紅葉舞う頃に
この話は、あるブログに載せられていた、一人の少女の日記を抜粋し、加筆訂正したものである。
「あ、有り難う御座います」
私が席を立つと、小学生はそう言いました。此処はバスの中。通学の途中なのです。
荷物が多くて重そうな人を見ると、思わず席を譲ってしまいます。それが私。
やがてバスは、私の学校の目の前で停まりました。運転手さんへの御礼をせずには居られません。それが私。
校門をくぐり、まだあまり人の居ない昇降口で、教材を運ぶ先生を見かけました。一人で大変そうなので、思わず手伝います。それが私。
教室に入ると、何人かが勉強をしていました。足許に転がってきた消しゴムを、持ち主の許へ届けます。それが私。
「何時も親切だよね」
笑ってくれました。それが私の糧であり、生き甲斐です。
……申し遅れました。
私は高澤麻砂美。高校一年生でJRC部に所属しています。とにかく困っている人を見ると、放って置けません。たかが十五歳の私が、皆様のために出来る事などありませんが、せめて私の周りの人達だけでも、私は手伝いをしたいのです。
何故、と問われると、少々言い難いのですが。
「おい高澤ー、黒板消しといてー」
クラスの男子が私に言いました。宿題を写す事に忙しく、日直の仕事まで手が回らないようです。頷くと、黒板消しを手に取り、チョークの粉を気にしつつ、文字を消します。それが私。
「お、サンキュ。高澤は優しいよなー、何処かの誰かと違って」
「ちょっとー、どういう意味よソレ!」
「別に、御前に言ってる訳じゃないだろ」
……と、ケンカが起こる事が困りものですが。
「でも麻砂美優しいよねー。ゴミ捨てとか机並べとか戸締りとかしてくれるし」
「うんうん。いつも有り難う」
私こそ。貴方達のその笑顔が、有り難いです。
放課後。学級文庫を整え直していると、顔は分かるけれど余り話した事の無い、他のクラスの男子が、私に近付いて来ました。
「そうやって、眼に見える形で『私はとても親切です』って周りに思わせて、どうせそれは偽りの優しさなんだろう。他人に優しくしてるつもりなら、それは大きな誤解だ。アンタも結局、周りの目を気にしてるんだろ。所詮は自分の為なんだろ」
……振り返ると、その人はもう居ませんでした。
偽りの、優しさ。所詮は、自分の為。
さっきの言葉が脳内で何度も流れ続けます。
何なのでしょう、この、何かとてつもなく大きな空虚感は……。幼い頃に感じた、迷子になったときの感覚に似ています。
そう言えば、あの時に私を助けてくれた男の子は、余りにも親切で、それでいて、自然でした。見知らぬ町で親とはぐれた私を見て、その男の子は私の手を黙って引いて、親の元まで連れて行ってくれたのです。その手の感触が暖かくて、優しくて……。
だから私も、そのような人になりたい。そう思って、困っている人を手伝っていたつもりでした。けれどそれが優しさなのか。
私には自信が無くなってしまいました。
落ち込んだまま、一日が過ぎました。いつものように、休み時間の台詞が。
「高澤、黒板ー!」
立ち上がりかけたけれど、その足は何故か動かないままで。
「どうしたんだ、高澤?」
何時もと違う、と思ったのでしょうか。その『何時も』とは、一体何なのでしょうか。他人に言われたことを、屈託無く、従順にこなし続ける……それが、私に対する『何時も』なのでしょうか。
私はそれを、どう思っているのでしょうか。反発しなければ、責められることは無いから、だから他人の言う事をこなしているのでしょうか。
……考えれば考えるほど、頭が痛くなってきました。
何日か、ずっと頭痛が続いています。
そう言えば明日は部活動の書類を整備する日でした。それを言うなら今日は学級の後ろに溜まっているペットボトル等資源ゴミの回収日。そろそろ落ち葉も目立つ季節です。教室の外にある石油ストーブの埃落としもしなければ……。
考えても考えても、やはり身体は動きません。まるで、何かに縛られているかのように……。
放課後の教室を後にして、渡り廊下を歩いていると、用務員室から出てくる男子がちらりと見えました。思わず私は、彼を凝視してしまいました。箒を持った彼の顔は、この前私に話し掛けてきた、あの男子のものだったのです。
暫く見ていると、彼は中庭を掃除し始めました。落ち葉を丁寧に集めて、袋の中に入れて。それをゴミ捨て場に持っていくと、箒を仕舞いました。
翌日。昼休みに廊下を歩いていると、こんな声が。
「昼飯何処で食べるー?」
「中庭どう?」
「えー、落ち葉あるじゃん」
「でも今朝見たら中庭キレイになってたよ?」
「本当? 麻砂美がやってくれたのかなあ」
「御苦労様だよね」
「うんうん」
……私ではないのに。
けれど、それを知っているのは、あの人と私だけ。
また、放課後。
昨日と同じように、何をするでもなく、私は教室でだらけていました。最近の私は、誰の手伝いも出来ないままで居ます。
