二十 夏来にけらし
まだ五月だというのに真夏と紛うほど暑いその日、野原さおりは、意気揚々と昇降口へ向かっていた。模試を終えたばかりの彼女は、恋人とのいつもの約束を果たすのが楽しみだったし、今回の試験は出来が良かった気がしていたのだ。
けれど昇降口を出ると、爽やかさを超えた陽気と温風に晒される。さっきまでの気分が台無しだ。
「ほのか、まだいない……」
校門前の木陰で暑さを我慢しつつ、いつものごとく恋人を待つことにする。スマートフォンには「テストは終わったよ! ちょっと料理部に顔出してくるね、ごめん!」と連絡が入っていた。まだ暫く掛かるだろうなあ、とぼんやり部室棟の方を眺めていると、一人の女子生徒がこちらに近付いてくるのが見えた。
図書委員会の後輩、諸星亜津子。しょっちゅう図書室で出会すし、本の趣味も割と合う。この前も、長編の恋愛小説の展開について熱い議論を交わしたばかりだ。
「やっぱり野原先輩だ。奇遇ですね」
亜津子はさおりの隣まで来ると、そう言って微笑した。
「漫研って、お昼過ぎまでやるものなんだね」
「そうなんです。この前の連休でイベントに出たので、今日はその反省会をしてました」
「戦利品、だっけ? その感想を言い合ってたの?」
「流石は先輩、分かってますね」
亜津子は肩に提げていた鞄から、雑誌とも本ともつかない大きさの冊子を出して、さおりに見せてきた。二人の男性が手を繋いでいるイラストの描かれた表紙には、漫研が執筆したことが記載されている。
「気になってましたよね。もし良かったら。五百円になります」
「ありがとう、読んだら感想を送るね」
さおりは鞄から財布を取り出して、百円硬貨を五枚、亜津子に渡した。そうして冊子を受け取ると、鞄の中に仕舞う。
「ところで先輩、誰か待ってるんですか?」
「うん。お昼を一緒に食べる約束をしているんだけれど、まだ少し掛かりそう」
さおりがやれやれと態度に出してみせると、亜津子は何か考え込むような仕草をした。彼女は恋愛話に目がない。相手が誰なのか、とか、その人とどんな関係なのか、とか、そんなことを考えているに違いない。
「清水先輩ですか? 彼氏疑惑ありますし」
「清水くんとは同じクラスだよ。同じタイミングでテストが終わって、清水君は帰宅部なのに、どうしてわたしだけここにいるの?」
「ぐぬぬ。でも、彼氏疑惑は否定しないんですね」
「疑惑を抱かれているっていう事実は否定できないよ」
詰め寄る亜津子に、さおりは淡々と答える。亜津子の考えていることは大体分かるので、冷静に対応することは難しくない。
「じゃあ、本当のところはどうなんです?」
「どうだろうね」
「白黒はっきりさせちゃいませんか?」
「それは清水くん次第かな」
少し誤解を与える言い方かもしれないとは思ったけれど、さおりに恋人がいるのは事実で、恋人を待っているのもまた嘘ではない。亜津子が真実に辿り着くことはないだろうと思っていると、昇降口から陽気な声がした。
「さおりーん、お待たせー!」
恋人・滝川ほのかが、駆け足でさおりの許へとやってきた。二人きりでいる時なら自然な距離まで近付くと、彼女はさおりの右腕に自身の左腕を絡めた。仕草がちょっとわざとらしい。
「ほのか」
さおりは窘めるように言った。ほのかとの仲は、亜津子には秘密だ。さおりは、ほのかとの恋を知り合いになるべく知られたくないのだ。腕なんて組んだら、恋愛小説が好きな亜津子に何かを悟られてしまうかもしれない。
けれどほのかは、さおりの考えなんてお構いなしに、のほほんとした声で応じた。
「もしかして、待たせちゃったの怒ってるー?」
全くこれだから、とさおりは思った。
「怒っていないよ。待ってた間、諸星さんと話が出来たし」
さおりは亜津子をちらりと見た。彼女はほのかとさおりとを繋ぐ腕をじっと見ているようだ。
「でも、きっとおなか空いてるのにごめんね、さおりん」
「ほのかだって、料理部の急用、大変だったよね。お互い様だよ」
それじゃ、また今度。
さおりは亜津子にそう言うと、半ばほのかに引っ張られるように歩き出した。怒っているかと尋ねてきたのはほのかだけれど、さおりが他の女の子と仲良く話していることを、ほのかは不満に思っているんだろうか……。彼女の表情からは、珍しく何を考えているのか読み取れない。
ほのかには、いつだって笑っていてほしい。
赤信号で立ち止まった時、さおりはほのかの腕を優しく振りほどいた。そしてそのまま、手を握る。
「わたしは、ほのかのものだよ」
少し大胆なことを言った気はした、でも、そう思うのは本当だ。
「さおりん、ウチが怒ってるように見えた?」
感情の抑えられたその声に、さおりは質問で返す。
「わたしが諸星さんと話しているの、嫌だった?」
信号が青に変わった。さおりは一歩前に出たけれど、ほのかはその場を動かない。どうしたのかと思っていると、突然ほのかに抱き締められた。正面から、時間にして三秒にも満たない。
すごく濃密な瞬間だった。
ちょっとどきどきするなあ、少しだけ汗のにおいがするかも、なんて思っている間に、ほのかはさおりから離れた。そうして何事も無かったかのように横断歩道を渡り始めた。さおりも慌ててその後を追う。
「さっきのコトはもうおしまい! さあ、ランチにしましょー!」
何だかよく分からないけれど、ほのかはいつもの調子に戻ったみたいだ。早歩きで道を進んで、嬉しそうな面持ちで定食屋さんの暖簾をくぐる。
