二十三 秋は来にけり
秋風が髪を靡かせる九月第二週の金曜日。その日、野原さおりは、ここ一か月で起きた出来事を思い返していた。
「さおりん」
一緒にランチに行く筈だった八月二日の金曜日。さおりの恋人・滝川ほのかは、直前まで同じ教室にいたクラスメートの清水との話を、廊下で立ち聞きしていたようだった。
「ほのか?」
さおりが驚いて振り向くと、ほのかはいつになく鋭い声で言葉を続けた。
「ねえ、清水くんと何のお話?」
ほのかは開け放たれた扉の前に立ったままだ。その顔からは何の感情も読み取れない。多分、とても怒っているんだ。
どこか中途半端なところから話を聞いて、それで、さおりが清水と何かあったんじゃないか、浮気でもしたんじゃないかって、思っているんだろう。
「あのね」
さおりは努めて冷静に、真実を伝えた。取り敢えずの将来の夢は決めたけれど、本当の夢が他にあること。そしてそれは、自分でも非現実的だと思うようなものだということ。清水がそれを否定しないで、応援してくれたこと。
「それでわたし、本当の将来の夢を叶えるために、取り敢えずの夢を頑張れば良いんだなって思えたんだ。それで、清水くんを頼れる人だって初めて思った。ほのかがどこから話を聞いていたかは分からないけれど……」
あったことをそのまま伝えた。
ほのかは分かってくれるだろうか。
「じゃあ、さおりん。本当の将来の夢ってなあに?」
ほのかは教室の中に入り、さおりの座る席のすぐ後ろまで近付いてきた。表情はずっと、さっきと同じままだ。
「それは」
さおりは思わず言い澱んだ。
「ウチに言えないコト?」
「違うよ。あのね」
ほのかのお嫁さんになること、なんて、この状況で言える筈も無かった。そんなことを真剣な顔して言ったら、ほのかは何て思うだろう。考えたら胸が急にどきどきしてきた。けれど、伝えないと。そうじゃなきゃほのかは、誤解したままだ。そんなの嫌だ。
「それはね、ほのかと……」
言葉が続かない。
「ウチと?」
ほのかは首を傾げた。
ちゃんと、言わないと。頑張れ、わたし。
何度か大きく呼吸して、吸った息を言葉にして吐く。
「ほのかと、ずっと一緒にいること。ほのかが笑っていてくれるのを、ずっと隣で見ていられること。ほのかの幸せの一番大きな理由になること。もっとシンプルに言うなら、……ほのかの、お嫁さん」
最後だけ声が小さくなってしまった。でも、言えた。
恐る恐るほのかを見る。彼女は呆然とした顔をしていた。
やっぱり、おかしいって思われただろうか。言いたいことは言えたのに、どきどきはまだ収まってくれない。
「ええと、ごめんね」
気まずい沈黙を埋めるために、笑って取り繕ってみる。
「急にごめんね。吃驚したよね。でも、これが私の本当の将来の夢なんだ。今すぐとかじゃないよ、いつか叶えば良いなって――」
言葉の続きが、屈んできたほのかの唇に塞がれた。両手で頬を押さえて、少し乱暴に、投げやりに、目をぎゅっと閉じて呼吸を奪ってくる。受け入れながらその顔を見ると、目元が少し濡れている。
「――さおりん」
数十秒はそうしていただろうか。不意にさおりから離れたほのかは、涙声で言葉を紡いだ。
「さおりん。ウチなんかで良いの」
彼女の瞳はひどく不安げだ。
「わたしはほのかが良いんだよ」
さおりは席から立ち上がり、ほのかに向き直った。この何よりも大切な恋人を、抱き締めて安心させてあげたいと思った。ぎゅっと引き寄せると、ほのかはさおりの胸で、何も言わないまま涙を流し始めた。彼女の短い髪に触れ、撫ぜてやる。
どうして泣いているんだろう。
ほのかにはまだ、さおりの知らない事情があるんだろうか。それとも、さおりの将来の夢のこと……。
「ごめんね」
数分というには長く、十分というには短い時間が経った。ほのかはまだ泣き声で、小さくそう言うとさおりから離れた。
「やっぱり、嫌だった?」
「違うの。あのね、ウチ、今までこんなに、……こんなに」
ほのかはまた涙で言葉を詰まらせる。
「ゆっくりで良いから。ね」
「うん……」
大きく何回か息を吸って吐くと、ほのかはいつもの調子を取り戻したみたいだった。
「今までこんなに優しくしてくれる人って、いなかったの」
そう言うと彼女は、手の甲で目元の涙を拭いながら、また「ごめんね」と謝罪した。
謝ることなんて何も無いのに。
「今ずっとさおりんといたら、また泣いちゃいそう。今日は一人で帰るね」
「ほのかがそれで良いなら。家に着いたら一人だよね、電話したかったら遠慮しないでね」
「だからー、そんなに優しくしないでよー」
「そう言われても」
さおりが困惑していると、ほのかはいつもの笑顔で「また後でね」と言って教室を出て行った。
一人だけ取り残されたさおりは、帰りにコンビニで何か買ってさっさと帰ろうと思った。ほのかが今から家に着くまで、電車とバスの乗り継ぎが上手くいったら一時間も無い。それまでにさおりも帰宅して、きっと鳴るだろう電話にすぐ応じられるようにしておかなければ。
それにしたって、ほのかはどうしてあんなに泣いていたんだろう。優しくしてくれる人は、明るくて愛嬌のあるほのかの周りに幾らでもいるだろうに。ほのかはやっぱり、さおりに話していない事情を抱えているのかもしれない。
全部、知りたい。分かってあげたい。
「それはまた今度」
