三十一 うらめしき朝ぼらけ
その日、野原さおりは鳥が囀るようなアラーム音で目を覚ました。見覚えの無い天井、狭いベッド。その原因は、彼女が恋人・滝川ほのかの住む1DKのアパートに泊まったことによる。大音量のアラームにも構わず、ほのかはさおりの隣ですやすやと寝息を立てている。幸福そうな顔をしているところから、何か良い夢を見ていることが窺えた。
「よいしょ」
さおりはベッド脇のテーブルに手を伸ばして、スマートフォンの画面をタップした。間もなく、鳥の鳴き声は聞こえなくなる。
「もう少し寝ていたいところだけれど……」
ほのかの寝顔を見ながら独り言を呟くと、さおりはそっと布団から出た。着替えのために寝間着を脱げば、身体中に恋人と触れ合った痕が残っている。昨晩の出来事が一瞬頭にちらつく。
けれど今は、そんなことより、さっさと朝食を作って家を出る準備をしなければならない。さおりは三限からとはいえ、ここから県を跨いだ大学に行かなければいけないし、大学のすぐ近くに住んでいるほのかだって、今日は一限から授業がある。創立記念日の休みを利用して恋人の家に泊まる、なんて、我ながら少し無茶な計画をしたなと思う。
着替えを済ませたさおりは、調理器具の整然と並んだキッチンに立った。料理はまだまだ慣れないけれど、ほのかにレシピを教わって、簡単なものなら作れるようになった。今日はそのお披露目だ。といっても、作るのはサラダとハムエッグ、トーストに、インスタントのコーンスープ。昨晩、ほのかが考えてくれた献立だ。
二人分のハムエッグを焼くことにする。片手で卵を割るのも慣れたものだ。焼き上がるのを待ちながら、きゅうりと千切りキャベツのサラダを用意する。
「んー……良い匂い」
ハムと卵の焼ける音に雑ざって、ほのかの眠そうな声がした。ちらりとそちらを見れば、ベッドから這い出したほのかが、欠伸をしているところだった。
「さおりん、おはよー。早起きだねえ」
「おはよう。電車に間に合わないと困るから。ほのかだって一限からだよね?」
「んー。でも時間的にはもう少し寝てられるんだけどねー」
「そうなんだ。昨日も大学とか色々疲れただろうし、もう少し寝ていたら?」
「さおりんと一緒にいたいから起きた!」
ほのかはへにゃりと笑うと、さおりのいるキッチンへ歩いてくる。サラダとドレッシングを作り終えたさおりは、五枚切りの食パン二枚を包丁で三角形に二等分して、電子レンジに入れてトーストのボタンを押した。
「また週末に来るから、今はゆっくりしていて」
「相変わらずレータン優しいですなー」
「何、それ」
ほのかは調理中のさおりの半歩後ろに立つと、後ろから抱き締めてきた。また少しの間会えない日が続くのが寂しいんだろう。
「朝ってどうして来ちゃうんだろうね」
ほのかはさおりの耳元で囁くように言った。こんな風に甘えてくるのはちょっと珍しい。
「朝、嫌い?」
言いながらさおりは火を止めると、フライ返しでハムエッグをお皿の上に載せた。
「さおりんといる時だけキライかも。ずっと夜のままが良いなって、昨日すっごく思ったもん」
「わたしも思った。百人一首にそういう歌があったなあって」
「どんな歌?」
ほのかはさおりの頬に両手で触れる。それには構わず、さおりはサラダの入った小鉢とハムエッグのお皿をダイニングテーブルに置く。
「ええと、十六枚札の……あけぬなおうらめし。『明けぬれば暮るるものとは知りながら なほうらめしき朝ぼらけかな』。理屈では分かってても、夜が来たらまた会えるって思っても、別れなくちゃいけない朝は辛くて苦しいなあ、っていう歌だね」
一度身に付けた知識って、時間が経っても案外覚えているものだなあ。そんなことを思いながら、さおりは電子レンジの中から焼き上がったトーストを取り出して大皿に載せ、ブルーベリージャムとバターと一緒にテーブルに置いた。あとは電気ポットからお湯を注いでインスタントスープを作るだけだ。
