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二十二 夢ばかりなる手枕に

 高校生活最後の夏休みが少し経ち、八月となったばかりのその日、野原さおりは、模擬試験と文化祭準備のために学校に来ていた。模試が午前中に終わった後、昼前に少しミーティングをする運びになっていた。案は事前に幾つか出ていたが、多数決により、三年五組の出し物は音楽カフェに決まった。市販品の飲み物を提供しつつ、ピアノやヴァイオリンなど、クラスメートの得意な楽器を披露するというものだ。さおりは中学までピアノをやっていたので、他の何人かの生徒と共に演奏担当になった。音楽の苦手な人は内装作りや飲み物の仕入れ、接客を担当することと決まり、ミーティングは滞りなく終わった。
「ピアノ演奏か……」
 教室に一人で残って先程の模試の解き直しをしながら、さおりは呟いた。
 中学生の頃の彼女は、本気で――今にして思えば幼く、拙い夢だったけれど――ピアニストを目指していた。講師に薦められてコンクールに出たら、上には上がいると思い知らされて、夢を追い掛けるのは諦めた。正しく言うなら、現実を見せ付けられたのだとも言えた。楽しい、極めてみたい、それだけではやっていけない世界なんだ、もっと狂ったように努力しないといけない。それだけの才能は――何物に代えても努力できる自信は、自分には無い。だから、やめた。
 ぼんやりと考え事をしている場合ではない。恋人・滝川ほのかとの約束の時間までに数Ⅲの直しを終わらせて、駅前のお洒落なカフェでランチをし、雑貨屋さんで買い物をするのだ。
 第一志望校に合格するため、というよりは、恋人との時間のために、さおりは勉学に打ち込んでいた。けれど成績は少しずつ上がっているから、結果オーライではあるのかもしれない。
「あれ、野原さん」
 廊下の方から声がした。そちらを見ると、クラスメートで図書委員の清水だった。彼は開きっぱなしの前扉から教室に入り、さおりの一つ前の席に座した。自然に距離を詰めてくる彼を、いつもながらさおりは多少警戒した。一人でどうしたのかと尋ねる彼に、淡々とした声で応じる。
「部活中のほのかを待っているところ。数Ⅲをしながらね」
「成程。僕は図書委員の出し物の準備に少し顔を出してきたところだよ」
「あれ、今日だっけ」
 なるべく図書委員の方にも顔を出したいと思っていたのに。さおりは少し焦った。けれど、清水がここにいるのだから、今行ってももう遅いだろう。
「三年は任意参加だから、気負わなくても良いと思う。ブックカフェの推薦図書と出す飲み物をどうするかで大揉めに揉めていたよ」
「諸星さん、そういうの凝りそうだからね……」
 さおりは本の趣味が合う後輩・諸星亜津子のことを考えた。オタク気質の彼女はきっと、自分の推す恋愛小説のコラボカフェのようなものをやりたいと考えているだろう。割り当てられた予算、他のメンバーの趣味嗜好からして、それが難しそうなことはさおりにもよく分かる。
「野原さんに飛び火することは無いから安心して欲しいな」
「清水くんが解決したってこと?」
「手伝いをほんの少しだけ」
 本当にこの人は、と、さおりは思った。清水はいつでも先手を打って、さおりの幸せを阻害し得るあらゆる問題を解決して掛かる。絶対に報われないと分かっている相手のために尽くす。そんな風に生きられるのはどうしてなのか。彼女はふと疑問に思った。
「前から思っていたんだけれど、清水くんってきっと結構モテるよね? わたしのことがあった後、誰かと付き合おうって思わなかったの?」
 さおりは脳内に浮かんだ疑問符を口にした。教室の外を少し見回した後、清水は顔色一つ変えずに答えた。
「僕には恋愛の他にやるべきことがあるから、と何度も断ったよ。夢を叶えるにはハードルの高い大学に入らなくちゃいけないしね」
「清水くんの将来の夢とか、聞いても良い?」
 夢。
 さおりは正直、自分の将来設計に自信を持てずにいる。清水はしっかりしているし、彼なら何か答えになりそうなものを持っていそうな気がした。
「野原さんのためなら、幾らでも。僕は医者になりたいんだ。出来れば小児科医に」
 清水は少し懐かしそうに、自分自身の幼少期について語った。身体が弱く病気がちで、頻繁に通っていた病院の担当医がとても良くしてくれた。お陰で今は身体の不調も特に無い。法曹を目指す兄二人にも影響を受けて、出来るだけ恵まれた環境に身を置いて、医者になるための勉強がしたく思った。
「それで清水くんは沢山勉強しているんだ……」
「将来の夢なんて、そういうものだと思うよ」
 彼は何でも無さそうに言うけれど、改めて考えると、清水は尊敬に値する人物だ。さおりと違って、ちゃんと現実的だし、夢の内容も動機もとても立派だ。
「わたしが夢って言えるものなんて、清水くんと比べたら全然現実味が無いよ」
「滝川さんと木橋さん経由で、経営コンサルタントになりたいと聞いているよ。それは本当の将来の夢じゃないんだね」
「取り敢えずの夢かな。本当の夢は、少なくとも現実をしっかり見てるほのかには言えない。ほのかを邪魔しちゃいそうだし、きっと笑われる」
「僕の夢だって、未就学児が『ヒーローになりたい』と真剣な顔して言うのと変わらないよ。幼い僕にとってのヒーローが、たまたま医者だった、そして医者になるという夢を持つことは社会的に高い評価が得られる、というだけで」
 それはそうなのかもしれないけれど。
 さおりは、自分が持っている密やかで非現実的な将来の希望を、言葉にして良いものか迷った。清水はきっとそんなさおりを見越して言った。
「野原さんが何になりたいのか、見当は付いているよ」
 清水は机の脇に引っ掛けていたリュックサックの中からノートとペンを取り出すと、ページを一枚破って何かを書いた。そして、書かれた内容をさおりが見る前に裏返す。
「答え合わせをしよう」
 清水の顔はあまりにも真剣で、さおりは何と返せばよいものか躊躇った。話すべきか、はぐらかすべきか。何も言わないでいれば、清水も無言のままだ。
「……笑わない?」
 さおりが耐えかねてそう言うと、彼は肯った。
「笑って欲しいのでなければね」
「なら言うよ」
 さおりは先程清水がしたように、廊下に誰もいないであろうことを確かめた。そして何度か大きく息を吸って吐く。
「わたしの将来の夢は、ほのかのお嫁さんになること」
 意を決して口にしたけれど、清水が聞き取れたか分からないくらいの声量だった。そもそもどうしてこんなことを清水に話しているんだろう。急に恥ずかしさが込み上げてきた。
 さおりが清水から目を逸らすように俯くと、清水は先程の紙を渡してきた。そこに書かれていたのは。

