲斐甲斐しく私の世話を焼いてくれて、それが早い回復を手伝っている。
夢はまだ醒めない。
窓の外は見たこともないどこかの田舎の景色で、見たこともない鳥が飛んでいる。所々、見知った物の似た部分はあるものの、ポケモンという生き物がいる1点において決定的に違う。
夢はまだ醒めない。
「‥‥」
ほぼ1日中ベッドの上で過ごす私の体はすっかり体内時計が狂ってしまっていた。身体は疲れていないし、目を閉じても考え事ばかりで眠気は一向に降りてこない。
「はぁ」
月はもうてっぺんまで上り、窓からは見えなくなっている。少し開いた窓からさらさらと草木の揺れる音が滑り込み、もう1度だけぎゅっと強く目をつぶったがすぐにまた様々な不安が頭の中を駆け巡って目を開けた。
「‥‥」
眠れない。
そっと体を起こして、両足をフローリングの床へつける。少しだけひんやりとした感触に、眉をひそめてしまう。
立ち上がって窓の側へ寄り、外の景色を覗く。木々が密集し真っ暗な森に灯りはない。ぼうっとそれを眺める。
「・・・?」
ふいにぼんやりとした灯りが森の奥からふわふわとこちらへ向かってくるのが見えた。え?と思ったのもつかの間、森の入口に赤くふわりと灯る。
「あ」
その姿には見覚えがあった。ここで目覚める前の朧気な意識のなか、よく見えないぼやけた視界に差した、赤い色。伸ばした私の手に1番に擦り寄った熱。あの子だ。
考えるより先に体が動いていた。
とととと、と軽い足音で階段をおり、すぐに見えたキッチンの勝手口から、1度躊躇って、意を決し裸足のまま明かりへと、森の入口へと駆け出す。その子は、私の記憶のなかの馬という生き物とは少しだけ違った。
体つきは似ているものの、たてがみがゆらゆらと燃えている。炎そのもののようだ。
「あ、あの・・・」
[・・・・・・]
「えっと」
駆けつけたはいいもののなにを言ったら良いか言い淀む私に、その子は静かにすっと踵を返してしまう。行ってしまうのかな。
「‥‥あ」
少し進んで、こちらを振り向く。着いてこいと言っているように見えた。森の闇は深いけれど、この子の鬣がぼんやり照らしているお陰で辛うじて視界は確保できそうだ。
「......」
そっと足を動かして、おそるおそる森を進んでいく。全く見覚えがない深い森。私は、いつの間にかこの森に倒れていたのだという。
フクロウの声が暗闇に溶けて、ガサガサと明らかに風では無い音が草むらから聞こえて、時々私は足を止めたが、その度に馬さんは歩むのを止めて私が追いつくのを待ってくれた。
「どこに、行く、んですか?」
答えない。
「・・・・・・あの、私を、助けてくれた、んですよね」
[・・・・・・]
視線を少しこちらへ向けてくれる。
そして僅かに頭を動かして、肯定を意を示す。
「わたしを、どうして」
私の言葉を遮り、ブルルッと嘶くとおもむろに馬さんは足を止めた。たどり着いたのは大きな木の前で、馬さんは慣れた様子でその根元の小さな洞を探る。
「え、あ!」
顔をあげた馬さんが咥えていたのは、すっかりボロボロになった私のカバンだった。あの日、私が持っていた、駅で手放したはずの。
「こ、これ」
慌てて受け取り、その場にしゃがみ込む。馬さんがそっと頭を垂れて、鬣が手元を照らした。必死に中を探る、ぐしゃぐしゃになった化粧ポーチ、手帳、潰れたおにぎり、誕生日にお母さんからもらった財布。そして、
「スマホ‥‥!」
あの日手にしていたスマートフォン。カバンには入れていないはずだけれど、中に入っている。けれど、画面は割れてしまっていた。電源ボタンを押せば、パッと画面が明るくなる。
「あ‥‥」
画面には、お父さんの誕生日と書かれた通知バナーがひとつだけ。
「あ、あ、」
なんでお父さんの誕生日、忘れちゃってたんだろう。なんで、お母さんの話をちゃんと聞いてあげなかったの。なんで、なんで、
「なんで」
なんでこの夢、まだ醒めないの。
「う、あ、」
もう枯れたと思っていた涙が溢れて、嗚咽に引っかかって、それでも止まらずに転げ落ちていく。震える手で、電話帳を開こうとしたけれど、非情にもその瞬間にバッテリー切れの表示が操作を阻む。