思ったより時間が掛かった。談笑しながら朝食を摂って、食後にコーヒーか紅茶でも飲んだら、もう家を出なければならない時間になるだろう。
「流石は元かるた部!」
「元料理部のお陰で朝ごはんがほぼ出来たよ」
さりげなく促すけれど、ほのかはさおりから離れようとしない。仕方が無いので、優しい力で振り解く。するとほのかは、今度はさおりを正面から抱き締めてきた。
触れていたくて堪らない。そんな表情だ。
「また土曜日に会えるから」
「うん……でも、寂しい」
「わたしも同じ気持ち。こう思うのってきっと、ほのかもわたしもお互いが大好きだからだよね」
ちょっとベタなことを言ったかな。さおりが少し後悔していると、ほのかは嬉しそうな、それでいて悲しいような、複雑な顔になった。そんな風に見詰められたら、何と言葉を掛ければ良いか分からない。
だからさおりは、ほのかにゆっくり顔を近付けて、唇で唇にそっと触れた。そしてすぐ、何事も無かったかのように離す。
見ると、ほのかの表情からは悲しみの色が消えていた。
「さおりん、ありがと」
「うん」
何がありがたかったのかな、と思いながら、さおりは頷いた。いずれにせよ、この世界で一番特別で愛しい人が、隣で幸せに笑っていてくれれば、それで良い。
ほのかはさおりを一度ぎゅっと強く抱き締めると、名残惜しそうに離れ、大きく何回か瞬きをした。それで何かに満足したのか、気を取り直したように朝食の用意の続きをし始めた。
「粉入れてー、お湯入れてー、ぐるぐるかき混ぜてー、テーブルに並べたらー、完成!」
声に合わせて、朝食の準備が完全に整った。いつも思うけれど、ほのかは本当に手際が良い。
「もう。朝は全部わたしがやるって言ったのに」
「そもそも献立考えたのウチだもんねー」
「うう、それはそうだけれど」
二人用のダイニングテーブルに着席したさおりは、正面に座したほのかと一緒に「いただきます」を言った。
ふと思う。顔の前で両手を合わせるこの仕草、願い事をする時みたいだ。
それならこう願おう。
「さおりんの朝ごはん、おいしー!」
「ほのかの献立のお陰だね」
「えへへー」
いつか遠くない日に、この特別な朝が当たり前になりますように。
「よいしょ」
さおりはベッド脇のテーブルに手を伸ばして、スマートフォンの画面をタップした。間もなく、鳥の鳴き声は聞こえなくなる。
「もう少し寝ていたいところだけれど……」
ほのかの寝顔を見ながら独り言を呟くと、さおりはそっと布団から出た。着替えのために寝間着を脱げば、身体中に恋人と触れ合った痕が残っている。昨晩の出来事が一瞬頭にちらつく。
けれど今は、そんなことより、さっさと朝食を作って家を出る準備をしなければならない。さおりは三限からとはいえ、ここから県を跨いだ大学に行かなければいけないし、大学のすぐ近くに住んでいるほのかだって、今日は一限から授業がある。創立記念日の休みを利用して恋人の家に泊まる、なんて、我ながら少し無茶な計画をしたなと思う。
着替えを済ませたさおりは、調理器具の整然と並んだキッチンに立った。料理はまだまだ慣れないけれど、ほのかにレシピを教わって、簡単なものなら作れるようになった。今日はそのお披露目だ。といっても、作るのはサラダとハムエッグ、トーストに、インスタントのコーンスープ。昨晩、ほのかが考えてくれた献立だ。
二人分のハムエッグを焼くことにする。片手で卵を割るのも慣れたものだ。焼き上がるのを待ちながら、きゅうりと千切りキャベツのサラダを用意する。
「んー……良い匂い」
ハムと卵の焼ける音に雑ざって、ほのかの眠そうな声がした。ちらりとそちらを見れば、ベッドから這い出したほのかが、欠伸をしているところだった。
「さおりん、おはよー。早起きだねえ」
「おはよう。電車に間に合わないと困るから。ほのかだって一限からだよね?」
「んー。でも時間的にはもう少し寝てられるんだけどねー」
「そうなんだ。昨日も大学とか色々疲れただろうし、もう少し寝ていたら?」
「さおりんと一緒にいたいから起きた!」
