二十一 人をも身をも
その日、野原さおりは、鞄の中身を漁っていた。午前中の授業が終わり、昼休みとなったこのタイミングで、彼女にはやらなければならないことがあった。何故なら今日は火曜日で、放課後には半強制参加の部活があるからだ。今を逃せば、昨日の放課後に恋人から借りた折り畳み傘を返せる機会を失ってしまう。
「あった」
昼休みの喧噪の中にある教室で、彼女の発した小さな声を捉えた者はいなかった。ただ一人、彼女の幸福を切望する図書委員・清水を除いては。
「野原さん、今から二組へ?」
清水はさおりの左隣前の席に座っているから、声が聞こえるのはまあ分かる。けれど、さおりの思考を読んだかのような発言までは理解不能だった。清水はいつもそうだ。そのような態度を取られる度、さおりは少しばかり苛々してしまう。
「清水くんはまみちゃんに会いに行くの?」
こちらも負けじと思考を読んで返事をすれば、清水は少し大袈裟に驚いてみせた。
「よく分かったね。明日の昼休みに図書室で何をするか打ち合わせるつもりでいるんだ」
「そう」
図書室ですることなんて、勉強か読書くらいでは。思いはするけれど口には出さず、さおりはレモン色の折り畳み傘を手に、席から立ち上がった。清水は実に自然な足取りで、さおりの後ろに付いてくる。周りから見たら、示し合わせて二人でどこかへ行くみたいには見えないだろうか。もしかして清水はそれを狙って? いや、さおりにメリットの無いことを彼はしない。
考えながら廊下の曲がり角を進んで、扉が開けっ放しの三年二組の教室に入る。
「あ、さおりーん」
すぐさま、さおりの恋人・滝川ほのかの陽気な声が飛んできた。そちらの方向を見ると、彼女は文芸部の友人・木橋まみと共に、何やらノートや参考書と睨み合っていたようだった。そして二人の座る席の正面には、一人の男子生徒が座っていた。一年生の時に同じクラスだった、井上だ。彼は祖父譲りの金髪をいじりながら、少し気怠そうにこちらを見てきた。
「井上くんに現文、教わってたんだー。分かりやすいよー」
「この前の模試、大変だったもんね。でも、まみちゃんも?」
さおりは訝しんだ。まみは国語が得意だった筈だ。
「木橋さんは英語。ほぼネイティブによるライティング添削はとってもためになるからね?」
まみはちらりと井上を見ると、今度は清水を見た。
「僕よりも井上くんに教わる方が良いなら、明日は僕一人で図書室へ行くよ」
清水は何でも無さそうに言った。多分、彼にとってまみと共に時間を過ごせるかどうかはどうでも良いことだろう。
「それはそれ、これはこれ。木橋さん、清水くんに聞きたいことが沢山あるんだよ?」
「奇遇だね、僕もなんだ。それでは、明日は予定通りに」
「楽しみ。話し足りないくらい、話題を用意しておいてね?」
そんな話をしていると、まみのスマートフォンが鳴った。電話のようだ。彼女は短く断りを入れると、教室を出て行く。そのタイミングを見計らったかのように、二人の会話を黙って聞いていた井上が、清水に向けて少し遠慮がちに口を開いた。
「やっぱ、あっきーって木橋さんと付き合ってんの?」
この発言、恋愛小説なら、井上がまみに好意を抱いているパターンだ。でもまあ、今までのやり取りからすれば、まみと清水が交際しているようにも思えるだろう。二人の実際はといえば、清水はさおりの話を、まみはほのかの話を、それぞれ共有するだけのことだ。他人の色恋沙汰の観察を趣味とするまみ、さおりの幸福を願う清水。二人の利害関係を、さおりもほのかも十分に知っている。
「僕に恋人はいないよ。好きな人はいるけれどね」
清水は意味ありげに言うと、勉強の邪魔をしたねと言って去って行った。
「何だよあいつ」
「ウチも時々思うんだよー。井上くんとは気が合いますなー」
ちょっと機嫌を損ねた井上に、ほのかはうんうんと同意した。
清水に対してほのかがそんな風に思っていたなんて、知らなかった。そのことにさおりが気を取られていると、ほのかは席を立ってさおりに近付いてきた。さおりが持っていた折り畳み傘を受け取る時、ほのかはちょっとだけわざとらしく、指先でさおりの手の甲に触れた。
そんな些細な仕草だけで、胸のときめきを感じてしまう。
「さおりん、わざわざありがとねー」
