二十八 静心なく
国立二次試験の合格発表のあるその日、野原さおりは言いようのない虚無感に襲われていた。オンラインで朝の九時に発表された第一志望大学の合格発表ページには、さおりの受験番号は掲載されていなかった。彼女は自室で一人、その現実と対峙していた。悲しいとも悔しいとも思わない。ただ、心が真っ白で、何も考えられない。
第一志望に不合格の場合、滑り止めで合格していた大学に入る予定だったし、その大学でもやりたいことは学べる。
それよりも、さおりはむしろ、恋人・滝川ほのかと離れてしまうことを危惧した。
「ほのか」
気が付くとさおりは、メッセージアプリを開いて、通話ボタンを押していた。間もなく、いつも以上に陽気そうな声がする。
「おはよ、さおりん! ウチは受かってたー」
「そうなんだ、おめでとう。夢に一歩近付いたね」
さおりは努めていつも通りに振る舞った。きっとほのかは、「レータンですな」とか言って茶化すのだろう。自分が合格したのだからさおりも合格したんじゃないか、なんて思うに違いない。けれど現実は違う。さおりは志望校に手が届かなかった。
「んー、その声の感じだと、さおりんは落ちちゃったの?」
ほのかは平然と言う。
どうして分かるんだろう。分かったのなら、そこは恋人が落ち込んでいないか気を遣うところじゃないのだろうか。そう思いながらも、さおりは短く「うん」と答えた。
「そっか。じゃ、遠距離恋愛になりますなー」
ほのかの声は変わらず明るい。
さおりは後期試験を受けずに、国立に落ちれば合格していた私立大学に入ることに決めている。その大学はさおりがつい先日まで毎日のように通っていた高校の近くに立地していて、自宅から通うことは可能だ。それに対して、ほのかが合格したのは県外の大学。一人暮らしをすることになる。
つまり、今までのように、恋人として気軽に会える頻度は減ってしまう。さおりは、志望校に合格しなかったことよりも余程、その事実を受け入れがたく思った。
「今まで毎日のようにほのかと会っていたのに、いきなり遠距離なんて出来るかな」
「出来ますともー! ウチ、春休みに車の免許取るつもりだから、お休みの日にはさおりんといろんなトコ行けるよ!」
ほのかの明るさは陽だまりのようだ。この明るく元気に満ちた彼女と、こうして一緒に話が出来ることを、さおりはありがたく感じた。志望校に合格しなかったことへの少なからぬショックも、何処かへ行ってしまったかのようだ。……それとも、そう思いたいだけで、本当はもっと、悔しいとか、悲しいとか、そんな風に感じているのかもしれない。自分の心のことなのに、自分で自分が分からない。ちょっと落ち着かない気分だ。
「本当は今すぐさおりんとこ行ければ良かったんだけどねー。まだ家事が終わんなくて」
やっぱり何でも無さそうに言うほのかに、さおりは無性に会いたくなった。けれど会ったら会ったで、胸を借りて大泣きしてしまうような気もした。今のさおりは多分、情緒不安定とでも言える状態だ。このまま恋人に迷惑を掛けたくはない。通話はお仕舞いにしようか。でも声を聞いていたい。
さおりはほのかとの会話を続ける。
「わたしはずっとほのかと一緒にいたいよ」
「ウチだってそうだよ? でも、さおりんが自分で決めたコトだからねえ」
「自分で決めたというか、決まってしまったというか……」
するとほのかは、少しの沈黙の後、真面目な口調になった。
「理論的可能性としてはさー、例えば浪人してウチと暮らすのもアリだったよね? でもさおりんは、自分で自分のコトを決めた。受かったらウチと一緒に暮らすし、そうじゃなかったら遠距離だねって」
正にその通りだ。
何を置いてもほのかを優先するなら、どんな犠牲を払ってでも、あらゆる手段を取るべきだ。けれどさおりは、そうしなかった。ほのかが大事じゃない訳ではなくて、ほのか以外にも大事なものがあるのだ。なりたい自分、現実的な将来設計、学費を出してくれる親からの意見、周りからの目、その他諸々。
「ウチも今さっきね、さおりんと暮らすために近場の私立行くのもアリなのかなって考えてみたんだよね。でもやっぱり違うなーって。だって、ウチとさおりんって、距離が遠くなったら終わっちゃうような関係じゃないもん」
ほのかは自信満々に言い切った。その声を聞いて、さおりの心の中にあったごちゃごちゃした感情は、全部どこかへ消えてしまった。肩にのしかかっていた重しが無くなったみたいに、急に身体が軽くなった。
やっぱり、ほのかは凄い。
噛み締めながら、さおりは応える。
「うん、そうだよね」
「そだよー。毎日通話して、毎週末にデートしようね! ウチんち泊まってくれても良いんだよ」
「そのためにはまず住む場所を決めないとだね」
「うんうん、いつものさおりんですな。良いお天気だし、今日は夕方まで暇だから、お昼くらいにどこか行くー?」
ほのかに言われて初めて、さおりは自室の窓外に雲一つ無い青空が広がっていることに気付いた。さおりが咲かせることの出来なかった夢のことなんて何も知らないで、穏やかな春の時間が流れている。いつかほのかが言っていた、花は好きだけれど咲いた花は散ってしまうから苦手だ、という話が急に思い出された。
