壊して。粉々に
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ペッシはいつも生ぬるい。パスタを突っ込むお湯の温度が、とか、エスプレッソマシンの設定温度が、とか、温度の事を言うのではない。ツメが甘い。ギャングとしてのプライド、虚勢でさえも奮いきれずに、生ぬるい。一事が万事、そうなのだから困ってしまう。
そうして今日も、自分のしでかした不手際のせいで、いらぬ恐怖に怯えることになる。
昔話には、幼い人魚の姫君の手にナイフを握らせた魔女がいた。
「王子の心臓を一突きにすれば、万事が元通りに。何も起こらなかった以前のように、冷ややかな海の底で楽しく暮らせるのだ」
彼女のそれは、あるいは恐ろしい取引であったのだろうが、同胞を救う手段としてなら、何ら間違ったことではない。
幼い恋に胸を焦がした人魚の姫君ではなく、手際の悪さで彼女のカップを割ったペッシだ。
そそのかす悪魔はプロシュート。武器は毒でもナイフでもなく、まだハースブレッドの香ばしい香りがする紙袋。
「これに入れて持ち出せば、きっと誰も気がつかない。お前が犯人だともな」
壊れたものは元には戻らない、金を積んで完璧な修復でもしなければ。
魂を旅立たせた肉体は二度と目を覚まさない、ホラー映画でなければ。
そうした始末のエトセトラに基づいたプロシュートの、テンプレートに当てはめたような当然の助言だった。
───砕けたカップのひとカケラも残さずに、綺麗に掃き清めて、中身の見えない袋につめて、部屋から証拠を消し去ってしまえ。
人魚の姫とペッシの違いは、まんまと魔女の口車に乗り、その思惑に準じて行動をしたところだ。
事実、化粧を気にする時間も無かったナナシが、くたびれ果てた顔で帰ってくる前に、砕けたカップは何の痕跡も残さずに、すっかり袋の中に収まっていた。
帰還したナナシはやはり、気の知れたメンバーとおざなりの挨拶を交わすのも煩わしいほどに疲労していた。レモンを絞ったトニックウォーターをグラスにいっぱい、体に流し込んで、ベッドに倒れたい……そんな欲求が、彼女の重い足を何とか動かしていた。
水滴の乾いていないシンクを横目に、食器のしまわれた棚を開ける。
タイミングは最悪だった。
グラスをひとつ取る。しまっていったはずの、自分しか使わないカップがそこに無いことに気がつく。
すれ違ったときに、紙袋の中でささやかれた陶器の触れ合う悲鳴を敏感に感じ取り、それを目の前の違和感と関連付けたのは、あまりに長い任務へ従事していたせいで、神経の高ぶりが未だに収まっていなかったからか。
海の底のように冷たく平穏だった世界に、一陣の砂が舞い上がる。
「……ねぇ、ペッシ。紙袋の中身は、いったい何かしら?」
『壊して。粉々に』
砂にしちゃえば、気が付かなかったかも。
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