このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

三 絶えなば絶えね

 名状しがたい感情を、恋と名付けた夜のこと。
 その日、野原さおりは自室のベッドに横たわり、思い悩んでいた。もう夜だというのに外ではセミがうるさく鳴いている。それだけ残暑が厳しい八月の下旬、間もなく夏休みも終わろうというこのタイミングで、舵を失って漂う舟人のような心地を、さおりは抱き続けていた。
「はあ……」
 この気持ちは何だろう。「由良のとを」の下の句は「行くへも知らぬ恋の道かな」だ。では、恋? 中学校の時からの友達でクラスメートの滝川ほのか。彼女に向ける名状しがたい感情の正体は、果たして恋なんだろうか?
 さおりは別段、恋愛は女の子と男の子でするものだとは思っていない。そもそもさおり自身、これまでに恋なんてしたことが無い。中学まではピアノのレッスンに通っていて、熱心に取り組んでいたから、強いて言えばピアノが恋人だったのかもしれない。いや、人ではないか。
「恋、なのかなあ」
 寝返りを打つ。
 ほのかへの想いが恋なのだとしても、叶えたいとは思わない。ほのかはクラスの人気者で、女子からも男子からも好かれていて、アイドルのような存在だ。少しおっちょこちょいなのを世話する係のさおりが、ほのかとどうこうなりたいと思うのは、多分かなりの思い上がりだろう。
 そんなことを考えていると。
「あ、ほのかから」
 傍らのスマートフォンが特別な通知音と共に振動する。通知を開いて見てみると、宿題がどうにか終わりそうだというメッセージだった。この数日間、数学と英語の分からない問題をかなり教えてあげたのを、ほのかは随分とありがたく思っているみたいだった。絵文字や顔文字で彩られた楽しそうな文面から、どんな顔をしているか容易に想像が付く。
 あと少しだから残りも頑張れと返事を送りながら、さおりは思わず微笑していた。
「まあ、恋でもいいか」
 そうだとしても、この想いを伝えるつもりはない。変な噂でも立ったらほのかに迷惑を掛けてしまうし、今まで色々と親切をしていたのはそういう下心があったからだと思われるのは心外だ。ほのかは気にしないかもしれないけれど、クラスの皆の反応を考えると、伝えないでおいたほうが良いと思う。
 伝えたところで。
 どうこうなりたい訳ではないんだし。
 そうやって思いを打ち消そうとすると、胸が少しだけ痛んだ。心とかじゃなく、物理的に。こんなのって、初めてだ。恋心を秘めておくことが辛いから? ピュアな乙女みたいな心が自分にあるなんて、思いもしなかった。
「これが、タマの尾振る……」
 百人一首の八十九番。決まり字の覚え方も含めて気に入りの一首を、さおりは思い浮かべていた。
1/1ページ
スキ