「花を見に行くのはどう? 梅の咲いている公園に」
「良いねー。帰りは定食屋さんでランチね!」
そうと決まれば支度をせねば。
さおりは意気揚々と、座っていたベッドから立ち上がった。
第一志望に不合格の場合、滑り止めで合格していた大学に入る予定だったし、その大学でもやりたいことは学べる。
それよりも、さおりはむしろ、恋人・滝川ほのかと離れてしまうことを危惧した。
「ほのか」
気が付くとさおりは、メッセージアプリを開いて、通話ボタンを押していた。間もなく、いつも以上に陽気そうな声がする。
「おはよ、さおりん! ウチは受かってたー」
「そうなんだ、おめでとう。夢に一歩近付いたね」
さおりは努めていつも通りに振る舞った。きっとほのかは、「レータンですな」とか言って茶化すのだろう。自分が合格したのだからさおりも合格したんじゃないか、なんて思うに違いない。けれど現実は違う。さおりは志望校に手が届かなかった。
「んー、その声の感じだと、さおりんは落ちちゃったの?」
ほのかは平然と言う。
どうして分かるんだろう。分かったのなら、そこは恋人が落ち込んでいないか気を遣うところじゃないのだろうか。そう思いながらも、さおりは短く「うん」と答えた。
「そっか。じゃ、遠距離恋愛になりますなー」
ほのかの声は変わらず明るい。
さおりは後期試験を受けずに、国立に落ちれば合格していた私立大学に入ることに決めている。その大学はさおりがつい先日まで毎日のように通っていた高校の近くに立地していて、自宅から通うことは可能だ。それに対して、ほのかが合格したのは県外の大学。一人暮らしをすることになる。
つまり、今までのように、恋人として気軽に会える頻度は減ってしまう。さおりは、志望校に合格しなかったことよりも余程、その事実を受け入れがたく思った。
「今まで毎日のようにほのかと会っていたのに、いきなり遠距離なんて出来るかな」
「出来ますともー! ウチ、春休みに車の免許取るつもりだから、お休みの日にはさおりんといろんなトコ行けるよ!」
ほのかの明るさは陽だまりのようだ。この明るく元気に満ちた彼女と、こうして一緒に話が出来ることを、さおりはありがたく感じた。志望校に合格しなかったことへの少なからぬショックも、何処かへ行ってしまったかのようだ。……それとも、そう思いたいだけで、本当はもっと、悔しいとか、悲しいとか、そんな風に感じているのかもしれない。自分の心のことなのに、自分で自分が分からない。ちょっと落ち着かない気分だ。
「本当は今すぐさおりんとこ行ければ良かったんだけどねー。まだ家事が終わんなくて」
やっぱり何でも無さそうに言うほのかに、さおりは無性に会いたくなった。けれど会ったら会ったで、胸を借りて大泣きしてしまうような気もした。今のさおりは多分、情緒不安定とでも言える状態だ。このまま恋人に迷惑を掛けたくはない。通話はお仕舞いにしようか。でも声を聞いていたい。
さおりはほのかとの会話を続ける。
「わたしはずっとほのかと一緒にいたいよ」
「ウチだってそうだよ? でも、さおりんが自分で決めたコトだからねえ」
「自分で決めたというか、決まってしまったというか……」
するとほのかは、少しの沈黙の後、真面目な口調になった。
「理論的可能性としてはさー、例えば浪人してウチと暮らすのもアリだったよね? でもさおりんは、自分で自分のコトを決めた。受かったらウチと一緒に暮らすし、そうじゃなかったら遠距離だねって」
正にその通りだ。
何を置いてもほのかを優先するなら、どんな犠牲を払ってでも、あらゆる手段を取るべきだ。けれどさおりは、そうしなかった。ほのかが大事じゃない訳ではなくて、ほのか以外にも大事なものがあるのだ。なりたい自分、現実的な将来設計、学費を出してくれる親からの意見、周りからの目、その他諸々。
「ウチも今さっきね、さおりんと暮らすために近場の私立行くのもアリなのかなって考えてみたんだよね。でもやっぱり違うなーって。だって、ウチとさおりんって、距離が遠くなったら終わっちゃうような関係じゃないもん」
ほのかは自信満々に言い切った。その声を聞いて、さおりの心の中にあったごちゃごちゃした感情は、全部どこかへ消えてしまった。肩にのしかかっていた重しが無くなったみたいに、急に身体が軽くなった。
やっぱり、ほのかは凄い。
噛み締めながら、さおりは応える。
「うん、そうだよね」
「そだよー。毎日通話して、毎週末にデートしようね! ウチんち泊まってくれても良いんだよ」
「そのためにはまず住む場所を決めないとだね」
「うんうん、いつものさおりんですな。良いお天気だし、今日は夕方まで暇だから、お昼くらいにどこか行くー?」
ほのかに言われて初めて、さおりは自室の窓外に雲一つ無い青空が広がっていることに気付いた。さおりが咲かせることの出来なかった夢のことなんて何も知らないで、穏やかな春の時間が流れている。いつかほのかが言っていた、花は好きだけれど咲いた花は散ってしまうから苦手だ、という話が急に思い出された。
「花を見に行くのはどう? 梅の咲いている公園に」
「良いねー。帰りは定食屋さんでランチね!」
そうと決まれば支度をせねば。
さおりは意気揚々と、座っていたベッドから立ち上がった。