さおりは机の上に出しっ放しの数Ⅲを片付けると、急いで教室を後にした。
「さおりん」
一緒にランチに行く筈だった八月二日の金曜日。さおりの恋人・滝川ほのかは、直前まで同じ教室にいたクラスメートの清水との話を、廊下で立ち聞きしていたようだった。
「ほのか?」
さおりが驚いて振り向くと、ほのかはいつになく鋭い声で言葉を続けた。
「ねえ、清水くんと何のお話?」
ほのかは開け放たれた扉の前に立ったままだ。その顔からは何の感情も読み取れない。多分、とても怒っているんだ。
どこか中途半端なところから話を聞いて、それで、さおりが清水と何かあったんじゃないか、浮気でもしたんじゃないかって、思っているんだろう。
「あのね」
さおりは努めて冷静に、真実を伝えた。取り敢えずの将来の夢は決めたけれど、本当の夢が他にあること。そしてそれは、自分でも非現実的だと思うようなものだということ。清水がそれを否定しないで、応援してくれたこと。
「それでわたし、本当の将来の夢を叶えるために、取り敢えずの夢を頑張れば良いんだなって思えたんだ。それで、清水くんを頼れる人だって初めて思った。ほのかがどこから話を聞いていたかは分からないけれど……」
あったことをそのまま伝えた。
ほのかは分かってくれるだろうか。
「じゃあ、さおりん。本当の将来の夢ってなあに?」
ほのかは教室の中に入り、さおりの座る席のすぐ後ろまで近付いてきた。表情はずっと、さっきと同じままだ。
「それは」
さおりは思わず言い澱んだ。
「ウチに言えないコト?」
「違うよ。あのね」
ほのかのお嫁さんになること、なんて、この状況で言える筈も無かった。そんなことを真剣な顔して言ったら、ほのかは何て思うだろう。考えたら胸が急にどきどきしてきた。けれど、伝えないと。そうじゃなきゃほのかは、誤解したままだ。そんなの嫌だ。
「それはね、ほのかと……」
言葉が続かない。
「ウチと?」
ほのかは首を傾げた。
ちゃんと、言わないと。頑張れ、わたし。
何度か大きく呼吸して、吸った息を言葉にして吐く。
「ほのかと、ずっと一緒にいること。ほのかが笑っていてくれるのを、ずっと隣で見ていられること。ほのかの幸せの一番大きな理由になること。もっとシンプルに言うなら、……ほのかの、お嫁さん」
最後だけ声が小さくなってしまった。でも、言えた。
恐る恐るほのかを見る。彼女は呆然とした顔をしていた。
やっぱり、おかしいって思われただろうか。言いたいことは言えたのに、どきどきはまだ収まってくれない。
「ええと、ごめんね」
気まずい沈黙を埋めるために、笑って取り繕ってみる。
「急にごめんね。吃驚したよね。でも、これが私の本当の将来の夢なんだ。今すぐとかじゃないよ、いつか叶えば良いなって――」
言葉の続きが、屈んできたほのかの唇に塞がれた。両手で頬を押さえて、少し乱暴に、投げやりに、目をぎゅっと閉じて呼吸を奪ってくる。受け入れながらその顔を見ると、目元が少し濡れている。
「――さおりん」
数十秒はそうしていただろうか。不意にさおりから離れたほのかは、涙声で言葉を紡いだ。
「さおりん。ウチなんかで良いの」
彼女の瞳はひどく不安げだ。
「わたしはほのかが良いんだよ」
さおりは席から立ち上がり、ほのかに向き直った。この何よりも大切な恋人を、抱き締めて安心させてあげたいと思った。ぎゅっと引き寄せると、ほのかはさおりの胸で、何も言わないまま涙を流し始めた。彼女の短い髪に触れ、撫ぜてやる。
どうして泣いているんだろう。
ほのかにはまだ、さおりの知らない事情があるんだろうか。それとも、さおりの将来の夢のこと……。
「ごめんね」
数分というには長く、十分というには短い時間が経った。ほのかはまだ泣き声で、小さくそう言うとさおりから離れた。
「やっぱり、嫌だった?」
「違うの。あのね、ウチ、今までこんなに、……こんなに」
ほのかはまた涙で言葉を詰まらせる。
「ゆっくりで良いから。ね」
「うん……」
大きく何回か息を吸って吐くと、ほのかはいつもの調子を取り戻したみたいだった。
「今までこんなに優しくしてくれる人って、いなかったの」
そう言うと彼女は、手の甲で目元の涙を拭いながら、また「ごめんね」と謝罪した。
謝ることなんて何も無いのに。
「今ずっとさおりんといたら、また泣いちゃいそう。今日は一人で帰るね」
「ほのかがそれで良いなら。家に着いたら一人だよね、電話したかったら遠慮しないでね」
「だからー、そんなに優しくしないでよー」
「そう言われても」
さおりが困惑していると、ほのかはいつもの笑顔で「また後でね」と言って教室を出て行った。
一人だけ取り残されたさおりは、帰りにコンビニで何か買ってさっさと帰ろうと思った。ほのかが今から家に着くまで、電車とバスの乗り継ぎが上手くいったら一時間も無い。それまでにさおりも帰宅して、きっと鳴るだろう電話にすぐ応じられるようにしておかなければ。
それにしたって、ほのかはどうしてあんなに泣いていたんだろう。優しくしてくれる人は、明るくて愛嬌のあるほのかの周りに幾らでもいるだろうに。ほのかはやっぱり、さおりに話していない事情を抱えているのかもしれない。
全部、知りたい。分かってあげたい。
「それはまた今度」
さおりは机の上に出しっ放しの数Ⅲを片付けると、急いで教室を後にした。