「あは、は、ホームに、電車は、来なかったのに、」
こういうところは、ドラマみたいじゃん。
子供みたいな嗚咽が喉から絞り出て、私はカバンごと抱きしめて蹲った。やだ、やだやだやだ。なんでなんでなんで、お母さん、お母さんお母さんお母さん。お父さん。
ブルルッ
「!」
ふと、熱が背中に降りた。
暖かい、優しい熱。そのまま、私の背中を往復する。慰められているとぼんやり感じ取れた。
「‥‥?」
その子へ手を伸ばして、頬の辺りを撫でてみる。馬の撫で方ってこれで合っているのだろうか。覚束無い私の手を安心させるように、その子はスリスリと手のひらへ擦り寄ってくれる。
近づいているはずの炎はやはり熱くない。むしろまるで手のひらを優しく暖めてくれるように、ぽかぽかとした熱が肌を包んでいく。
「あったかい・・・・・・」
少しだけ安心して、両手でその子の頬を包み込んで、額を合わせた。とく、とく、と血の巡り、心臓の音、この子の息遣いが、額から流れ込んでくる。
「・・・・・・っ」
胸が詰まる。
こんがらがって、息も苦しくなって、涙が目尻から零れていく。
ああ、生きている、この子は。
これは夢じゃない。ここには生命がある。
「あなたは、ギャロップ、だよね」
ブルル、とその子は鼻を鳴らして答えた。
そうだね、知っている。ここの事、私は知っている。何故か分からない、ここに来てしまった。ここは私の生きていた場所じゃない。私は、もう帰れないかもしれない。
「ありがとう、私を助けてくれたんだよね。ごめんね、お礼を言うのが遅くなって」
ギャロップは私の頬の涙ごと、舌でぺろりと拭いとってくれた。思わずくすりと笑みが漏れる。
「‥‥生きていかないといけないよね。お母さんを置いていけないから、帰らないと‥‥私はまだ、生きてるから」
[レォン!]
焦燥を含んだ鳴き声が鋭く背後から突き刺さった。振り向くと、インテレオンと懐中電灯を持ったスオウさんがこちらへ走ってくるのが見える。
「、あ」
それを見るやいなや、ギャロップはパッと踵を返し、夜の森へと吸い込まれていく。ぼんやりとした赤い光が少しずつ黒に溶け込んで、やがて見えなくなった。
「いま、のは・・・・・・この、森の、主、だな」
ぜえ、ぜえ、と息をこれでもかと切らせて、膝に手を付きながらスオウさんがぽつりとそう零した。インテレオンがおろおろとしながら、私の両肩に手を置く。
「主・・・?」
「ああ、この森を統率している。リーダー的な立ち位置にいるようだ」
「・・・」
「全く、インテレオンに叩き起された。あのポケモンと何をしていたんだ」
咎めるような視線を向けられ、すかさずインテレオンも[レオレオ!]と激しく頷く。どうやら心配とご迷惑をかけてしまったようだ。
「ご、ごめんなさい。眠れなくて、そしたら窓の外の森に、灯りが見えたので・・・・・・」
「眠れない?まあ、日中は寝てばかりだしな‥‥だがもっとよく睡眠を取らないと、まだ全快じゃないだろ。インテレオン、ミツハニーの蜂蜜入りのホットモーモーミルクでもいれてやれ」
「・・・・・・あ、あの!」
思い切って口火を切ると、自分の想像よりも大きな声が出てしまった。
「、わ、私が回復するまで、置いてくださるのですよね!」
「あ、ああ、そのつもりだが」
ぱちくりと目を瞬かせて、私の言葉に訝しげにするスオウさんの視線に思わず怯む。だめ、このまま、
「わ、私を、ここの研究所の助手として雇ってくださいませんか!」
「・・・!」
[レオ]
スオウさんとインテレオンが目を見開いて驚く。その表情を見て、思わず怯んでしまいそうになる自分を押さえ込む。私は必死だった。
ここに生きている以上、ここで生きていく以上、働いて食べて行かなくてはいけない。けれど、私にはここで生きていく上での基礎が何も無いのだ。
「お前・・・・・・」
「私、身寄りがありません。ここに来るまでのことも、よく思い出せない。分かるのは自分のことだけで、ここで生きていく上での基本もなにも。私には、私しか、」
「おい」
「差し出せるものはこの身しかないんです!ですから、何にでも使ってください!」
「おい!落ち着け!」
[れ、れ、レオレオ〜!!]
