変容

『ルベド』

 好きという言葉がこんなふうに響くのを、清麿は初めて聞いた気がした。想いが揺れるとは、こういうことかと初めて知って、茫然とした。



 それは魔界と人間界をつなぐ扉の縁の錬成が終わる日のことだった。

 時を止めたように地下の工房は変わらない。堅牢な石造りに阻まれて、冬の日差しも冷たい雨風も届かない。温もりには乏しいが気温も湿度も一定で穏やかなものだ。ただその中で、ガッシュの魔力を注がれる縁だけが、少しずつ確実に変化をしていた。
 焦がされて砕け、形をなくして、光り輝く精気へと変じた縁は、錬金術の最後の工程であるルベドの結合で赤い結晶となっていた。空を照らす夕陽のような、水に溶かした血のような澄み切った赤。
 赤は清麿とガッシュにとって懐かしく思い入れのある色だ。記憶を失くしたガッシュの唯一の手がかり、退屈に埋もれた清麿の孤独を破壊して、ふたりを出会わせた本の色。清麿の心の力がガッシュの術に変わるとき、それはいつも赤く光った。
 今、その赤く透明な光で照らされるのは、凛々しい青年の顔をしたガッシュだ。
「これで、縁は完成だの」
 ガッシュは、肩から荷を降ろしたように息を吐く。そして錬金炉から外された赤い粒子で満たされたフラスコに手を掛けて清麿を見た。
「話したいことがあるのだが、よいか」



「私は、清麿が、好きだ」
 一言ずつを区切るようにガッシュは清麿に告白した。
「とても、とても、大好きだ」
 上気した顔が、切羽詰まった眼差しが、そこに込められた意味を間違いなく伝えてくる。
「私の、清麿への気持ちは、友達に思う好きとは違う。そういう好きではなくて……いや、友達だとはずっと思っておる。だが、それだけではなくて、清麿のことがとてもとても、愛しいと思うのだ」
 ガッシュは何度も言い直した。辿々しく、やがて溢れるように紡がれる。

「会えなかった時も、ずっと清麿の姿を思い描いていた。そうすると、心に力が湧いてくるのだ。私がやさしい王様であろうとする時、それを支えてくれたのは清麿だったのだ。
 だから赤い本が現れた時、願いが叶ったと思ったのだ。人間界への扉のこと、親なしの子のこと、清麿を頼りにしたいことはたくさんある。けれど、その、私は、ずっと清麿のことを心の支えに『王佐』と呼んでいた。
 会いたかったのだ。そばにいてほしかったのだ。会えたら、その顔を見つめるだけで、きっと満ち足りる。そして、ただ友として穏やかに語り合い、笑い合い、王として成すことに手を携えてくれたら、と。その願いは叶ったのだ。
 だが、私の望みは、それだけではなかった」
 一息ついて吐露されるのは、より深いところにある想い。

「会ってみて、一緒にいるようになって、もっともっと清麿のことを、好きになった。
 遠くにいる清麿と目が合うのが、嬉しい。話をする時の近さが嬉しい。手を繋ぐだけで、心が舞い上がって、頭や髪を撫でてもらう時は、蕩けそうなくらいになる。もう、友達というだけでは、いられないのだ」
「お前の、その俺への気持ちってのは、つまり」
「うぬ。恋愛の、感情なのだ」
「……そっか」

 その一言は、清麿がガッシュの思いを理解したという返事だった。そうなれば、清麿から何かしらの答えがあるものと、ガッシュは待った。
 そしてやはり、しばらくの沈黙の後に清麿はゆっくりと口を開く。
「俺さ、お前に思う気持ちが、変わらないんだ」
 悩んだ末だろう、清麿は顔を伏せたままガッシュに告げる。
「お前は成長して、俺への気持ちを変えたんだよな。ただの憧れや友情だったものから、恋愛感情に。けど、俺の気持ちは変わらないんだ。ずっと、お前が子供だった頃から。だから、俺の思いは恋なんかじゃない。お前に同じ想いは返せないんだ。ごめん」

