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声を綴る

「なあなあ、銭川。今何て言ったんだ?」
 訊ねられて、僕は答える。
「雨が降るから、引き上げよう……って言ってた」
「マジかよ。御前、天気予報見たからって、そういう嘘は良くないぞ」
 僕が言い返す前に、田中は校門を走り抜けていった。
 遠くに消えていくカラスの声を耳にしながら、僕は一人で家路を辿る。その声が何の意思を持つのかを、僕は理解することが出来る。カラスだけしか分からないけど、それでいいと思ってる。
「別に、良いけど」
 帰り道では誰にも出会わなかった。否、人があまり通らない道を、僕が選んでいるだけ。
 僕がカラスの意思を把握できるという事実を知っている人は皆、僕を多方面から心配する。ある人は僕の年齢にそぐわない幼さを、ある人は僕を気が狂っているのではないのかと。
「別に、良いけど」
 外出がちな親は、今日もやはり外出中だった。誰もいない家に帰ると、僕は自室に向かった。
 大きな窓と小さな窓が一つずつあり、部屋の一角にはクローゼット。近寄り、開けて、段ボール箱を取り出す。結構大きめのそれにはノートが入っていて、それは全て僕の文字だけで構成されたもの。
 銭川英人。その名前が嫌で、八百十加という名を創った。それが僕の、文章を書くときの名前。割と気に入ってたりする、まあ、元の名前をもじっただけだが。
「おーい、トーカ!」
 小窓のほうで声がした。見ると、庭で一番高い木にカラスが留まっていた。外見からするに、僕を割と昔から知っているカラスだ。振り向いて窓を開けると、春の暖かい風が部屋の中に入ってきた。
「何だよ、ゼロ」
「今日も話を聞かせてやろうと思って来たんだよ。そこのノート、半分くらいはオレの話を書き取ったやつだろ?」
「読み返そうと思ってた。話、聞かせてくれるのか?」
「勿論だ」
 ゼロは黒い羽を数回ばたつかせた。嬉しそうだ。カラスの表情を読むのはなかなか難しいので、僕はそういう動きで彼らの感情を理解する。
 小窓での何時も通りの会話の後は、彼らが見聞きした話を書き残す。その為に僕は、大きな窓の向こうにある小さなベランダに向かう。これも、何時も通りのこと。
「今日の話は……そうだな、タイトルは『雨上がり』だ。オレ、この前も例によって山の『向こう』に行ってきた。そこで雨に降られて、困ってたんだよ。そしたら、サンって名前の子が雨宿り出来る場所に連れてってくれたんだ」
 小さな声で話し出す彼の声を、僕はメモ帳に書き写した。何も知らない人が見たら多分、何をやってるんだと思うに違いなかった。やはり何時ものことだから、僕は気にしない。
「それで?」
「それでな、雨は止んで、虹も出た。綺麗だなって呟いて隣見たら、サンがいない。飛び立った気配も無かったし、何なんだと思って辺りを見た。そしたら、黒い羽が一枚落ちてたんだ。雨宿りしてた場所は道路の端の方にある茂みだったんだが、あれは何だったんだろうなあ」
 ゼロは首を傾げた。不思議そうに話す口調からも、彼がその経験を完全に意味の分かるものであると認識していないことは明らかだった。そういう話ばかりしてくれるから、僕はその続きを作ったり、世界観を補足したりが容易に出来る。
「道路ってことは、車が走ってる訳か?」
「いや、『向こう』に詳しい奴が言うには、以前は車が走ってたが、今は自転車がたまに通るくらいだって。現実はもしかして、トーカが多分考えてることかも知れないな」
「そうだとしたら、ゼロはその子を救ったことになるんだろうな」
「そうか?」
 彼はまた首を傾げ、その後ベランダの柵の上を歩いた。
「きっとそうだ。雨は悲哀の象徴だから。ゼロが来たからそれが終わったんだ。そう考えると、雨上がりってタイトルはそれっぽい」
「それなら、良いんだけどな」
「良いんだけどな、じゃなくて、初めからそう思ってたんだろ」
 カラスのくせに、やけに複雑な心境を声で表す奴だ。嘆息と安心の入り交じった、というか。そういう表情をする人間を、僕は見たことがない。意識して見ようとしないだけかもしれないけど。
「じゃ。こっちでも雨降りそうだし、オレはそろそろ山に引き上げる。またなー」
「気を付けて帰れよ」
 音を立てて勢いよく飛び立った黒い姿を、僕は見送った。ゼロが見えなくなると部屋の中に戻り、手に入れた話を文章にするために、僕は机に向かった。
 タイトルは『ゼロの《雨上がり》』。僕に話を聞かせてくれるのはゼロに限らない。
「書くか……」
 引き出しからノートを取り出す。『会話 vol.51』と書かれたそれは、六年ほど前に始めた会話の記録が五十一冊にのぼることの証。
 僕が誇れるのはカラスと話せることじゃない。このノートこそが、僕の誇りだ。
 誰が理解するだろう? 僕のことを。僕の誇りを。
「別に、良いけど」
 メモを見ながら、僕は右手を動かし始めた。
 耳を澄ますと、雨音がした。
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