インテレオンまで焦ったような表情で、ぎゅううっと小さな子供でも閉じ込めるようにして私を抱きしめた。ひやりとした感触にまだ慣れず、思わず小さく悲鳴を上げてしまう。
悲鳴を上げながら落ち着いた私をみて、スオウさんは小さくため息をつき、腕を組んだ。
「どうしたんだ、急に」
「・・・・・・わたし、ここで生きてかなきゃならないです」
「・・・?」
「そのために揃えなきゃいけないものがたくさんあります。自分で作っていかなきゃいけないものも、たくさん・・・」
ぱっと顔を上げる。
ここで療養している間、2人の様子をみてわかったことがある。スオウさんはポケモンを研究する研究職についており、インテレオンはそれをサポートしている。
そして研究対象は、この森のポケモンも含まれており、この森のポケモンはなかなか人里には降りてこない。なにより、この間耳にしてしまった会話。
【そろそろこっちに顔見せに来ないか?】
「考えます」
【きみ〜この間も同じことを言っていたぞ?あ、そうだ前に君が興味があると言っていたポケモンの新しい遺跡が発見されたんだ】
「・・・」
【興味あるだろう〜?こっちに見に来なさい。ね?】
「・・・あとで調査資料を送ってください」
【来なさいよ!!】
この博士、めちゃくちゃに出不精だ。
そしてこの通話を切った後に、彼がインテレオンに愚痴をこぼすのを私は聞いてしまった。
「お前が俺の代わりにあちこち行ってくれよ、インテレオン」
そうなのだ、彼がいま必要としているのは人手。私なら、ただの人手ではなく。
「理由は正直、ほんとーに皆目見当もつきませんが!この森の主は私に心を開いてくれているみたいです!現状よりは研究が進むんじゃないかと!!」
「・・・」
「な、なにより!私は貴方に生活を握られていますので、絶対に逆らったりしません!使える手足ができたと思っていただき・・・!」
「俺を奴隷商人のように言うのはやめないか・・・・・・」
ふむ、と博士は顎に手を当てて、考え込む仕草をとる。その様子をインテレオンとはらはらしながら見つめると、インテレオンの私を抱きしめる腕の力が少しだけ強くなった。
「使える手足・・・」
おそらく無意識か博士がぽつりと呟く。やはり食いつくのはそこか。この人は本当に究極の出不精なのだろう。みればインテレオンも呆れている。
「そうです!私が博士の代わりに全国駆け巡ります!!」
「ほう?」
「博士は研究所で研究に没頭できます!インテレオンだってもちろん優秀でしょうけど・・・・・・人間が必要な場面もあるのでは!?」
「ふむ、たしかに」
「私の衣食住を保証してくださるだけで構いません・・・!どうか・・・!」
それはそれはもう必死だった。
目立たなく地味、よく言われておっとりほわほわ系だなんてよく元の世界で言われたものだけれど、そんなの保っていられない。私の命が掛かっているのだ。
「おい、とりあえず立て」
どこか呆れた様子でスオウ博士が私を手首を掴み、無理やりに立ち上がらせる。私の体をしっかり抱きしめているインテレオンのお陰で楽に立ち上がることが出来た。
「・・・」
やはり、駄目だろうか。
こんな住所不定無職どこからどう見ても世間知らずな、怪しすぎる女じゃ、こんな立派な研究所の助手だなんて。
「・・・まずは体を直すところからだ」
「へ・・・・・・」