  野原さんが滝川さんと永遠の愛を結ぶこと。

「……そんなに分かりやすかった?」
 さおりは紙を受け取り、四つに折って胸ポケットに入れながら、努めて冷静に返答した。清水はさも当然であるかのように応える。
「木橋さんではないけど、僕だって野原さんを観察してるからね」
「まあ、それもそうだね……」
「野原さん」
 清水が改まったように言うので、さおりは彼の顔を見た。さっきと変わらず、大真面目な表情だ。
「高校三年間なんてあっという間で、僕はいつか、この三年間を過去だと思うに違いないんだ。僕と野原さんの進路は違う。離れたら忘れてしまって、大学で新しく誰かを……ということもあるかもしれない」
 清水は一度、深く息を吐いた。そして続けた。
「だから、忘れてしまうその時までは、野原さんの幸せを願わせて欲しいな」
 今までさおりのことをそんな風に思っていたなんて、……いや、大体分かってはいた。それを改めて言葉で示されると、何だか複雑な気分だ。無論、清水とどうこうなりたいという気持ちはさおりに全く無い。けれど、こちらが一番に思っていない相手から、こんなに大事に思われ、慮られていることは、とても貴重で、ありがたいことのように感じた。
「僕はいつか野原さんを忘れてしまうけど、野原さんは滝川さんのことを絶対に忘れないよね?」
 そう確認を取る清水の声は、苦しそうにも聞こえた。気のせいだろうか。
「ほのかと離れるなんて有り得ないって、真剣に思っているよ。それ以外に確かなことなんて無いって思うよ」
「だったら、野原さんの将来の夢はきっと叶うよ」
 清水は微笑していた。嫌味ではなく、心からの言葉に思えた。
「夢を叶えるのに何が必要か? 大学も就職も全部、その手段だと思えば良いよ。僕の存在も含めてね」
 さおりの夢は、夢として持ち続けて良いものなのだ。清水はそう背中を押してくれている。非現実的で、幼くて、拙くて、馬鹿げた夢なんかではないんだと。
「清水くんのこと頼れる人だって、今初めて思ったかも」
「僕には全くその気が無いから、今更惚れられても困るよ。野原さんへの感情は、高校三年の夢幻、淡い思い出として処理するつもりなんだ」
 清水は呆れたように笑うと、椅子から立ち上がって荷物を背負った。開け放たれた前扉から、どこか楽しそうに教室を出て行く。彼の後ろ姿に、さおりは言葉を投げる。
「惚れたとは一言も言ってないよね」
「僕はいつも通り、都合良く解釈するだけだよ」
「全く」
 やれやれと溜め息を吐いて、遠のいていく足音を聞いていると、突然後ろの扉ががらりと開いた。
「さおりん」
 その声に振り向けば、恋人・滝川ほのかが、懐疑的な目でこちらを見ていた。
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