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二十九 ホットケーキ

 その日、滝川ほのかは、恋人の部屋で一人、考え事をしていた。
 明日には県外の新居に引っ越してしまうから、高校の三年間通ったいつもの定食屋さんになかなか行けなくなってしまう。それが名残惜しくて、彼女は土曜日恒例のランチデートを提案した。通い慣れた駅のペデストリアンデッキと銀杏並木を二人して歩き、幾度か横断歩道を渡れば、いつもの定食屋さんがあった。
 ――いつも通り、美味しいなあ。次に食べられるの、いつかな。
 焼き魚定食を食べながら、しみじみと思った。
 ほのかは小学生の頃から、幼い弟妹の面倒を見ながら、仕事で忙しい父母の代わりに家事をこなしてきた。人生の中で最も多く食べたのは、自分で作った料理とレトルト食品。ほのか自身の宿題そっちのけで弟妹の保育園や学校の用意を手伝い、掃除と洗濯をしたら翌日の献立を考えて、足りないものを買い出しして。
 そんな毎日に忙殺されていた彼女は、いつしか、出来ないことがあると笑って誤魔化すことを覚えていた。だって、そうすれば皆、許してくれるから。実際、とても楽だった。けれどほのかは、自分だけは許さないぞと思ってもいた。上手く出来なければいけないのに、それが出来ないのを笑って済ませるなんて。
 一人だけ、「大丈夫だよ」って、「頑張ってるのちゃんと分かってるからね」って、言ってくれる人がいた。きっと何気無いその言葉が、心身ともに疲れ果てていたあの頃のほのかにどれだけの影響を与えたことか。
 当時中学生だった彼女は、後に恋人となるその人、野原さおりのことを、半ば利用するみたいに頼るようになった。宿題が分からなくて――正確にはやる時間を確保出来なくて――終わらない、助けて欲しい。大事なテストの日なのにペンケースを家に忘れてきてしまった――正しく言うなら、朝の忙しい時に弟妹が「失くしちゃった」と言うものだから貸した――から鉛筆と消しゴムが必要だ。東京遠足の時は何て言い訳したっけ。休みの筈の母に突然仕事が入ったから、自分のために用意したお弁当を「コンビニ弁当じゃ職場の人に悪く思われるかもだし」と持って行ってもらったのは覚えているのだけれど。
「ウチって本当、サイテー」
 気付いたらそう呟いていた。
 思い返してみれば、中学の頃からずっと、さおりのことを散々利用してきた。でも、それで心も身体も幾らか軽くなったのは確かだ。救われた、という大層なものではないと思うけれど、さおりがいなかったら今みたいにはならなかっただろう。
 サイテーついでに、さおりの机の中をちょっと漁ってしまおうか。さおりは今、下の階で何やらおやつを用意してくれている。多分まだ時間が掛かるし、足音が近付いてきたら何でもない振りをして元に戻せば良い。前にさおりは、不定期的に日記を付けていると言っていた。何を書いているのか、ちょっと気になる。
 座っていたベッドから立ち上がり、机の方を見る。
「あった……」
 シンプルに『日記』と書かれたノートが、探すまでもなく机の上に置かれていた。まるで、ほのかに読んで欲しくてそこに置いたみたいだった。それはちょっと考え過ぎかな。そう思いながら、彼女は躊躇いなくその分厚いノートを開いた。始まりは高校一年の五月だ。

 折角、競技かるた部に入ったのだから、和歌も使った日記でもつけてみよう。徒然なるままに、男もすなる日記といふものを。わたしじゃない誰かが読んだら、意味が分からないかもしれないけれど。今回は百人一首から引用。
 由良のとを渡る舟人かぢをたえ 行くへも知らぬ恋の道かな
 まるで、優柔不断なわたしみたいだ。これからどうなってしまうのかって、思うことしか出来ない。ひとまず、次のテストを頑張ろう。