すると、あの人が教室の前を通り掛りました。手には雑巾が握られています。ずっと見ていると、彼は長らく使われず、埃を被ったストーブを、使える状態になるように、綺麗に掃除をし始めました。
誰からも、笑顔を向けられる事も、無いのに・・・・・・。
「何故です?」
私は思わず呟いていました。その声が、彼にも届いたようです。彼は何も言わずに、手を止める事もせず、しかし私の声に少し反応したように思えました。
「何故、貴方は人知れず、人に親切になさるのですか?」
「アンタは、どうなんだ」
とても小さな声で、彼は答えたようです。
「私は……私は、周りの人を助けるのが好きなのです。だって、その人が喜んでくれるから。でもそれを、優しさと呼べるのかどうかは、私には全く、分からないのです」
一人言のように、呟きます。
「アンタは答えた。ならば次は、俺が答える番だな。俺は昔優しくしてくれた人が、もっとしていたかっただろう事をしているだけだ。こんなもの、罪滅ぼしにすらならない。それほど、俺は取り返しの付かないことをしてしまった。だから親切なんかじゃない。……優しさなんかじゃない」
教室から廊下までは距離があるけれど、はっきりと見えたその表情は何処か寂しげで。
一体、彼に何があったのでしょう。しかし私には、これだけは言えました。
「それは優しさです。私は貴方に言われたとおり、自分の事だけしか考えていませんでした。けれど貴方は、違います。その人の為に、今もこうして、行動しているのだから」
本当に、誰かの為を思って手伝いをするのならば、代償など、何も要らない……。代償を求めないからこそ、優しさと言えるのかも知れません。
彼のほうを見ると、何時の間に、私の目の前に居ました。
驚く私に彼は、
「俺が優しいと言うのなら――アンタは俺よりもずっと、優しい」
と一言。
……そんなつもりは全く無いのに。気付いたら相手が幸せになっている。それが堪らなく嬉しいのも含めて、世の中は廻っているのかも知れません。
「貴方の方がずっと優しいです。ほら、今だって私を気遣ったでしょう」
ずっとしかめ面だった彼の表情が、私の求めていたものに変わりました。
「……アンタこそ」
教室に、私達の笑い声が響いた事。この事を知っているのは私達だけ。
まだ優しさが何なのかはよく分からないけれど、貴方にも幸せになってもらいたい。
それが私。
紅葉舞う頃に、気付いた事。
「あ、有り難う御座います」
私が席を立つと、小学生はそう言いました。此処はバスの中。通学の途中なのです。
荷物が多くて重そうな人を見ると、思わず席を譲ってしまいます。それが私。
やがてバスは、私の学校の目の前で停まりました。運転手さんへの御礼をせずには居られません。それが私。
校門をくぐり、まだあまり人の居ない昇降口で、教材を運ぶ先生を見かけました。一人で大変そうなので、思わず手伝います。それが私。
教室に入ると、何人かが勉強をしていました。足許に転がってきた消しゴムを、持ち主の許へ届けます。それが私。
「何時も親切だよね」
笑ってくれました。それが私の糧であり、生き甲斐です。
……申し遅れました。
私は高澤麻砂美。高校一年生でJRC部に所属しています。とにかく困っている人を見ると、放って置けません。たかが十五歳の私が、皆様のために出来る事などありませんが、せめて私の周りの人達だけでも、私は手伝いをしたいのです。
何故、と問われると、少々言い難いのですが。
「おい高澤ー、黒板消しといてー」
クラスの男子が私に言いました。宿題を写す事に忙しく、日直の仕事まで手が回らないようです。頷くと、黒板消しを手に取り、チョークの粉を気にしつつ、文字を消します。それが私。
「お、サンキュ。高澤は優しいよなー、何処かの誰かと違って」
「ちょっとー、どういう意味よソレ!」
「別に、御前に言ってる訳じゃないだろ」
……と、ケンカが起こる事が困りものですが。
「でも麻砂美優しいよねー。ゴミ捨てとか机並べとか戸締りとかしてくれるし」
「うんうん。いつも有り難う」
私こそ。貴方達のその笑顔が、有り難いです。
放課後。学級文庫を整え直していると、顔は分かるけれど余り話した事の無い、他のクラスの男子が、私に近付いて来ました。
「そうやって、眼に見える形で『私はとても親切です』って周りに思わせて、どうせそれは偽りの優しさなんだろう。他人に優しくしてるつもりなら、それは大きな誤解だ。アンタも結局、周りの目を気にしてるんだろ。所詮は自分の為なんだろ」
……振り返ると、その人はもう居ませんでした。
偽りの、優しさ。所詮は、自分の為。
さっきの言葉が脳内で何度も流れ続けます。
何なのでしょう、この、何かとてつもなく大きな空虚感は……。幼い頃に感じた、迷子になったときの感覚に似ています。