その声でさおりは、はっと我に返った。
「あ、うん。わたしこそ、昨日は傘を貸してくれてありがとう」
「お互い様だよー。数学と化学、いつも教えてくれてるもん」
「またいつでも連絡してね。それじゃ、また明日」
「うん、また明日ー!」
ほのかは明るく言った。
さおりは教室を出ながら、別れがちょっと名残惜しくて振り返る。ほのかと目が合った。ずっとこちらを見てくれていたんだな、本当に可愛いなあ、と顔が緩むけれど、これはあくまで秘密の恋。油断はいけない。廊下へ出ると、窓外の中庭を見る振りをして、さおりは少し気分を落ち着けることにした。
開け放たれた扉の向こうから、楽しそうな声が聞こえてくる。
「滝川さんって文系なのに化学なんだな」
「そだよー、将来の夢があるからねー。井上くんには国語と英語でお世話になりますー」
「オレは別に、自分のためにアウトプットしてるだけだし……」
「頭がいい人は皆そう言うんだー」
「いやオレ普通だよ……」
「頭がいいのは間違いないない! すっごく頼りになるし!」
「そ、そうか?」
ぎこちない井上と楽しそうなほのか。二人の会話が、妙にさおりの心を揺さぶる。窓の外、中庭の花壇に意識を向けてみるけれど、聴覚は変わらず二人の会話を捉え続けている。
「そーそー! 自信持とー?」
「何か、元気出てくるな」
「元気だけが取り柄ですから」
どうしてだろう。このまま聞いていたくないと思うのに、続きが気になってしまうのは。こんな気持ちになったこと、今までにあっただろうか。
さおりが溜め息を吐いていると、さっきまで廊下の端で通話中だったまみが、さおりの隣にやってきた。用事は済んだようだ。
「さおりちゃん、それは嫉妬って言うんだよ?」
事の顛末を話すまでもなかった。
まみは人間観察が趣味だし、普段からさおりの動静に詳しいから、さおりのことは何でもお見通しなんだろう。
「嫉妬……」
さおりはまみの言葉を思わず反復した。
恋愛小説では何度だって出てきて、知っていたつもりになっていた。けれど、実際にはまだ経験したことのない感情だった。何だか、未知の概念を初めて教わった時と同じ感覚がした。
「そう、嫉妬」
妖しげな笑みを浮かべると、まみは教室へ戻っていった。一人残されたさおりの頭の中では、「嫉妬」の二文字が何度も響いていた。
「あった」
昼休みの喧噪の中にある教室で、彼女の発した小さな声を捉えた者はいなかった。ただ一人、彼女の幸福を切望する図書委員・清水を除いては。
「野原さん、今から二組へ?」
清水はさおりの左隣前の席に座っているから、声が聞こえるのはまあ分かる。けれど、さおりの思考を読んだかのような発言までは理解不能だった。清水はいつもそうだ。そのような態度を取られる度、さおりは少しばかり苛々してしまう。
「清水くんはまみちゃんに会いに行くの?」
こちらも負けじと思考を読んで返事をすれば、清水は少し大袈裟に驚いてみせた。
「よく分かったね。明日の昼休みに図書室で何をするか打ち合わせるつもりでいるんだ」
「そう」
図書室ですることなんて、勉強か読書くらいでは。思いはするけれど口には出さず、さおりはレモン色の折り畳み傘を手に、席から立ち上がった。清水は実に自然な足取りで、さおりの後ろに付いてくる。周りから見たら、示し合わせて二人でどこかへ行くみたいには見えないだろうか。もしかして清水はそれを狙って? いや、さおりにメリットの無いことを彼はしない。
考えながら廊下の曲がり角を進んで、扉が開けっ放しの三年二組の教室に入る。
「あ、さおりーん」
すぐさま、さおりの恋人・滝川ほのかの陽気な声が飛んできた。そちらの方向を見ると、彼女は文芸部の友人・木橋まみと共に、何やらノートや参考書と睨み合っていたようだった。そして二人の座る席の正面には、一人の男子生徒が座っていた。一年生の時に同じクラスだった、井上だ。彼は祖父譲りの金髪をいじりながら、少し気怠そうにこちらを見てきた。
「井上くんに現文、教わってたんだー。分かりやすいよー」
「この前の模試、大変だったもんね。でも、まみちゃんも?」
さおりは訝しんだ。まみは国語が得意だった筈だ。
「木橋さんは英語。ほぼネイティブによるライティング添削はとってもためになるからね?」
