バックミラーシアター
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「死にそうなツラしてんな」
長い脚をダッシュボードの上へと投げ出した男が、うす明るくなり始めた車内で呟いた。
全開の窓が夜のあいだに冷えた風を車内に巻き込ませ続け、昨朝きっちりと結わえた髪を乱れさせたしどけない色気で男を飾っていた。
隣では、その呟きに返答できそうもない緊張を全身にみなぎらせたモヒカン頭の青年が、顔をひきつらせ閉まりきらない唇をとがらし、完全にビビりながらハンドルを握っている。
ビビリのモヒカンには免許がない。
しかしビビリのモヒカンにとって、ダッシュボートに脚を伸ばしている『兄貴分』の命令のほうが、国から定められた資格なんかより重要な意味を持つ。
そして何より、国家の犬と揶揄されるオマワリなんかより、この兄貴を怒らせる方が数百倍、怖い。
針穴に電気コードを通させられる気持ちで直線の先を見つめているモヒカンが黙っていると、そんな気など察しもせずに兄貴分が加えた。
「後ろの車の野郎のツラ、見てみろよ」
「…え、え!?」
普段、他のメンバーに対するようにする投げかけだったが、始めてハンドルを握るモヒカンにとっては安全ベルトのないジェットコースターが真上に差し掛かったところで両手を放せといわれているようなもの。
「ホラ」
さらに打診され、『ままよ!』と意を決して振り返る。
瞬間、ブルブル震えるほど硬直していた太股に力が入り、ハンドルは振り返ったのと同じ右方向に大きく切られ、車体の軌道は中央線をまたいでグンと湾曲した。
「ッ馬鹿野郎ォ!振り返るんじゃあ無ぇ!!」
「ヒィ!あ、兄貴が後ろを見ろってェ!!」
「何のためのバックミラーだ!!」
横から掴んだハンドルの位置を直し、少々焦りながら兄貴分が怒鳴った。
気持ちよく酒が回っているからといって、ダッシュボートに脚など乗せている場合ではない。
「…信号!」
「ハィイ!」
充血した目をむいて鼻息を殺しハンドルにかじりつくモヒカンには、赤いライトが目に入っていないらしかった。
後続車はちゃんと信号を見ていたのか、兄貴分の警告に急ブレーキで停まった前方の車など気にしていない様子で、ゆっくりと停車する。
そこで始めて、無免許の運転を任されていたビビリのモヒカンがバックミラーを見た。
自分より明らかに運転歴の長そうな後続車のドライバー。
兄貴分が『死にそうなツラ』と言ったのは、老いた女だった。
「ンなもんは、慣れだ。あんな死にかけでボケヅラの老いぼれにだって運転は出来る」
老女は、たしかに経験から滑らかな運転をしていたように見える。
真っ青な顔に、ほつれた白い髪がかかっているのが解る。
『イタリアに老人はいない』と言われるほど陽気な性質の国民をもつこの国には珍しいタイプの、死気を全身に纏った老女だった。
何か病気なのか。
「ほら青だ、ボケっとしてねぇで行け」
クラッチの位置が難解なカマロが、高級車とは思えないほど恥ずかしいエンストをおこす。
空いた窓から聞こえたはずの怒号に、後続車の老女は無表情でいた。
空が明けると、レッドとグリーンとを繰り返したライトに加え、朝の光がフロントガラスから車内へと差し込んだ。
びっしょりと濡れた股の上に数個の白い粒、ブレーキの下には空の薬瓶が転がっているが、そこまではまだ光が届いていない。
「誰もお前を愛していない
世界に唯一必要のない人間は、お前だ 」
つたない字で書かれたメモは、対向車線に群れをなして走る大型コンテナが巻き上げた砂混じりの風に吹かれ、老女の手を放れて開け放たれた窓から外へ出る。
白い車体から飛んでいったメモは、朝の光の中で蝶のようにひらりと舞った。
しびれを切らした後続車がまた一台、停まったままの車を追い越していった。
THEE END
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