「そのふらふらガタガタの体でフィールドワークをしようなどと素人以下の考えだ。時には険しい山道を抜けていくような場面もある。とにかく今は体を休めて万全な状態に。話はそれからだ」
「あ・・・・・・」
立ち上がりかけていた足から力が抜け、がくんと体制を崩した。インテレオンが慌てた様子で私を抱え直す。スオウ博士の表情にも一瞬焦燥が走り、やがて再度呆れたようにため息をついた。
「お前を雇う話はそれからすればいい」
「う、あ、ありがとうございます・・・」
気がつけばぼろぼろと頬に涙が伝っていた。目に見えて動揺したインテレオンがわたわたと大慌てする。またぎゅうっと私を抱き締め、[レオレオ!!]と博士を非難するような鳴き声を上げた。泣かせるなと言いたいみたいだ。
「やかましいぞインテレオン。そいつをベッドまで運んでやれ」
「え!?い、だ、大丈夫だよ!?インテレオン!?」
[レオ!]
さっと横抱きにされて、ときめきよりも恐怖が先行する。カバンを落とさないように必死に抱え直した。
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たしかそう、動物の鳴き声が私の意識を叩いたのだ。ブルルッと馬の嘶きのような音が、私の重い意識を呼び起こした。瞬間に感じたのは肌寒さと草木の匂いだった。
「・・・?」
呼吸が浅い。苦しい。節々に痛みがあった。目をゆっくりと開いたが、霞がかってよく見えない。濃い緑にさす、いくつもの色。何かが私の周りも取り囲んでいるみたいだ。
「・・・」
ぼんやりとして考えが上手くまとまらない。ちくちく刺すような痛みが、落ちていこうとする私の意識を何度も引き止める。取り囲んでいるものたちがなんなのか知りたくて、まるで鉛のような腕をそれに差し出した。
瞬間にまた聞こえた馬の嘶き。
手に擦り寄るなにかの感触。それを筆頭に取り囲んでいたものたちも私の足や肩へと擦り寄る。
「・・・」
ぽかぽかと暖かくて、生き物だと認識した瞬間にまた私の意識は沈むように落ちた。次に目を覚ましたときにはその生きもの達はいなくなり、代わりに男の人が傍らに座っていた。
誰だろう。
声を出そうとしたが、掠れた音しか転がり出てこない。しかし私の意図を汲み取ってか、霞んだ視界の先にいるその男の人は名前を名乗ってくれた。
ポケモン研究所の、スオウ。
認識にだいぶ時間が掛かった。夢にしては出来すぎているとも思った。スオウさんは何か食べ物を持ってくると言って、部屋を出ていく。ポケモン、ポケモン、ポケモン。知っている。けれど、
「ぽけもん・・・?」
さーっと血の気が引くのが分かる。たしかに今わたしの意識は朧気ではあるけれど、包帯が巻かれた手足の痛みとやけにリアルなベッドのシーツの感触が嫌でもここを現実だと知らしめてくる。
「(なんで、わたし、)」
痛みを我慢して体を起こす。
前後の記憶が曖昧で、上手く思い出せない。ここに来るまで私は何をしていた?
[レオ!!]
思考も纏まらないまま、決定づけるものが現れてしまった。カエル?のような青いすらっとした記憶にない生き物は、部屋に飛び込んで私の顔を見るなりこちらへ飛びかかった。
「ひっ!?」
食べられるかと思ったが、青いそれは私のぎゅっと抱き込むとすりすりと頭へ頬擦りをした。
[レオ?ウォレン?]
