巨体の人外に助けられて世話される話
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新たに仲間になった二人組は、騎士団のゆるい監視下に置かれていた。
守護者からの連絡もまだない中、あなたは彼らを見守り生活している。
「今日も洗濯日和だねえ。紫の空がきらきらしてる~」
すっかり魔界の気候が気に入り、バルコニーで洗濯物を干していると。
石造りの床に、男物の黒い下着が落ちてるのを見つけた。
「なにこれ? ……ルドガーのじゃないよね」
首をかしげて訝しむと、もしかして隣人の騎士ジュリスのが飛んできたのかと思った。
「きゃあっ」
あなたは顔を赤らめ少し想像してしまったが、この黒のタイトなパンツをどこかで見たことがある気がした。
すると、バルコニーの下のほうから声が響いた。
「おーい、名無し! それ俺んだわ、わりいわりい、こっちに持ってきてくれよ!」
「え……もしかして、ナザルさん?」
やっぱり。
唖然とするものの、なぜ一階に住む彼の洗濯物が四階のここに来たのか分からない。
怪しすぎると思い、あなたはひょっこり顔を出した。
「じゃあここから落としますね~いきますよ~」
「いや待て! それ気に入ってるやつなんだよ、丁寧に扱えって。ほら来いよ、待ってるからな!」
今日も派手な柄シャツの赤髪の男が、ニッと快活な笑顔で手を振った。
あなたは白けた思いで、しかたなく寮の階下へ向かった。
この建物は上層に行くほど位の高い騎士達が住んでいるが、昼間は任務や訓練で不在だ。
セロとナザルは共同の大きめの部屋を分け与えられていた。
大柄な獣ナザルは人化したまま、部屋の入口であなたを待っている。
「よお。ありがとな、俺のパンツ」
「はい。気を付けてくださいね。では――」
「もう帰るのか? ちょっと寄ってけよ、お茶入れてやるから」
「いえいえ結構です。男性たちのお部屋に入るわけにはいきませんので。ルドガーにも言われてるし」
はっきりと返すと、彼はむしろ色めいた目つきで見下ろしてきた。
「くくく……この人妻感たまらねえな……いつになったらあんたを落とせんのかねえ…」
「いつでも無理ですって!」
あなたがか弱い声を張り上げると、開けっ放しの部屋の奥に、さらっとした黒髪の青年が見えた。
この自由奔放な獣の彼の主人が、なにやら机に向かっている。
「セロさん! このいやらしい人どうにかしてくださいよ!」
「おう名無しじゃねえか。そんな奴無視してこっち来いよ。お前にも見せてやる」
「は……?」
彼はいつもの小気味よい口調ではなく、真面目なトーンで視線を手元にやりながら言った。
積み重なった魔術書のほかに魔術の器具やら粉末が散らばり、かなり専門的なデスクだ。
「わあ、すごい……セロさんも本当に魔術師だったんですね」
「だから言っただろ、研究肌だって。ほらこれ薬だよ。いろいろ作って騎士たちに売りさばこうと思ってな」
錠剤をばらっと手から出した彼から、とんでもない企みを聞き、あなたは目を白黒させた。
「売りさばくって……これ何の薬ですか? 絶対そんなことしちゃだめですよ!」
「しっ、声がでけえぞ。これはな、催眠や睡眠、筋力増強剤から自白剤まで……やつらが喜びそうなもんばかりだぞ」
けけけ、と悪い顔で製作に没頭する彼を見てあなたは引く。
どうやらとんでもない人物をここに引き入れてしまったのかもしれない。
だがそれは、彼だけではなかった。
「おい俺にもかまってくれよ、名無し……すぅー……ああ~……あんたほんと、いい匂いすんなあ……美味そうだ……」
「きゃああああっ」
突然後ろからナザルに抱き込まれ、頭の匂いを思う存分嗅がれた。
ぞわっとする感触が全身に広がり、思いきり体をふって逃れようとするがびくともしない。
「助けてえ、セロさんっ、この獣取ってええ!」
あなたがじたばたしていると、椅子をくるりと向けて、セロが何やら口元を動かした。