 そんな書き始めだった。古典の授業で知った和歌や百人一首を使って、整然とした文字で日々の出来事や雑感が綴られている。読んでいて特段に面白いということはなかったけれど、自然と目が字を追い掛けてしまう。書いたのが恋人だからだろうか。
「ん」

君と行く土曜のランチ 夏草の仮初に触れし手のほとぼりよ

 オリジナルの和歌だ。日付は高一の夏休みだった。隣を歩いていたらたまたま手が触れた時の歌、と解説が付いている。そんなこともあったっけ? いや、あまり覚えがない。
 ほのかは中学生の頃からさおりを利用するように頼っていたけれど、その気持ちが恋心のようなものに変わったのは同じ高校に入れることになった時だ。自分のことのように喜んでくれたさおりの笑顔が嬉しかったし、ほのかだってさおりが幸せな時に自分のことみたいに祝福してあげたい。それって、恋と形容して良いものなんじゃないか。だから、さおりに恋をしている、と思うことにしたのだ。それから少しの間は、クラスが同じになって少しどきどきしたり、高校入学と同時に買ってもらったスマートフォンに真っ先にさおりの連絡先を登録したり、ちょっと浮かれていたと思う。けれど夏休みになる頃にはもう、慣れてしまった。
 この恋は叶わなくたって構わない。叶ったところで、ただ忙しさが増すだけだ。そもそもほのかは、さおりのことを半ば利用している。罪悪感もあって、告白するとかしないとか、悩んだことは一度も無かった。
「さおりん、可愛い」
 初々しくてさおりらしい、素敵な恋の歌だと思った。ほのかはこの時のことをはっきりとは覚えていないけれど、さおりの記録によれば、定食屋さんに行く途中、手をずっと握っていて、それがとても温かくて、ずっとこうしていたいと思ったらしい。
 本当に可愛いな、と思う。
 それ以降の記述にも、「君」とか「土曜のランチ」という言葉が使われている歌が時々あった。さおりがどれだけほのかのことを好きでいてくれていて、大事に思ってくれているのか、胸が苦しくなるくらいによく分かった。
「こっちのは付き合い始めてからのやつかー。んー、靴のお買い物デート……? あー、あった、あった」

秋草の靴の結び目解く君 土曜のランチ 装い新たに

 ほのかはさおりの何倍も忙しい生活を送っているという自覚と、それに対する一種の矜持を持っていた。デートをおろそかにしたことは一度だって無いけれど、何月何日にどこそこでどんなデートをした、と詳しく覚えている訳ではない。でも、さおりはデートの記録を毎回日記に書き残していた。これなら後から読み返しても、そういえばこんなことがあったなあって、簡単に思い出せるだろう。
「さおりん、ウチのコト好きすぎでしょ……」
 十分に知っていたつもりだったけれど、改めて恋人からの想いの強さを感じた。整った文字が紡ぐ歌や雑記は、ほのかについて触れたものもあればそうでないものもあった。

吐く息の白 降る雪の白さえも溶かす心に 土曜のランチ

「何か教科書に載ってそう」
 そこからぺらりとページをめくれば、年が変わってお正月が過ぎた。多分、学校が始まって最初の土曜日の出来事だろうか。ほのかも知っている枕詞が使われた歌が、少し印象に残った。

あらたまの年また一つ巡りけり 土曜のランチ変わらずもがな

 これを書いた時のさおりに、「大丈夫だよ」って言ってあげたい。もうすぐほのかとさおりの物理的な距離は遠のいてしまうけれど、心の距離は限りなくゼロに近いままだ。さおりはとても心配性だから、ほのかが安心させてあげなくてはいけない。部屋に戻ってきたら、沢山話をして、沢山抱き締めて、沢山愛してあげたい。
「てゆーか、さおりん遅くない?」
 上で待っていて、と言ってさおりが部屋を出て行ってから、もう二十分経つ。おやつを用意するって、何か凝ったものを作るつもりだったんだろうか。さおりは普段そんなに料理をしないそうだ。初心者には難しいものにチャレンジしているのかもしれない。
「ま、いっか」
 日記の続きを読むことにする。段々、楽しくなってきた。