「恋では、ない」
 ぽかんと、ガッシュは繰り返した。それから、じわじわと顔から血の気を引かせていく。信じていた者に突き落とされたような。そんな顔をさせたくはなかったのに、と清麿は唇を噛む。
「まさか、そうとは思わなんだ」
 口元を押さえてガッシュが自嘲する。
「何という、私は、愚か者だろう。少なからず、お主には好かれておると……自惚れていた」
 零す言葉が突き刺さる。
「そうか、恋では、ないのか」
 呟く声はひどく寂しく胸に響いた。
「うん、ごめん。嫌いじゃないけどな」
 言い訳がましく清麿が言う。
「好きではないのだな」
 未練がましくガッシュが言う。
「……お前のことは好きなんだ。友達として。そのお前に好きと言われたら、やっぱり嬉しかった、けど」
「そうか。嬉しくは、思ってくれるか」
「ああ。同じ想いが返せたら、どんなにいいかと思う」

 王佐というそれだけが、清麿が魔界にいる理由だった。ガッシュに望まれ、自分でもそうありたいと応じたことだ。王佐という役目がどんなものでも構わなかった。それだけでガッシュの傍にいられるのだから。自分勝手な望みなのだと、清麿は思う。
 ガッシュへの思いは、自分でもよくわからない。ただの友達だという気もするし、それ以上である気もする。
 ガッシュが自分に向ける感情に嫌悪感はない。同じ男だ、好きだと思う相手に欲望が向くのも理解している。応えてやりたいと思う気持ちもある。
 相手はガッシュだ。誰より大事にしたい相手だ。自分のなかの、よくわからない感情の内で、一番確かなのはそれだ。
 ガッシュのことが誰より大事だ。どうかすると自分自身よりも、大事にしたいと思っている。傷つけたくない、笑っていてほしい、そのためになら自分の出来ることは何でもしてやりたい。
 その思いだけが、ずっと変わらない。

「清麿を、想いを諦めるのは、辛いのう」
 ガッシュの嘆きはもっともだ。
 好きではないと言われても、俄かには信じがたい。清麿に想いがないとは思えない。それは恋に変わりはしないのだろうか。
「友達としては、好きでいてくれるかの」
「もちろんだ。お前のことは、とても好きだよ」
 縋る気持ちのまま、手を手繰り寄せてしまったガッシュに、ほんの少しの抵抗もしない清麿が答える。この優しさが、勘違いの元だと分かっていても離せそうにないと、掴む指先に力を込めてガッシュは苦く問い掛ける。
「私が、清麿に邪な想いを抱いていると、知ってもか」
「だからって、それでお前のことを嫌いになったりはしない。これからも、ずっと。何なら、誓ってもいい」
「そんなこと言って、私が襲ったらどうするつもりなのだ」
 あまりに無防備な清麿を諌めるつもりで、ガッシュは眉をひそめた。ふと視線を漂わせた清麿は、ややあってため息交じりに答える。
「それでも嫌いになれないだろうな。もし今、お前がそんな気持ちになったとしても」
「清麿は平気なのか、私にそんな無体をされても」
 それは罪悪感が言わせているのかとガッシュは悲しくなる。
「平気じゃないだろ、たぶん。けど嫌うのは、ない。お前に想われたのは嬉しいんだ」
「清麿それは本気で言っておるのか」
「ああ。友達としてでも、心から俺が好きだと思うのはお前だけなんだ。だからお前より誰かを好きになるなんて有り得ない。俺はお前に、何をされても、どんなことがあっても、お前の傍にいたいと思う。これから先も、ずっと一緒にいられたらいいと思ってる」
 そこまで言われてガッシュは唖然とする。

「清麿、それは普通は、友達に言うことではない、と思うが」
 呟く声はまるで途方にくれた迷子のようだ。
「私のことが嫌いではなく、想いを嬉しいと思ってくれて、好きだとも。それで、それがただの友達?」
「ああ」
 清麿にも、随分なことを言っているという自覚はある。それでも、この感情は絶対に恋なんかではない。清麿とガッシュの想いは違う。清麿にはガッシュのような情熱はない。求めるような気持ちがない。だから恋とは言えないものだ。

