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折鶴

 教室の時計は、いつも三分遅れている。七時十二分を示すその文字盤を見て、溜め息を吐く少年がいた。
「誰もいない。誰にも認知されてない」
 その先に感じたことは言わない。
 彼は次に、窓外を眺めた。無風、快晴。真夏日と形容するに相応しい太陽が、朝といえども容赦無く照りつける。
「いなくたって続いてく。だったらいなくていい」
 無表情のまま、少年はそう呟き、自分が座る軋んだ椅子、その目の前にある古びた机上に載る、正方形の紙束を見つめた。
 折り始めた長寿の象徴は、次々と、羽ばたいたまま静止する。
「願っても叶わないのに、どうして縋る?」
 折鶴を贈る相手を案じて、彼は日陰の向日葵のような顔をした。
「意味の無いものに、必死で意味を見出だそうとするからだ」
 突然、背後から声がした。少年が無表情で振り向くと、担任補佐だった。大学を卒業したばかりの、非常勤の若い教員だ。彼は閉められていた筈の扉をいつの間にか開けて、教室に入ってきたようだ。
「……先生」
「挨拶も無しか」
 教員は苦笑した。
「それは失礼しました」
「よく考えると俺に非があるな」
 こちらこそ失礼、と言いながら、教員は少年の席に近寄った。
「千羽鶴?」
「病気で入院してる幼馴染みに頼まれて」
「そういう性分だもんな、御前」
 教員の微笑は、少年の思考を止めた。
「心配してるつもりですか」
 少年は、会話に空白を作りたくなかった。何かしら話さなくては、自分の存在が消えていくような気がする。
 教員は、少年が座る席のすぐ隣に腰掛ける。
「教師が生徒を心配するな、なんてルールは無いだろ」
「……笑わないで下さい」
 微笑む教員に、少年は声を震わせた。
「そんなに幸せそうな顔、見たくない」
 鶴を折る手は休めずに、そしてやはり無表情のままで、彼は続ける。
「僕の目の前で笑わないで下さい。幸せと不幸せが同じ空間にあっちゃいけない」
 一羽、出来上がった。
「どうしてそう思うんだ?」
「え?」
 意外な返答に、少年は困惑した。どういう意味だろう。考えていると、彼の隣の教員は、少し考えた後に言い直す。
「どうして自分を不幸せだと思うんだ?」
 それは。
「幸せじゃないと思うから。ほら、僕は暗いし冴えないし、好きなものも無いし、それにきっと、……誰からも嫌われてるし」
 無表情は再び、日陰の向日葵に変わる。
「それじゃあつまり、御前が考える幸せってのは、明るくて冴えてて、皆が好きだし好かれてる状態ってことか」
 ふむ、と教員は頷く。
「ってことは、幸せを知ってる訳だな。それだって十分、誇るべき幸せじゃないのか?」
「今が幸せじゃないから、意味なんかない」
 また一羽。
「何のために折る?」
「さっきも言ったでしょう、頼まれたからだって」
「意味もないのにか」
 沈黙が訪れた。しかし少年には、無意味な質問よりもそのほうがよかった。彼はひたすらに、鶴を折り続けた。
 何を言ったって、理解してくれないと分かったから。何をしたって意味なんかない。自分が生きていようと、それをやめようと。
 世界は自分のためには止まらない。
「どうせ意味がないなら、何か話してみるのも一つの手じゃないか?」
 教員の発言は、どうにかして少年の顔色を変えようという、熟慮の末路であるようだった。
「取るに足らない話でいいから」
 少年は、鶴を折る手を止めた。
 どうせ話す意味なんて存在しない。だったら、言われた通りにしてみるのも悪くない。
「僕がいなくたって世界が続いていくって思うと、怖いんです」
 少年は、それと同時に、こんなことを言ったって、と思う。
 教員は隣席の折り紙を一枚手に取り、何やら折り始めた。
「成程、取るに足らない問題だな。つまりその答えも取るに足らないけど、適当に聞き流せ。……世界は続く。御前の世界が終わることと、それでも世界が続いてることは別問題だ」
 不格好な鶴が、彼の掌で産まれた。
「何にだってズレはある。ほら、この鶴だってそうだし、ここの時計も三分遅れてるだろ? 御前が怖いのは、御前の世界が壊れても、その外側にある世界に何ら影響がないことだ。つまり、そのズレが怖いんだろう?」
 少年は驚いた。
 教員の言葉が彼の心中に轟いたのではない。自分が何を言っても何も変わらないという思いが、鮮やかに翻されたから。彼は確かに、自分の言葉に反応した。
「内側は外側に影響を与えないが、外側から内側になら、その限りじゃない。だから御前の幼馴染みも、鶴に意味を与えようとしたんじゃないか? ただの紙は何も齎さない。その無意味に『御前が作った』という価値を添えれば、諦めない理由になる」
 教員は必死であるように見えた。
「……何ですかそれ」
 無意識のまま、彼の必死さに、少年は笑っていた。
「幸せじゃないのに、笑ったな」
 教員は笑わない。
「意味がないとは少し違うが、幸せでも笑わない奴はいるし、その逆もいる。世界は御前の有無に関わらず、常に歪だ。怖がる必要性は薄い」
 言葉を聞きながら、少年は無表情を取り戻した。
 再び折り始めた鶴は、その前のものよりも遥かに雑だった。
「おお、下手だな」
「先生のせいだ」
「たまにはそういうこともあるんだろう。御前の責任だ」
「知ってます」
 気を取り直して折ったもう一羽は、綺麗に出来上がった。
「取るに足らないから、礼は要らん」
「初めから考えてませんでした」
「そうか。そう言われると何か萎えるな」
 教員は席を立ち、教室の前部にある教卓へ移動した。そこに重ねられたノートを、座席表を見ながら配っていく。
「こういう作業は生徒に任せるべきだ。補佐の仕事じゃない」
 小言を言う教員に、鶴を折りつつ少年は皮肉を言う。
「それ、担任に言ってみればいいんじゃないですか」
「あのな、言って変わることと変わらないことってのがあるんだよ。御前の場合は前者、俺は後者」
 教員が溜め息を吐くと、教室の時計は八時三分を示していた。
「皆来るの遅いな」
「いつもですよ。始業直前に半分来るか来ないか」
「そんなもんか」
 教員の頷きと共に、鐘が鳴る。
 始業前の沈黙を過ごす意味も、少しくらいはあるのかもしれない。
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