まみはちらりと井上を見ると、今度は清水を見た。
「僕よりも井上くんに教わる方が良いなら、明日は僕一人で図書室へ行くよ」
清水は何でも無さそうに言った。多分、彼にとってまみと共に時間を過ごせるかどうかはどうでも良いことだろう。
「それはそれ、これはこれ。木橋さん、清水くんに聞きたいことが沢山あるんだよ?」
「奇遇だね、僕もなんだ。それでは、明日は予定通りに」
「楽しみ。話し足りないくらい、話題を用意しておいてね?」
そんな話をしていると、まみのスマートフォンが鳴った。電話のようだ。彼女は短く断りを入れると、教室を出て行く。そのタイミングを見計らったかのように、二人の会話を黙って聞いていた井上が、清水に向けて少し遠慮がちに口を開いた。
「やっぱ、あっきーって木橋さんと付き合ってんの?」
この発言、恋愛小説なら、井上がまみに好意を抱いているパターンだ。でもまあ、今までのやり取りからすれば、まみと清水が交際しているようにも思えるだろう。二人の実際はといえば、清水はさおりの話を、まみはほのかの話を、それぞれ共有するだけのことだ。他人の色恋沙汰の観察を趣味とするまみ、さおりの幸福を願う清水。二人の利害関係を、さおりもほのかも十分に知っている。
「僕に恋人はいないよ。好きな人はいるけれどね」
清水は意味ありげに言うと、勉強の邪魔をしたねと言って去って行った。
「何だよあいつ」
「ウチも時々思うんだよー。井上くんとは気が合いますなー」
ちょっと機嫌を損ねた井上に、ほのかはうんうんと同意した。
清水に対してほのかがそんな風に思っていたなんて、知らなかった。そのことにさおりが気を取られていると、ほのかは席を立ってさおりに近付いてきた。さおりが持っていた折り畳み傘を受け取る時、ほのかはちょっとだけわざとらしく、指先でさおりの手の甲に触れた。
そんな些細な仕草だけで、胸のときめきを感じてしまう。
「さおりん、わざわざありがとねー」
その声でさおりは、はっと我に返った。
「あ、うん。わたしこそ、昨日は傘を貸してくれてありがとう」
「お互い様だよー。数学と化学、いつも教えてくれてるもん」
「またいつでも連絡してね。それじゃ、また明日」
「うん、また明日ー!」
ほのかは明るく言った。
さおりは教室を出ながら、別れがちょっと名残惜しくて振り返る。ほのかと目が合った。ずっとこちらを見てくれていたんだな、本当に可愛いなあ、と顔が緩むけれど、これはあくまで秘密の恋。油断はいけない。廊下へ出ると、窓外の中庭を見る振りをして、さおりは少し気分を落ち着けることにした。
開け放たれた扉の向こうから、楽しそうな声が聞こえてくる。
「滝川さんって文系なのに化学なんだな」
「そだよー、将来の夢があるからねー。井上くんには国語と英語でお世話になりますー」
「オレは別に、自分のためにアウトプットしてるだけだし……」
「頭がいい人は皆そう言うんだー」
「いやオレ普通だよ……」
「頭がいいのは間違いないない! すっごく頼りになるし!」
「そ、そうか?」
ぎこちない井上と楽しそうなほのか。二人の会話が、妙にさおりの心を揺さぶる。窓の外、中庭の花壇に意識を向けてみるけれど、聴覚は変わらず二人の会話を捉え続けている。
「そーそー! 自信持とー?」
「何か、元気出てくるな」
「元気だけが取り柄ですから」
どうしてだろう。このまま聞いていたくないと思うのに、続きが気になってしまうのは。こんな気持ちになったこと、今までにあっただろうか。
さおりが溜め息を吐いていると、さっきまで廊下の端で通話中だったまみが、さおりの隣にやってきた。用事は済んだようだ。
「さおりちゃん、それは嫉妬って言うんだよ?」
事の顛末を話すまでもなかった。
まみは人間観察が趣味だし、普段からさおりの動静に詳しいから、さおりのことは何でもお見通しなんだろう。
「嫉妬……」
さおりはまみの言葉を思わず反復した。
恋愛小説では何度だって出てきて、知っていたつもりになっていた。けれど、実際にはまだ経験したことのない感情だった。何だか、未知の概念を初めて教わった時と同じ感覚がした。
「そう、嫉妬」
妖しげな笑みを浮かべると、まみは教室へ戻っていった。一人残されたさおりの頭の中では、「嫉妬」の二文字が何度も響いていた。