「清麿、確かめさせてくれ」
 話の途中から掴んでいた手をそのまま、ガッシュは立ち上がり清麿を腕で引き寄せた。
「清麿の思いは、恋ではないのだな」
「ああ」
 想いを返せない後ろめたさを、敢えて切り捨てて清麿は答える。大丈夫だ。心臓がやたらと落ち着かないのは緊張のせいだ。ガッシュの顔が近いせいだ。
「だが友としては、想ってくれていると」
「そうだ」
 恋でないのは確かなんだから友達だ。これまで変わらなかったものが、これから変わるはずもない。これ以上は好きになれない。なりたくもない。
「そして王佐として、傍にいたいと望んでくれていると」
 思いがけなく柔らかく包みこむようなガッシュの声は、詰られるよりも辛く清麿は思わず目を伏せる。想いは返さず顧みず、それでも傍にいたいだなんて、酷い願いとわかっている。
「もし、これから先、お前が望んでくれるんだったら。俺は、お前の王佐でいたい」
 答える声はか細く微かに揺れていた。
「わかった」
 あっさりとした短い答えに目を上げると、ガッシュの瞳が笑っていた。

「恋人と呼ぶのは諦めるのだ」
「……いいのか」
「うぬ。清麿の気持ちはわかったのだ。だから、私が王佐として清麿を求めるのを許してほしい」
 窺いつつほっとする清麿に、微笑むガッシュが畳み掛ける。
「私がやさしい王様であり続けるには、どうしても清麿が必要だ。だから清麿は、私の最も近くに誰よりも親しく、王佐としてこの傍らにいて欲しいのだ。私が王として成すことに、共に手を携えて欲しいのだ。そして、もし私がやさしい王様でなくなったなら、きっと諫めて欲しいのだ。そういう王佐として、私は清麿を求めたい。受けてくれるか?」
「ああ。わかった。受ける」
 王佐とは何か、言葉にされることで安定するものがある気がした。自然と清麿も笑顔となりガッシュの求めを受け入れる。

「では清麿には、王佐として一つ約束をしてほしい」
「約束?」
 そう言われて清麿はいくらか身構えた。
「私のすることを少しでも嫌だと感じたら、そこで直ちに拒んでほしい。これは絶対、必ずだ」
 時々優しすぎることがあるからの、というぼやきに清麿も笑う。
「ああ、なるほど。そうだな」
 気持ちをほぐした清麿に、真顔となったガッシュが真正面から瞳を注ぐ。

「私は清麿が好きだ」
 清麿の顏を真っ直ぐに見つめてガッシュが言った。
「私は清麿がとても好きだ」
 腕に囲って引き寄せて、頬擦りをするような近さでそう言った。
「私は清麿がとてもとても大好きだ」
 心惹かれる琥珀の瞳が近く迫って気を取られた瞬間に、ふと唇が重ねられていた。

 気づけば目蓋が閉じていた。反射的に。拒むなら目を開け、突き飛ばすか何かしなくてはいけない。でも動けない。温かくて優しい柔らかな唇の感触に頭がふわふわとして定まらない。ただ合わせただけの唇が、そっと触れるだけの口付けが。ひどく愛おしくてたまらない。
 突き放せないのは初めてだからだと思おうとして無理だと気付く。言い訳だ。今までもこれからもガッシュのことは拒めない。それが答えだ。

 解放された目の前には、覚悟を漲らせたガッシュがいた。
「清麿、これも私の王佐への想いだ。さっき、受けてくれたものだ」
「でも、俺は」
「清麿は変わらなくてよい。想いを返せとは言わぬ。私が清麿を好きなだけだ。我儘だ」
「けど、そしたらお前が」
「大丈夫だ。私はこれしきのことで傷付く玉ではない」
「だけど、俺はいつかお前を置いていくんだ。なのに」
「わかっておる。私が清麿と一緒にいられるのは一時だ。だが私はもう清麿を離したくない。時が短いのなら尚更だ」
 先の孤独も承知の上でそれでもと訴えてくる瞳を見れば、傷つけたくないと逃げるのはただの卑怯としか思えない。
 拒めないなら受け入れればいい。それでガッシュは笑顔になる。頷けないのはただ清麿の我儘だ。