ほのかはへにゃりと笑うと、さおりのいるキッチンへ歩いてくる。サラダとドレッシングを作り終えたさおりは、五枚切りの食パン二枚を包丁で三角形に二等分して、電子レンジに入れてトーストのボタンを押した。
「また週末に来るから、今はゆっくりしていて」
「相変わらずレータン優しいですなー」
「何、それ」
ほのかは調理中のさおりの半歩後ろに立つと、後ろから抱き締めてきた。また少しの間会えない日が続くのが寂しいんだろう。
「朝ってどうして来ちゃうんだろうね」
ほのかはさおりの耳元で囁くように言った。こんな風に甘えてくるのはちょっと珍しい。
「朝、嫌い?」
言いながらさおりは火を止めると、フライ返しでハムエッグをお皿の上に載せた。
「さおりんといる時だけキライかも。ずっと夜のままが良いなって、昨日すっごく思ったもん」
「わたしも思った。百人一首にそういう歌があったなあって」
「どんな歌?」
ほのかはさおりの頬に両手で触れる。それには構わず、さおりはサラダの入った小鉢とハムエッグのお皿をダイニングテーブルに置く。
「ええと、十六枚札の……あけぬなおうらめし。『明けぬれば暮るるものとは知りながら なほうらめしき朝ぼらけかな』。理屈では分かってても、夜が来たらまた会えるって思っても、別れなくちゃいけない朝は辛くて苦しいなあ、っていう歌だね」
一度身に付けた知識って、時間が経っても案外覚えているものだなあ。そんなことを思いながら、さおりは電子レンジの中から焼き上がったトーストを取り出して大皿に載せ、ブルーベリージャムとバターと一緒にテーブルに置いた。あとは電気ポットからお湯を注いでインスタントスープを作るだけだ。
思ったより時間が掛かった。談笑しながら朝食を摂って、食後にコーヒーか紅茶でも飲んだら、もう家を出なければならない時間になるだろう。
「流石は元かるた部!」
「元料理部のお陰で朝ごはんがほぼ出来たよ」
さりげなく促すけれど、ほのかはさおりから離れようとしない。仕方が無いので、優しい力で振り解く。するとほのかは、今度はさおりを正面から抱き締めてきた。
触れていたくて堪らない。そんな表情だ。
「また土曜日に会えるから」
「うん……でも、寂しい」
「わたしも同じ気持ち。こう思うのってきっと、ほのかもわたしもお互いが大好きだからだよね」
ちょっとベタなことを言ったかな。さおりが少し後悔していると、ほのかは嬉しそうな、それでいて悲しいような、複雑な顔になった。そんな風に見詰められたら、何と言葉を掛ければ良いか分からない。
だからさおりは、ほのかにゆっくり顔を近付けて、唇で唇にそっと触れた。そしてすぐ、何事も無かったかのように離す。
見ると、ほのかの表情からは悲しみの色が消えていた。
「さおりん、ありがと」
「うん」
何がありがたかったのかな、と思いながら、さおりは頷いた。いずれにせよ、この世界で一番特別で愛しい人が、隣で幸せに笑っていてくれれば、それで良い。
ほのかはさおりを一度ぎゅっと強く抱き締めると、名残惜しそうに離れ、大きく何回か瞬きをした。それで何かに満足したのか、気を取り直したように朝食の用意の続きをし始めた。
「粉入れてー、お湯入れてー、ぐるぐるかき混ぜてー、テーブルに並べたらー、完成!」
声に合わせて、朝食の準備が完全に整った。いつも思うけれど、ほのかは本当に手際が良い。
「もう。朝は全部わたしがやるって言ったのに」
「そもそも献立考えたのウチだもんねー」
「うう、それはそうだけれど」
二人用のダイニングテーブルに着席したさおりは、正面に座したほのかと一緒に「いただきます」を言った。
ふと思う。顔の前で両手を合わせるこの仕草、願い事をする時みたいだ。
それならこう願おう。
「さおりんの朝ごはん、おいしー!」
「ほのかの献立のお陰だね」
「えへへー」
いつか遠くない日に、この特別な朝が当たり前になりますように。
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