久方の空の青さに春心 土曜のランチ 君と語れば

 「新しいクラスでも一緒になれた!」と嬉しそうなコメントが付されていて、読んでいるこちらまで嬉しい気持ちになった。その歌から長く伸ばされた矢印を追ってページをめくると、似たような歌が書き記されていた。

久方の雨は降れども晴る心 土曜のランチ 一つ傘差し
「何か上手になってるじゃん」
 さおりは経営コンサルタントを目指すと言っているけれど、こういう才能もあるのではないかなとほのかは思った。まあ、それを言うならほのかだって、料理は考えるより作るのが、作るより食べるのが好きなのに、管理栄養士になりたい訳だけれど。
 「相合傘って結構濡れるものなんだと知った」というコメントを微笑ましく思っていると、傍らのスマートフォンが短く鳴った。さおりからのメッセージだ。

  遅くなってごめんね。
  おやつ出来たから持っていくね。

 もうすぐさおりが部屋に戻ってくる。日記を読むのはお仕舞いにして、元の場所に戻さなくては。……別にそうしなくたっていい気もしてきた。さおりはそんなことでほのかを怒ったりはしないだろう。
 そのまま続きを読んでいくと、ほのかも覚えている出来事が書いてあった。
あらたまの月こそ昇れ 君の声 土曜のランチ 心ゆくまで

 それは夏の、いつもよりちょっと暑い日だった。本当は家事をやるために夕方五時前には帰宅していなくてはいけないのに、少し遅めのランチの後、話が盛り上がって長居したことがあった。その時の歌だ。 
 ほのかの両親は、ほのかに無理をさせていることを強く自覚している。だから少しくらい家事が上手くいかなくたって、家に帰るのが遅くなったって、怒られるということは無かっただろう。けれど当時のほのかは、数年の慣れと義務感から、早く帰らなきゃと少し焦っていた。その時のさおりはほのかと長く過ごせることに嬉しさを感じつつ、ほのかのことを案じている様子だった。
「さおりんは優しいなあ」
 心配してくれて、日記にまでそれを書いてくれて。
 ほのかが頬を緩ませていると、さおりの足音が聞こえてきた。二人分のおやつを載せたプレートを持って、部屋に入ってくる。
「わたしの日記を読んでいたんだね」
「だって待ちくたびれたんだもーん」
 ほのかは悪戯っぽく言ってみせた。さおりは二つの座布団に挟まれたテーブルに、ホットケーキの載せられた皿と紅茶を置く。フルーツ、チョコレート、クリーム。トッピングがお店みたいに凝っていた。これは時間が掛かるのも頷ける。
「おやつ、ホットケーキで良かった? 上手に出来たか分からないけれど……」
「さおりんの作ってくれる料理は全部、美味しくなくても美味しいから安心してね!」
 ほのかはさおりの正面の座布団に腰を下ろし、手にしていた日記をテーブルの脇に置いた。
「いただきます! 毎日さおりんの手料理が食べられる日が待ち遠しいなー」
「わたしも、毎日ほのかの隣で寝起き出来る日が早く来ると良いなって思う」
「もーう、さおりんったらー」
 冗談か本気か分からない、けれどきっと本気に違いない話をしながら、ほのかはさおりの作ってくれたホットケーキを味わった。トッピングは丁寧だけれど、言ってみれば何の変哲も無い、それなりに薄くて平べったくて、ちょっと焦げているホットケーキだ。それでも世界で一番美味しいって思えるのは、お互いの気持ちの強さによるものだろうか。
「さおりん、すっごく美味しいよ!」
「なら良かった」
「ありがとね」
「いえいえ、こちらこそ」
 ホットケーキを時々食べつつ、二人はさおりの日記を読んだ。たった数年前の昔話に花を咲かせながら、これから先もずっとずっと、「君」とする「土曜のランチ」の歌を詠んで欲しいなあ、なんて、ほのかは思った。
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