ひとしきり擦り寄ると、青いカエルは私の顔を両手でぷにっとはさみ、まるで転んだ孫を心配するおじいちゃんおばあちゃんのように覗き込む。事実、鳴き声?も不安そうな、こちらを案じるような響きがにじんでいた。
「あ、の」
[レオレ〜]
ぎゅうっとまるで大好きなぬいぐるみを抱き込むように、全力の好意をもって絡め取られる。ひんやりとした感触が頬を伝わり、私は距離を取ることも、おそらく言葉も通じないであろう相手に抗議をすることも出来ずにカタカタと震えていた。
「おい、インテレオン」
刹那、男の人の声が割って入り私ははっと顔を上げる。見れば、先程の白衣を着た男の人がなにかを手に持ちながら室内へと足を踏み入れた。
「仮にも怪我人に飛びつくとは何事だ。おい、離れろ」
片眉を下げ、呆れ顔でその生き物を下げさせて木の器を私へと差し出す。受け取ればそれには温められた白いスープのようなものが入っている。
これ、シチュー、かな。
そっと口に運べば間違いなく、私の記憶のものとも相違無い優しい味がした。お母さんの手料理を思い出して、胸が苦しくなる。
「・・・」
食べ物を口にして、ぐるぐると思考が回っていく。頭の隅に、ティロンと軽快な通知音がかすめる。お父さんの誕生日、そうだ、わたしは、駅にいて、おちた、落ちたんだ線路に。それで、私はなぜこんなところに寝かされて、ここにはよく分からない生き物がいて、何より。
「(ポケモンって、)」
私の記憶の中にあるポケモンというのは、テレビの中、作品の中だけの生物で現実には存在しない。はずだ。なのに、目の前のものはポケモンで、シーツや木の器の感触はあまりにも生々しくリアルで、少しぬるめに温められたシチューはこんなにも。
「(おいしい)」
ここは、ここは一体。
☆
幾日か過ぎる頃には、頭に巻かれていた包帯が取れ、だんだんと身体も痛みが薄れてきた。カエルさん、もといインテレオンが有難くも甲斐甲斐しく私の世話を焼いてくれて、それが早い回復を手伝っている。
夢はまだ醒めない。
窓の外は見たこともないどこかの田舎の景色で、見たこともない鳥が飛んでいる。所々、見知った物の似た部分はあるものの、ポケモンという生き物がいる1点において決定的に違う。
夢はまだ醒めない。
「‥‥」
ほぼ1日中ベッドの上で過ごす私の体はすっかり体内時計が狂ってしまっていた。身体は疲れていないし、目を閉じても考え事ばかりで眠気は一向に降りてこない。
「はぁ」
月はもうてっぺんまで上り、窓からは見えなくなっている。少し開いた窓からさらさらと草木の揺れる音が滑り込み、もう1度だけぎゅっと強く目をつぶったがすぐにまた様々な不安が頭の中を駆け巡って目を開けた。
「‥‥」
眠れない。
そっと体を起こして、両足をフローリングの床へつける。少しだけひんやりとした感触に、眉をひそめてしまう。
立ち上がって窓の側へ寄り、外の景色を覗く。木々が密集し真っ暗な森に灯りはない。ぼうっとそれを眺める。
「・・・?」
ふいにぼんやりとした灯りが森の奥からふわふわとこちらへ向かってくるのが見えた。え?と思ったのもつかの間、森の入口に赤くふわりと灯る。
「あ」
その姿には見覚えがあった。ここで目覚める前の朧気な意識のなか、よく見えないぼやけた視界に差した、赤い色。伸ばした私の手に1番に擦り寄った熱。あの子だ。
考えるより先に体が動いていた。
とととと、と軽い足音で階段をおり、すぐに見えたキッチンの勝手口から、1度躊躇って、意を決し裸足のまま明かりへと、森の入口へと駆け出す。その子は、私の記憶のなかの馬という生き物とは少しだけ違った。
体つきは似ているものの、たてがみがゆらゆらと燃えている。炎そのもののようだ。
「あ、あの・・・」
[・・・・・・]
「えっと」
駆けつけたはいいもののなにを言ったら良いか言い淀む私に、その子は静かにすっと踵を返してしまう。行ってしまうのかな。
「‥‥あ」