「私が、清麿を諦めるための、方法はある」
 ガッシュが重く口を開いた。
「初めから、無かったことにするのなら。私は何も告げなかったことにして、清麿は扉が開いたら人間界へ帰る。そして二度と会わない。そのために、」
 穏やかに、寂しさを隠してガッシュは言う。想いが叶わないなら、どうすれば清麿を解放できるか。考えて、方法は一つしか思い浮かばなかった。
「……記憶の消去」
「そうだ。清麿は、この魔界に来たことだけでなく、そもそも魔物の存在や私との出会い、その一切の記憶を全て失う。私が赤い本の力で消す。その方法でなら、私も清麿のことを本当に諦める」
 どうする、と訊かれて清麿は首を横に振る。
「駄目だ。いくらお前でもそれだけは絶対に許さない」
 思いをこらえ、それでも気丈に目を尖らせる。
「俺の財産を奪わないでくれ」
 睨みつけ、どうかすると泣きそうな顔で。

「約束をしてくれ。俺が死んだら、必ず誰かと幸せになるって」
 ほんの一時とガッシュが言っても、それは清麿の一生だ。元から、生涯をガッシュと共にと願って魔界に来た清麿だ。清麿の生涯はガッシュのものだ。
 ガッシュは優しい。十数年後、たとえ清麿が恋愛の対象ではなくなっても、王佐として傍にいる限り、たぶん誰とも結ばれない。これは清麿の悪あがきだ。
「俺は、お前と恋愛するなんて、ゴメンだから。もし転生なんてものがあったとしても、絶対にしない。こんなことで悩むのは一度きりだ。お前とまた巡り合って、またこんな思いをするなんて、それこそ死んでも嫌なんだ。だから、諦めて、別の誰かと幸せになれ」
「わかったのだ。約束する。私はきっと、いつか誰かと幸せになる。清麿が死んだら、その後で」
「絶対だからな」
「うぬ。……ああ、でも今も幸せだからの」
「今だけな」
「それ以上の幸せなど、求めようもないのだ」
 こうして王佐が私の腕の中にいてくれるからのと、ガッシュが清麿を抱えたままで椅子に座る。脚の間に挟まれて、背中から腕を回されて、あからさまな密着に清麿は顔を赤くする。

「ところで。私はてっきり、清麿は初めてではないと思ったのだが」
「は?」
「口付けのことだ。前に送別会で誰やら女性にされておったろう平然と。あの時、私がどれだけ衝撃だったか」
「あれは悪ふざけだろ酔っぱらいの。その誰かさんも俺が未経験だって知ってて、いつも頬っぺたとかで」
「では私が本当に初めてとな」
「そうだよ悪いか! そういうお前は」
 振り向こうとする清麿の肩に、ガッシュの額が載せられた。
「私も家族でない者とは初めてだ。……だから無理はせぬよ。今日はこのまま」
 ガッシュのその満ち足りた声を聞き、清麿も身体の力を緩めていく。
「……清麿は私の王佐なのだ」
「ああ、これからもよろしくな」
 背中に感じる温もりに、増した重みの愛おしさに、言葉で伝えて伝わりきらない想う気持ちがあるのだと、ふたりはそれぞれに吐息を漏らした。

 王佐とは、初めから名前だけの存在だ。王を補佐する役職かもしれないし、特別な役割や立場を示すものかもしれない。誰がどう名付け、誰を指すのか、その定義など何処にもない。
 常に王の傍らにあって王佐と呼ばれるその存在が、はたしてただの友人か、または家族に等しい者か、あるいは恋人か、はたまた伴侶か。それは当事者の意識のみならず、周囲の認識によって変わるのだ。

 ガッシュは、心の支えを王佐と呼ぶ。友達で、本の読み手で、王佐だと。これから先もおそらく清麿は認めないだろう意味をも込めて。
 それに清麿が気づいたかどうかはわからない。
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