そう言えば、あの時に私を助けてくれた男の子は、余りにも親切で、それでいて、自然でした。見知らぬ町で親とはぐれた私を見て、その男の子は私の手を黙って引いて、親の元まで連れて行ってくれたのです。その手の感触が暖かくて、優しくて……。
だから私も、そのような人になりたい。そう思って、困っている人を手伝っていたつもりでした。けれどそれが優しさなのか。
私には自信が無くなってしまいました。
落ち込んだまま、一日が過ぎました。いつものように、休み時間の台詞が。
「高澤、黒板ー!」
立ち上がりかけたけれど、その足は何故か動かないままで。
「どうしたんだ、高澤?」
何時もと違う、と思ったのでしょうか。その『何時も』とは、一体何なのでしょうか。他人に言われたことを、屈託無く、従順にこなし続ける……それが、私に対する『何時も』なのでしょうか。
私はそれを、どう思っているのでしょうか。反発しなければ、責められることは無いから、だから他人の言う事をこなしているのでしょうか。
……考えれば考えるほど、頭が痛くなってきました。
何日か、ずっと頭痛が続いています。
そう言えば明日は部活動の書類を整備する日でした。それを言うなら今日は学級の後ろに溜まっているペットボトル等資源ゴミの回収日。そろそろ落ち葉も目立つ季節です。教室の外にある石油ストーブの埃落としもしなければ……。
考えても考えても、やはり身体は動きません。まるで、何かに縛られているかのように……。
放課後の教室を後にして、渡り廊下を歩いていると、用務員室から出てくる男子がちらりと見えました。思わず私は、彼を凝視してしまいました。箒を持った彼の顔は、この前私に話し掛けてきた、あの男子のものだったのです。
暫く見ていると、彼は中庭を掃除し始めました。落ち葉を丁寧に集めて、袋の中に入れて。それをゴミ捨て場に持っていくと、箒を仕舞いました。
翌日。昼休みに廊下を歩いていると、こんな声が。
「昼飯何処で食べるー?」
「中庭どう?」
「えー、落ち葉あるじゃん」
「でも今朝見たら中庭キレイになってたよ?」
「本当? 麻砂美がやってくれたのかなあ」
「御苦労様だよね」
「うんうん」
……私ではないのに。
けれど、それを知っているのは、あの人と私だけ。
また、放課後。
昨日と同じように、何をするでもなく、私は教室でだらけていました。最近の私は、誰の手伝いも出来ないままで居ます。
すると、あの人が教室の前を通り掛りました。手には雑巾が握られています。ずっと見ていると、彼は長らく使われず、埃を被ったストーブを、使える状態になるように、綺麗に掃除をし始めました。
誰からも、笑顔を向けられる事も、無いのに・・・・・・。
「何故です?」
私は思わず呟いていました。その声が、彼にも届いたようです。彼は何も言わずに、手を止める事もせず、しかし私の声に少し反応したように思えました。
「何故、貴方は人知れず、人に親切になさるのですか?」
「アンタは、どうなんだ」
とても小さな声で、彼は答えたようです。
「私は……私は、周りの人を助けるのが好きなのです。だって、その人が喜んでくれるから。でもそれを、優しさと呼べるのかどうかは、私には全く、分からないのです」
一人言のように、呟きます。
「アンタは答えた。ならば次は、俺が答える番だな。俺は昔優しくしてくれた人が、もっとしていたかっただろう事をしているだけだ。こんなもの、罪滅ぼしにすらならない。それほど、俺は取り返しの付かないことをしてしまった。だから親切なんかじゃない。……優しさなんかじゃない」
教室から廊下までは距離があるけれど、はっきりと見えたその表情は何処か寂しげで。
一体、彼に何があったのでしょう。しかし私には、これだけは言えました。
「それは優しさです。私は貴方に言われたとおり、自分の事だけしか考えていませんでした。けれど貴方は、違います。その人の為に、今もこうして、行動しているのだから」
本当に、誰かの為を思って手伝いをするのならば、代償など、何も要らない……。代償を求めないからこそ、優しさと言えるのかも知れません。
彼のほうを見ると、何時の間に、私の目の前に居ました。
驚く私に彼は、
「俺が優しいと言うのなら――アンタは俺よりもずっと、優しい」
と一言。
……そんなつもりは全く無いのに。気付いたら相手が幸せになっている。それが堪らなく嬉しいのも含めて、世の中は廻っているのかも知れません。
「貴方の方がずっと優しいです。ほら、今だって私を気遣ったでしょう」
ずっとしかめ面だった彼の表情が、私の求めていたものに変わりました。
「……アンタこそ」
教室に、私達の笑い声が響いた事。この事を知っているのは私達だけ。
まだ優しさが何なのかはよく分からないけれど、貴方にも幸せになってもらいたい。
それが私。
紅葉舞う頃に、気付いた事。
1/1ページ