少し進んで、こちらを振り向く。着いてこいと言っているように見えた。森の闇は深いけれど、この子の鬣がぼんやり照らしているお陰で辛うじて視界は確保できそうだ。
「......」
そっと足を動かして、おそるおそる森を進んでいく。全く見覚えがない深い森。私は、いつの間にかこの森に倒れていたのだという。
フクロウの声が暗闇に溶けて、ガサガサと明らかに風では無い音が草むらから聞こえて、時々私は足を止めたが、その度に馬さんは歩むのを止めて私が追いつくのを待ってくれた。
「どこに、行く、んですか?」
答えない。
「・・・・・・あの、私を、助けてくれた、んですよね」
[・・・・・・]
視線を少しこちらへ向けてくれる。
そして僅かに頭を動かして、肯定を意を示す。
「わたしを、どうして」
私の言葉を遮り、ブルルッと嘶くとおもむろに馬さんは足を止めた。たどり着いたのは大きな木の前で、馬さんは慣れた様子でその根元の小さな洞を探る。
「え、あ!」
顔をあげた馬さんが咥えていたのは、すっかりボロボロになった私のカバンだった。あの日、私が持っていた、駅で手放したはずの。
「こ、これ」
慌てて受け取り、その場にしゃがみ込む。馬さんがそっと頭を垂れて、鬣が手元を照らした。必死に中を探る、ぐしゃぐしゃになった化粧ポーチ、手帳、潰れたおにぎり、誕生日にお母さんからもらった財布。そして、
「スマホ‥‥!」
あの日手にしていたスマートフォン。カバンには入れていないはずだけれど、中に入っている。けれど、画面は割れてしまっていた。電源ボタンを押せば、パッと画面が明るくなる。
「あ‥‥」
画面には、お父さんの誕生日と書かれた通知バナーがひとつだけ。
「あ、あ、」
なんでお父さんの誕生日、忘れちゃってたんだろう。なんで、お母さんの話をちゃんと聞いてあげなかったの。なんで、なんで、
「なんで」
なんでこの夢、まだ醒めないの。
「う、あ、」
もう枯れたと思っていた涙が溢れて、嗚咽に引っかかって、それでも止まらずに転げ落ちていく。震える手で、電話帳を開こうとしたけれど、非情にもその瞬間にバッテリー切れの表示が操作を阻む。
「あは、は、ホームに、電車は、来なかったのに、」
こういうところは、ドラマみたいじゃん。
子供みたいな嗚咽が喉から絞り出て、私はカバンごと抱きしめて蹲った。やだ、やだやだやだ。なんでなんでなんで、お母さん、お母さんお母さんお母さん。お父さん。
ブルルッ
「!」
ふと、熱が背中に降りた。
暖かい、優しい熱。そのまま、私の背中を往復する。慰められているとぼんやり感じ取れた。
「‥‥?」
その子へ手を伸ばして、頬の辺りを撫でてみる。馬の撫で方ってこれで合っているのだろうか。覚束無い私の手を安心させるように、その子はスリスリと手のひらへ擦り寄ってくれる。
近づいているはずの炎はやはり熱くない。むしろまるで手のひらを優しく暖めてくれるように、ぽかぽかとした熱が肌を包んでいく。
「あったかい・・・・・・」
少しだけ安心して、両手でその子の頬を包み込んで、額を合わせた。とく、とく、と血の巡り、心臓の音、この子の息遣いが、額から流れ込んでくる。
「・・・・・・っ」
胸が詰まる。
こんがらがって、息も苦しくなって、涙が目尻から零れていく。
ああ、生きている、この子は。
これは夢じゃない。ここには生命がある。
「あなたは、ギャロップ、だよね」
ブルル、とその子は鼻を鳴らして答えた。
そうだね、知っている。ここの事、私は知っている。何故か分からない、ここに来てしまった。ここは私の生きていた場所じゃない。私は、もう帰れないかもしれない。
「ありがとう、私を助けてくれたんだよね。ごめんね、お礼を言うのが遅くなって」
ギャロップは私の頬の涙ごと、舌でぺろりと拭いとってくれた。思わずくすりと笑みが漏れる。
「‥‥生きていかないといけないよね。お母さんを置いていけないから、帰らないと‥‥私はまだ、生きてるから」
[レォン!]