すると背後の男は、妙な反応をし始める。
「……ぐ、あ、な、なんだっ? 喉が、チクチク…しやがる! やめろセロ、てめえっ」
「なーんだ。俺の力じゃちくちく程度か。まあいいか、役に立たないこともねえな」
振り返ると、赤髪のナザルは首にまだはめられている黒い首輪を手でつかみ、微妙な不快感にもだえている。
これはミザロが彼に取り付けたもので、効果はまだ有効らしい。
「セロさんも使えるんですか? すごいじゃないですか」
「おう、いいだろ? さっすがミザロ先輩だよなあ、拘束呪文教えてくれたんだ。そうだ、お前にも共有してやろうか。名無し」
「いいんですかっ? やったあ」
魔術師同士、ほがらかな表情でやり取りをしていると、はあはあと息をつくナザルが睨みつけた。
「てめえら……俺をおもちゃにすんじゃねえッ……これだからあくどい魔術師は……ッ」
自分のせいだろうとあなたとセロはじと目を投げる。だがナザルは不屈の表情で笑った。
「まあいいぜえ……名無し、あんたにやられるなら悪くはねえ。気持ちいいぐらいの刺激だろうしな?」
まったく反省していない獣にあなたは肩がずり落ちそうになったが、もうそろそろ帰ろうと思った。
彼らに付き合ってると、自分のペースを戻すのが大変なのだ。
けれどマイペースなセロの言動は止まらない。
「あーナザル。粉末が切れちまった。おいお前、ちょっと買い物行ってきてくれ。いつもの素材屋な」
「……ああ? またかよ、面倒くせえな…」
密かな見守り役として、今の二人の会話だけは聞き捨てならなかった。
「ちょっと、買い物ってなんですか? そんなこと出来ませんよ。外出は禁止ですからね」
「平気だよ。こいつは自由に出入りできるから。ほら見せてやるからついて来い」
セロは立ち上がり、いったん休息の姿勢で伸びをした。
今度は何をするつもりなのか。
あなたは状況を確かめようと、寮の部屋から出る二人組についていった。
そこはちょうど、赤兎だったナザルを見つけた敷地内の茂みだ。
灰色のレンガが積まれ、騎士団の強固な塀がずしりと囲んでいる。
人影はなく、自分達三人だけが高い壁を見上げていた。
ナザルは腕を組み、不敵な笑みで佇んでいる。
この男があの可愛らしい兎に変身してたとは、いまだに信じられない。
「それで、ここ乗り越えたら捕まりますよ。いくら私でも通報しますからね」
「まーまー、見とけって、俺の真骨頂を」
ナザルはそう言うと、自分の体をゆらりと変形させた。
まるで煙と霧がまじりあったみたいに、黒い気体に移り変わっていく。
「……!!」
あなたはナザルの初登場時を思い出し戦慄した。
彼の派手なシャツ姿は消えていき、完全に薄いモヤとなる。
セロが魔術師然とした顔つきで、口を開く。
「ほらすげえだろ、こいつは半実体なんだ。通り抜けられない場所はねえ。くっくっく、騎士団のやつらめ、俺らの実力を少しは認めるんじゃねえか?」
完全に使役獣の力ではあるが、あなたは呆然と見ていた。
だが、突如異変が起こる。
ナザルの黒い霧は、なかなか外の壁を越えずにとどまっていたのだ。
「……いでっ! ……あっ? なんだよこれ、おい……なんで抜けられねえんだよッ」
彼の焦る声とドンドンと見えない壁を叩くような音がし、あなたは混乱した。
どうやら外からの侵入者だけでなく、中の逃亡者も逃がさない仕組みになっているようだ。
「えっマジ? うそだろ? ……クソっ! もう対策されてんのかよ! ミザロの野郎、ふざけんなクソがっ」
「出せこの野郎! 俺の唯一無二のアイデンティティを奪うんじゃねえッ!」
二人が口汚く騒ぎ出し、なぜかいたたまれない気持ちであなたは立っていた。
でもこの騒動はまだ終わりがない。
もう一人の男が、当然のごとく入ってくる。
外壁の向こうから軽やかに靴を蹴る音がし、誰かが塀を簡単に上ったのだ。
あなたが空を見上げると、影を作るほどの大柄な男が、こちらをじっと見下ろしていた。
