道化師A
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客席とステージで交わされる言葉に、他の客は凍り付いたように身動きをとらなかった。
本当に人食い犬だったら、その注意を引くような真似をするべきではない、と思ったからか。
「今日のように『我こそは犬に食われよう』というお客様がいらっしゃらなかった日です。今日のように野次が飛び、私のお師が食われました。お客様も皆、食われました。唯一、いいえ唯二(ゆいふた)つというべきでしょうか?毎日世話をしていた私と、門番のあの男だけは」
ひらりと投げかけられた白い手袋のさす先を、皆が振り返った。
入り口の幕の前で座っていた男が、客席の一番後ろに脚を組んで座り、悠然と銀製の長キセルをふかしていた。
「運良く食われずに生き残っている次第でございます」
「い、犬くらい、靴を投げたり食べ物さえあれば、簡単に手なずけられるわよ…」
勢いを殺された彼氏に変わり、隣に座っていた若い女が弱々しい声をあげた。
「残念ながら、マドマゼル。この犬はあんまり頭がよくないようで、私の言うことしか聞きません」
「なら、あの門番が食べられれば、いいでしょう?」
引かず、女は声をあげた。
ここにきて初めて驚いてみせた燕尾服男は、羽根飾りのついた帽子を両手で押さえて頭を大きく振った。
「なんてことを!…なんて恐ろしいことを!!『あれ』は門番ですよ?『あれ』がいなければ、お客様がたはおろか、私だってここから出ることは出来ません」
「まさかだろう!」
老人が立ち上がった。
老いた妻をなだめ、キセルをくゆらす門番の後ろにある入り口までいくと、皆にも見えるように幕を大きくはぐった。
心臓が一時停止したように、全員がはっと息を飲み殺した。
向こうからも、老人がこちらを覗き込んでいる。
鏡だ。
一枚の鏡が、そこにはあるだけだった。
「…この鏡が扉になっているんだな、こんな、子供だましを…」
老人は皺の重なった手で鏡を押したり、引いたりしてみた。
横へずらそうとし、持ち上げてみようとした。
やがて1ミリの隙間やガタつきも起こらないことを体が感じとり、額に脂汗が浮いてきた。
「…そんな、まさか、」
老人が幕の前に膝を折った。
ブルブルと震える夫に、妻が寄り添った。
「残念です、本日のお客様はだれも人食い犬のショウをご覧いただけずにお帰りになるなんて、本当に残念です」
にっと裂けた口の仮面の下から、燕尾服男が全員に閉幕を告げた。
「最初に門番が申し上げました通り、お代は見てのお帰りです」
───有り金ぜんぶ、置いていってもらいましょう。
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