焦燥を含んだ鳴き声が鋭く背後から突き刺さった。振り向くと、インテレオンと懐中電灯を持ったスオウさんがこちらへ走ってくるのが見える。
「、あ」
それを見るやいなや、ギャロップはパッと踵を返し、夜の森へと吸い込まれていく。ぼんやりとした赤い光が少しずつ黒に溶け込んで、やがて見えなくなった。
「いま、のは・・・・・・この、森の、主、だな」
ぜえ、ぜえ、と息をこれでもかと切らせて、膝に手を付きながらスオウさんがぽつりとそう零した。インテレオンがおろおろとしながら、私の両肩に手を置く。
「主・・・?」
「ああ、この森を統率している。リーダー的な立ち位置にいるようだ」
「・・・」
「全く、インテレオンに叩き起された。あのポケモンと何をしていたんだ」
咎めるような視線を向けられ、すかさずインテレオンも[レオレオ!]と激しく頷く。どうやら心配とご迷惑をかけてしまったようだ。
「ご、ごめんなさい。眠れなくて、そしたら窓の外の森に、灯りが見えたので・・・・・・」
「眠れない?まあ、日中は寝てばかりだしな‥‥だがもっとよく睡眠を取らないと、まだ全快じゃないだろ。インテレオン、ミツハニーの蜂蜜入りのホットモーモーミルクでもいれてやれ」
「・・・・・・あ、あの!」
思い切って口火を切ると、自分の想像よりも大きな声が出てしまった。
「、わ、私が回復するまで、置いてくださるのですよね!」
「あ、ああ、そのつもりだが」
ぱちくりと目を瞬かせて、私の言葉に訝しげにするスオウさんの視線に思わず怯む。だめ、このまま、
「わ、私を、ここの研究所の助手として雇ってくださいませんか!」
「・・・!」
[レオ]
スオウさんとインテレオンが目を見開いて驚く。その表情を見て、思わず怯んでしまいそうになる自分を押さえ込む。私は必死だった。
ここに生きている以上、ここで生きていく以上、働いて食べて行かなくてはいけない。けれど、私にはここで生きていく上での基礎が何も無いのだ。
「お前・・・・・・」
「私、身寄りがありません。ここに来るまでのことも、よく思い出せない。分かるのは自分のことだけで、ここで生きていく上での基本もなにも。私には、私しか、」
「おい」
「差し出せるものはこの身しかないんです!ですから、何にでも使ってください!」
「おい!落ち着け!」
[れ、れ、レオレオ〜!!]