「……え? ルドガーっ!」
その声はすぐに、明るく幸せな音色に変わる。
濃色の軍服姿の彼は、マントをはためかせ、下にすみやかに着地した。
そしてあなたのもとに歩いてきて、自分の両腕にしまいこむように抱きしめる。
「ただいま、名無し」
「おかえり、ルドガー。もう帰ってきたのっ? 早いね!」
「ああ。お前が気になってな。任務を早く終わらせたんだ」
仕事帰りだが彼の声は落ち着いていて、あなたを抱いた安堵がうかがえる。
だがルドガーは感情をさっと下ろした目つきで、後ろの男二人を見やった。
「何をしている、お前ら。外に聞こえるほど騒がしかったぞ」
「……い、いや別にっ? 任務お疲れさまです隊長!」
「俺は隊長じゃない。ただの獣だ。……赤髪。ここから抜け出そうとしたか?」
じろっとルドガーの瞳が険しくなる。ナザルはもう実体を現わしていたが、黒い霧のかすかな気配が残っていたのかもしれない。
「だったらなんだよ。お前の仲間のせいでなあ、自由に出入りできなくなっちまっただろうが! 同じ獣ならこのつらさが分かんだろ軍人野郎!」
「ああ、わかるさ。これは結界師が張った特殊結界だ。お前らがここまでやつらを警戒させたんだぞ、その実力に喜べよ」
彼は珍しく皮肉交じりに笑う。
あの防音魔法でお世話になった結界師ゲインは、最近かなり大活躍しているようだった。
ルドガーは片腕に抱いたあなたを離さないまま、あることに気づく。
「……ん? 待て……なんだこれは」
あなたの頭に鼻を近づけ、くんくんと犬のように確かめている。
そのとき、縮こまったあなたは汗が流れそうになった。
まずい、さっきのくだりがバレるかもしれない。
「あっルドガー、そろそろ行こうか。私お風呂入りたいし」
「……風呂? まだ昼だぞ。……おい、お前の全身からあいつの匂いがする」
そう呟いた瞬間、ルドガーの形相が凄まじいものへと変貌した。
殺意そのもので睨みつけ、金色の瞳が濃い色に変わり、あなたを背後へと移し自分は歩み出す。
「ルドガー、だめっ! 私大丈夫だから、ただ後ろから抱きつかれただけっ!」
「……だけ、だと……? 赤髪、貴様だけは、生かしておけん……ッ」
戦闘態勢に入ってしまったルドガーを止められる者はいない。
ただ一人ナザルだけは、余裕の笑みで腕を組み、にやついている。
「はははは、お前さっきまでの澄まし顔と全然違えじゃねえか。もっとオスとしての余裕もてよ、そんなんじゃカノジョに嫌われちまうぞ?」
挑発する獣と憤怒する獣を見たあなたは、とっさに口元を素早く動かす。
それはさっきセロがナザルにかけていた呪文である。
またもや練習なしで効くと思わなかったが、ナザルは一瞬顔をしかめた。
「……あぁ? おいセロ、お前今なんかしたか」
「してねえよ。俺関係ねえし。もう帰っていいか? 巻き込まれたくねえんだよ」
「いや待てよ。……いてっ。……なんか蚊にさされたような……かゆいんだけどな!」
段々不快感をあらわにしたナザルは、黒い首輪を外そうとかきむしる。
あなたはルドガーの後ろで、うっすらと笑っていた。
すると前の大きな背が振り向いた。
「名無し……? お前、何かしたか?」
「……へへ、そうだよ。わかった? 師匠がセロさんに教えた拘束魔法、今やってみたの。でも蚊みたいだって。はは、まだまだ私には無理かぁ」
照れて髪を触っていると、ルドガーがこちらを見つめる瞳が揺れる。
もうすっかり闘争心は消えうせ、彼はあなたのことで頭がいっぱいになってしまった。
そしてルドガーは二人組に背を向けて、あなたの体を抱き上げる。
「わぁっ、どうしたの? もういいの?」
「ああ、もういい。帰るぞ、名無し」
「……うんっ」
よかった。彼の怒りもおさまり、自分のもとに帰ってきてくれた。
そう安心して素直に掴まっていると。
ルドガーは魔術師と獣に対して、振り向きざまにこう言った。
「お前らは害悪だ。名無しに悪い影響を与えている」