彼女を見て、さおりはほっと一安心した。それと同時に、普段おおらかなほのかも機嫌を損ねることがあるんだなあと、少し意外にも思った。
けれど昇降口を出ると、爽やかさを超えた陽気と温風に晒される。さっきまでの気分が台無しだ。
「ほのか、まだいない……」
校門前の木陰で暑さを我慢しつつ、いつものごとく恋人を待つことにする。スマートフォンには「テストは終わったよ! ちょっと料理部に顔出してくるね、ごめん!」と連絡が入っていた。まだ暫く掛かるだろうなあ、とぼんやり部室棟の方を眺めていると、一人の女子生徒がこちらに近付いてくるのが見えた。
図書委員会の後輩、諸星亜津子。しょっちゅう図書室で出会すし、本の趣味も割と合う。この前も、長編の恋愛小説の展開について熱い議論を交わしたばかりだ。
「やっぱり野原先輩だ。奇遇ですね」
亜津子はさおりの隣まで来ると、そう言って微笑した。
「漫研って、お昼過ぎまでやるものなんだね」
「そうなんです。この前の連休でイベントに出たので、今日はその反省会をしてました」
「戦利品、だっけ? その感想を言い合ってたの?」
「流石は先輩、分かってますね」
亜津子は肩に提げていた鞄から、雑誌とも本ともつかない大きさの冊子を出して、さおりに見せてきた。二人の男性が手を繋いでいるイラストの描かれた表紙には、漫研が執筆したことが記載されている。
「気になってましたよね。もし良かったら。五百円になります」
「ありがとう、読んだら感想を送るね」
さおりは鞄から財布を取り出して、百円硬貨を五枚、亜津子に渡した。そうして冊子を受け取ると、鞄の中に仕舞う。
「ところで先輩、誰か待ってるんですか?」
「うん。お昼を一緒に食べる約束をしているんだけれど、まだ少し掛かりそう」
さおりがやれやれと態度に出してみせると、亜津子は何か考え込むような仕草をした。彼女は恋愛話に目がない。相手が誰なのか、とか、その人とどんな関係なのか、とか、そんなことを考えているに違いない。
「清水先輩ですか? 彼氏疑惑ありますし」
「清水くんとは同じクラスだよ。同じタイミングでテストが終わって、清水君は帰宅部なのに、どうしてわたしだけここにいるの?」
「ぐぬぬ。でも、彼氏疑惑は否定しないんですね」
「疑惑を抱かれているっていう事実は否定できないよ」
詰め寄る亜津子に、さおりは淡々と答える。亜津子の考えていることは大体分かるので、冷静に対応することは難しくない。
「じゃあ、本当のところはどうなんです?」
「どうだろうね」
「白黒はっきりさせちゃいませんか?」
「それは清水くん次第かな」
少し誤解を与える言い方かもしれないとは思ったけれど、さおりに恋人がいるのは事実で、恋人を待っているのもまた嘘ではない。亜津子が真実に辿り着くことはないだろうと思っていると、昇降口から陽気な声がした。
「さおりーん、お待たせー!」
恋人・滝川ほのかが、駆け足でさおりの許へとやってきた。二人きりでいる時なら自然な距離まで近付くと、彼女はさおりの右腕に自身の左腕を絡めた。仕草がちょっとわざとらしい。
「ほのか」
さおりは窘めるように言った。ほのかとの仲は、亜津子には秘密だ。さおりは、ほのかとの恋を知り合いになるべく知られたくないのだ。腕なんて組んだら、恋愛小説が好きな亜津子に何かを悟られてしまうかもしれない。
けれどほのかは、さおりの考えなんてお構いなしに、のほほんとした声で応じた。
「もしかして、待たせちゃったの怒ってるー?」
全くこれだから、とさおりは思った。
「怒っていないよ。待ってた間、諸星さんと話が出来たし」
さおりは亜津子をちらりと見た。彼女はほのかとさおりとを繋ぐ腕をじっと見ているようだ。
「でも、きっとおなか空いてるのにごめんね、さおりん」
「ほのかだって、料理部の急用、大変だったよね。お互い様だよ」
それじゃ、また今度。
さおりは亜津子にそう言うと、半ばほのかに引っ張られるように歩き出した。怒っているかと尋ねてきたのはほのかだけれど、さおりが他の女の子と仲良く話していることを、ほのかは不満に思っているんだろうか……。彼女の表情からは、珍しく何を考えているのか読み取れない。
ほのかには、いつだって笑っていてほしい。
赤信号で立ち止まった時、さおりはほのかの腕を優しく振りほどいた。そしてそのまま、手を握る。
「わたしは、ほのかのものだよ」
少し大胆なことを言った気はした、でも、そう思うのは本当だ。
「さおりん、ウチが怒ってるように見えた?」
感情の抑えられたその声に、さおりは質問で返す。
「わたしが諸星さんと話しているの、嫌だった?」
信号が青に変わった。さおりは一歩前に出たけれど、ほのかはその場を動かない。どうしたのかと思っていると、突然ほのかに抱き締められた。正面から、時間にして三秒にも満たない。
すごく濃密な瞬間だった。
ちょっとどきどきするなあ、少しだけ汗のにおいがするかも、なんて思っている間に、ほのかはさおりから離れた。そうして何事も無かったかのように横断歩道を渡り始めた。さおりも慌ててその後を追う。
「さっきのコトはもうおしまい! さあ、ランチにしましょー!」
何だかよく分からないけれど、ほのかはいつもの調子に戻ったみたいだ。早歩きで道を進んで、嬉しそうな面持ちで定食屋さんの暖簾をくぐる。
彼女を見て、さおりはほっと一安心した。それと同時に、普段おおらかなほのかも機嫌を損ねることがあるんだなあと、少し意外にも思った。