インテレオンまで焦ったような表情で、ぎゅううっと小さな子供でも閉じ込めるようにして私を抱きしめた。ひやりとした感触にまだ慣れず、思わず小さく悲鳴を上げてしまう。
悲鳴を上げながら落ち着いた私をみて、スオウさんは小さくため息をつき、腕を組んだ。
「どうしたんだ、急に」
「・・・・・・わたし、ここで生きてかなきゃならないです」
「・・・?」
「そのために揃えなきゃいけないものがたくさんあります。自分で作っていかなきゃいけないものも、たくさん・・・」
ぱっと顔を上げる。
ここで療養している間、2人の様子をみてわかったことがある。スオウさんはポケモンを研究する研究職についており、インテレオンはそれをサポートしている。
そして研究対象は、この森のポケモンも含まれており、この森のポケモンはなかなか人里には降りてこない。なにより、この間耳にしてしまった会話。
【そろそろこっちに顔見せに来ないか?】
「考えます」
【きみ〜この間も同じことを言っていたぞ?あ、そうだ前に君が興味があると言っていたポケモンの新しい遺跡が発見されたんだ】
「・・・」
【興味あるだろう〜?こっちに見に来なさい。ね?】
「・・・あとで調査資料を送ってください」
【来なさいよ!!】
この博士、めちゃくちゃに出不精だ。
そしてこの通話を切った後に、彼がインテレオンに愚痴をこぼすのを私は聞いてしまった。
「お前が俺の代わりにあちこち行ってくれよ、インテレオン」
そうなのだ、彼がいま必要としているのは人手。私なら、ただの人手ではなく。
「理由は正直、ほんとーに皆目見当もつきませんが!この森の主は私に心を開いてくれているみたいです!現状よりは研究が進むんじゃないかと!!」
「・・・」
「な、なにより!私は貴方に生活を握られていますので、絶対に逆らったりしません!使える手足ができたと思っていただき・・・!」
「俺を奴隷商人のように言うのはやめないか・・・・・・」
ふむ、と博士は顎に手を当てて、考え込む仕草をとる。その様子をインテレオンとはらはらしながら見つめると、インテレオンの私を抱きしめる腕の力が少しだけ強くなった。
「使える手足・・・」
おそらく無意識か博士がぽつりと呟く。やはり食いつくのはそこか。この人は本当に究極の出不精なのだろう。みればインテレオンも呆れている。
「そうです!私が博士の代わりに全国駆け巡ります!!」
「ほう?」
「博士は研究所で研究に没頭できます!インテレオンだってもちろん優秀でしょうけど・・・・・・人間が必要な場面もあるのでは!?」
「ふむ、たしかに」
「私の衣食住を保証してくださるだけで構いません・・・!どうか・・・!」
それはそれはもう必死だった。
目立たなく地味、よく言われておっとりほわほわ系だなんてよく元の世界で言われたものだけれど、そんなの保っていられない。私の命が掛かっているのだ。
「おい、とりあえず立て」
どこか呆れた様子でスオウ博士が私を手首を掴み、無理やりに立ち上がらせる。私の体をしっかり抱きしめているインテレオンのお陰で楽に立ち上がることが出来た。
「・・・」
やはり、駄目だろうか。
こんな住所不定無職どこからどう見ても世間知らずな、怪しすぎる女じゃ、こんな立派な研究所の助手だなんて。
「・・・まずは体を直すところからだ」
「へ・・・・・・」
「そのふらふらガタガタの体でフィールドワークをしようなどと素人以下の考えだ。時には険しい山道を抜けていくような場面もある。とにかく今は体を休めて万全な状態に。話はそれからだ」
「あ・・・・・・」
立ち上がりかけていた足から力が抜け、がくんと体制を崩した。インテレオンが慌てた様子で私を抱え直す。スオウ博士の表情にも一瞬焦燥が走り、やがて再度呆れたようにため息をついた。
「お前を雇う話はそれからすればいい」
「う、あ、ありがとうございます・・・」
気がつけばぼろぼろと頬に涙が伝っていた。目に見えて動揺したインテレオンがわたわたと大慌てする。またぎゅうっと私を抱き締め、[レオレオ!!]と博士を非難するような鳴き声を上げた。泣かせるなと言いたいみたいだ。
「やかましいぞインテレオン。そいつをベッドまで運んでやれ」
「え!?い、だ、大丈夫だよ!?インテレオン!?」
[レオ!]
さっと横抱きにされて、ときめきよりも恐怖が先行する。カバンを落とさないように必死に抱え直した。
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