そうきっぱりと告げ、まったく無反省で意味がわかっていない二人組だけが「はあ?」と返し、その場に取り残されたのだった。
守護者からの連絡もまだない中、あなたは彼らを見守り生活している。
「今日も洗濯日和だねえ。紫の空がきらきらしてる~」
すっかり魔界の気候が気に入り、バルコニーで洗濯物を干していると。
石造りの床に、男物の黒い下着が落ちてるのを見つけた。
「なにこれ? ……ルドガーのじゃないよね」
首をかしげて訝しむと、もしかして隣人の騎士ジュリスのが飛んできたのかと思った。
「きゃあっ」
あなたは顔を赤らめ少し想像してしまったが、この黒のタイトなパンツをどこかで見たことがある気がした。
すると、バルコニーの下のほうから声が響いた。
「おーい、名無し! それ俺んだわ、わりいわりい、こっちに持ってきてくれよ!」
「え……もしかして、ナザルさん?」
やっぱり。
唖然とするものの、なぜ一階に住む彼の洗濯物が四階のここに来たのか分からない。
怪しすぎると思い、あなたはひょっこり顔を出した。
「じゃあここから落としますね~いきますよ~」
「いや待て! それ気に入ってるやつなんだよ、丁寧に扱えって。ほら来いよ、待ってるからな!」
今日も派手な柄シャツの赤髪の男が、ニッと快活な笑顔で手を振った。
あなたは白けた思いで、しかたなく寮の階下へ向かった。
この建物は上層に行くほど位の高い騎士達が住んでいるが、昼間は任務や訓練で不在だ。
セロとナザルは共同の大きめの部屋を分け与えられていた。
大柄な獣ナザルは人化したまま、部屋の入口であなたを待っている。
「よお。ありがとな、俺のパンツ」
「はい。気を付けてくださいね。では――」
「もう帰るのか? ちょっと寄ってけよ、お茶入れてやるから」
「いえいえ結構です。男性たちのお部屋に入るわけにはいきませんので。ルドガーにも言われてるし」
はっきりと返すと、彼はむしろ色めいた目つきで見下ろしてきた。
「くくく……この人妻感たまらねえな……いつになったらあんたを落とせんのかねえ…」
「いつでも無理ですって!」
あなたがか弱い声を張り上げると、開けっ放しの部屋の奥に、さらっとした黒髪の青年が見えた。
この自由奔放な獣の彼の主人が、なにやら机に向かっている。
「セロさん! このいやらしい人どうにかしてくださいよ!」
「おう名無しじゃねえか。そんな奴無視してこっち来いよ。お前にも見せてやる」
「は……?」
彼はいつもの小気味よい口調ではなく、真面目なトーンで視線を手元にやりながら言った。
積み重なった魔術書のほかに魔術の器具やら粉末が散らばり、かなり専門的なデスクだ。
「わあ、すごい……セロさんも本当に魔術師だったんですね」
「だから言っただろ、研究肌だって。ほらこれ薬だよ。いろいろ作って騎士たちに売りさばこうと思ってな」
錠剤をばらっと手から出した彼から、とんでもない企みを聞き、あなたは目を白黒させた。
「売りさばくって……これ何の薬ですか? 絶対そんなことしちゃだめですよ!」
「しっ、声がでけえぞ。これはな、催眠や睡眠、筋力増強剤から自白剤まで……やつらが喜びそうなもんばかりだぞ」
けけけ、と悪い顔で製作に没頭する彼を見てあなたは引く。
どうやらとんでもない人物をここに引き入れてしまったのかもしれない。
だがそれは、彼だけではなかった。
「おい俺にもかまってくれよ、名無し……すぅー……ああ~……あんたほんと、いい匂いすんなあ……美味そうだ……」
「きゃああああっ」
突然後ろからナザルに抱き込まれ、頭の匂いを思う存分嗅がれた。
ぞわっとする感触が全身に広がり、思いきり体をふって逃れようとするがびくともしない。
「助けてえ、セロさんっ、この獣取ってええ!」
あなたがじたばたしていると、椅子をくるりと向けて、セロが何やら口元を動かした。
すると背後の男は、妙な反応をし始める。
「……ぐ、あ、な、なんだっ? 喉が、チクチク…しやがる! やめろセロ、てめえっ」
「なーんだ。俺の力じゃちくちく程度か。まあいいか、役に立たないこともねえな」
振り返ると、赤髪のナザルは首にまだはめられている黒い首輪を手でつかみ、微妙な不快感にもだえている。
これはミザロが彼に取り付けたもので、効果はまだ有効らしい。
「セロさんも使えるんですか? すごいじゃないですか」
「おう、いいだろ? さっすがミザロ先輩だよなあ、拘束呪文教えてくれたんだ。そうだ、お前にも共有してやろうか。名無し」
「いいんですかっ? やったあ」
魔術師同士、ほがらかな表情でやり取りをしていると、はあはあと息をつくナザルが睨みつけた。
「てめえら……俺をおもちゃにすんじゃねえッ……これだからあくどい魔術師は……ッ」
自分のせいだろうとあなたとセロはじと目を投げる。だがナザルは不屈の表情で笑った。
「まあいいぜえ……名無し、あんたにやられるなら悪くはねえ。気持ちいいぐらいの刺激だろうしな?」
まったく反省していない獣にあなたは肩がずり落ちそうになったが、もうそろそろ帰ろうと思った。
彼らに付き合ってると、自分のペースを戻すのが大変なのだ。
けれどマイペースなセロの言動は止まらない。
「あーナザル。粉末が切れちまった。おいお前、ちょっと買い物行ってきてくれ。いつもの素材屋な」
「……ああ? またかよ、面倒くせえな…」
密かな見守り役として、今の二人の会話だけは聞き捨てならなかった。
「ちょっと、買い物ってなんですか? そんなこと出来ませんよ。外出は禁止ですからね」
「平気だよ。こいつは自由に出入りできるから。ほら見せてやるからついて来い」
セロは立ち上がり、いったん休息の姿勢で伸びをした。
今度は何をするつもりなのか。
あなたは状況を確かめようと、寮の部屋から出る二人組についていった。
そこはちょうど、赤兎だったナザルを見つけた敷地内の茂みだ。
灰色のレンガが積まれ、騎士団の強固な塀がずしりと囲んでいる。
人影はなく、自分達三人だけが高い壁を見上げていた。
ナザルは腕を組み、不敵な笑みで佇んでいる。
この男があの可愛らしい兎に変身してたとは、いまだに信じられない。
「それで、ここ乗り越えたら捕まりますよ。いくら私でも通報しますからね」
「まーまー、見とけって、俺の真骨頂を」
ナザルはそう言うと、自分の体をゆらりと変形させた。
まるで煙と霧がまじりあったみたいに、黒い気体に移り変わっていく。
「……!!」
あなたはナザルの初登場時を思い出し戦慄した。
彼の派手なシャツ姿は消えていき、完全に薄いモヤとなる。
セロが魔術師然とした顔つきで、口を開く。
「ほらすげえだろ、こいつは半実体なんだ。通り抜けられない場所はねえ。くっくっく、騎士団のやつらめ、俺らの実力を少しは認めるんじゃねえか?」
完全に使役獣の力ではあるが、あなたは呆然と見ていた。
だが、突如異変が起こる。
ナザルの黒い霧は、なかなか外の壁を越えずにとどまっていたのだ。
「……いでっ! ……あっ? なんだよこれ、おい……なんで抜けられねえんだよッ」
彼の焦る声とドンドンと見えない壁を叩くような音がし、あなたは混乱した。
どうやら外からの侵入者だけでなく、中の逃亡者も逃がさない仕組みになっているようだ。
「えっマジ? うそだろ? ……クソっ! もう対策されてんのかよ! ミザロの野郎、ふざけんなクソがっ」
「出せこの野郎! 俺の唯一無二のアイデンティティを奪うんじゃねえッ!」
二人が口汚く騒ぎ出し、なぜかいたたまれない気持ちであなたは立っていた。
でもこの騒動はまだ終わりがない。
もう一人の男が、当然のごとく入ってくる。
外壁の向こうから軽やかに靴を蹴る音がし、誰かが塀を簡単に上ったのだ。
あなたが空を見上げると、影を作るほどの大柄な男が、こちらをじっと見下ろしていた。
「……え? ルドガーっ!」
その声はすぐに、明るく幸せな音色に変わる。
濃色の軍服姿の彼は、マントをはためかせ、下にすみやかに着地した。
そしてあなたのもとに歩いてきて、自分の両腕にしまいこむように抱きしめる。
「ただいま、名無し」
「おかえり、ルドガー。もう帰ってきたのっ? 早いね!」
「ああ。お前が気になってな。任務を早く終わらせたんだ」
仕事帰りだが彼の声は落ち着いていて、あなたを抱いた安堵がうかがえる。
だがルドガーは感情をさっと下ろした目つきで、後ろの男二人を見やった。
「何をしている、お前ら。外に聞こえるほど騒がしかったぞ」
「……い、いや別にっ? 任務お疲れさまです隊長!」
「俺は隊長じゃない。ただの獣だ。……赤髪。ここから抜け出そうとしたか?」
じろっとルドガーの瞳が険しくなる。ナザルはもう実体を現わしていたが、黒い霧のかすかな気配が残っていたのかもしれない。
「だったらなんだよ。お前の仲間のせいでなあ、自由に出入りできなくなっちまっただろうが! 同じ獣ならこのつらさが分かんだろ軍人野郎!」
「ああ、わかるさ。これは結界師が張った特殊結界だ。お前らがここまでやつらを警戒させたんだぞ、その実力に喜べよ」
彼は珍しく皮肉交じりに笑う。
あの防音魔法でお世話になった結界師ゲインは、最近かなり大活躍しているようだった。
ルドガーは片腕に抱いたあなたを離さないまま、あることに気づく。
「……ん? 待て……なんだこれは」
あなたの頭に鼻を近づけ、くんくんと犬のように確かめている。
そのとき、縮こまったあなたは汗が流れそうになった。
まずい、さっきのくだりがバレるかもしれない。
「あっルドガー、そろそろ行こうか。私お風呂入りたいし」
「……風呂? まだ昼だぞ。……おい、お前の全身からあいつの匂いがする」
そう呟いた瞬間、ルドガーの形相が凄まじいものへと変貌した。
殺意そのもので睨みつけ、金色の瞳が濃い色に変わり、あなたを背後へと移し自分は歩み出す。
「ルドガー、だめっ! 私大丈夫だから、ただ後ろから抱きつかれただけっ!」
「……だけ、だと……? 赤髪、貴様だけは、生かしておけん……ッ」
戦闘態勢に入ってしまったルドガーを止められる者はいない。
ただ一人ナザルだけは、余裕の笑みで腕を組み、にやついている。
「はははは、お前さっきまでの澄まし顔と全然違えじゃねえか。もっとオスとしての余裕もてよ、そんなんじゃカノジョに嫌われちまうぞ?」
挑発する獣と憤怒する獣を見たあなたは、とっさに口元を素早く動かす。
それはさっきセロがナザルにかけていた呪文である。
またもや練習なしで効くと思わなかったが、ナザルは一瞬顔をしかめた。
「……あぁ? おいセロ、お前今なんかしたか」
「してねえよ。俺関係ねえし。もう帰っていいか? 巻き込まれたくねえんだよ」
「いや待てよ。……いてっ。……なんか蚊にさされたような……かゆいんだけどな!」
段々不快感をあらわにしたナザルは、黒い首輪を外そうとかきむしる。
あなたはルドガーの後ろで、うっすらと笑っていた。
すると前の大きな背が振り向いた。
「名無し……? お前、何かしたか?」
「……へへ、そうだよ。わかった? 師匠がセロさんに教えた拘束魔法、今やってみたの。でも蚊みたいだって。はは、まだまだ私には無理かぁ」
照れて髪を触っていると、ルドガーがこちらを見つめる瞳が揺れる。
もうすっかり闘争心は消えうせ、彼はあなたのことで頭がいっぱいになってしまった。
そしてルドガーは二人組に背を向けて、あなたの体を抱き上げる。
「わぁっ、どうしたの? もういいの?」
「ああ、もういい。帰るぞ、名無し」
「……うんっ」
よかった。彼の怒りもおさまり、自分のもとに帰ってきてくれた。
そう安心して素直に掴まっていると。
ルドガーは魔術師と獣に対して、振り向きざまにこう言った。
「お前らは害悪だ。名無しに悪い影響を与えている」
そうきっぱりと告げ、まったく無反省で意味がわかっていない二人組だけが「はあ?」と返し、その場に取り残されたのだった。
