十九 月やはものを思はする
高校生活最後の一年が始まって最初の日曜日。その日、野原さおりは自室で幾度も溜め息を吐いていた。
春休み前の進路選択に関する焦燥は、取り敢えずの志望大学を決めることでほぼ解決した。好きなものや憧れているものを考えたら、恋人・滝川ほのかと何度も通っている、いつもの定食屋さんや、駅前の雑貨屋さんが頭に浮かんだ。どちらも品揃えが豊富で、店員さんも親切で、皆から愛されているお店だ。そんな素敵なお店作りを手伝いたい。だから県外の大学で経営工学を学んで、卒業後はコンサルタントになる。
まだ曖昧な部分はあるけれど、将来なりたいものはぼんやりと見えてきた。加えて言うなら、志望大学はほのかと同じだ。それは偶然だったけれど、嬉しい出来事だった。
では、さおりはどうしてこんなにも気落ちしているのか? それはひとえに、ほのかとクラスが離れてしまったからだ。
「仕方ないけれど……」
誰にも向けられない言葉を呟く。
文系のほのかと理系のさおりが同じクラスになる確率は元々高くなかった。昨年度、文理混合クラスになれたのが、あまりにも幸運すぎたのだ。クラスが離れてしまったことをとやかく言ってもどうしようもないけれど、そうは言ってもこれまで二年間、ほぼ毎日、そして中学時代も含めれば更に三年間、かなりの時間を共に過ごしていたので、今年はそれが無いというのがとても悲しく、切ないことのように思われる。
けれど、取り敢えずの志望大学が定まり、そこへ至るまでの距離も分かっている。ベッドでふてくされている場合ではないし、机に突っ伏してばかりでもいられない。だから、ぼんやり考え事をしながらも勉強をし、それに飽きたら読書をし、さおりはそんな風に一人の休日を過ごした。
ふと気が付けば夕方だ。窓の外にはオレンジ色の空が広がっている。あっという間に一日が去っていくなあと思っていると、階下からお風呂が沸いたよと呼ぶ声がした。さおりは先に入って良いよと返事をすると、傍らのスマートフォンに目をやった。丁度、特別な通知音がしたからだ。
「ほのかから……」
平日、休日を問わず、夕方以降は家族の面倒を見るのに忙しいほのかが、この時間にメッセージを送ってくるなんて珍しい。どうしたんだろうとアプリを開けば、暗くなり始めた空に浮かぶ下弦の月の写真が送られてきていた。
弟と妹とお弁当買い出しで順番待ちなうー!
月がきれいですね。って、何だったっけー?
陽気な文面は、さおりを幾分か元気付けた。
文豪が使ったっていう、愛の告白の婉曲表現だね。
淡々と返すと、ほのかは「なるほど」とスタンプを送ってきた。それで話は終わりかと思えば、ほのかは「さおりんの愛の告白はねえ、『仮定の話なんだけれど』だよ!」と明るい調子でメッセージを続けた。一昨年の秋のことを急に引き合いに出されて、さおりは何だか恥ずかしくなってきた。けれどその言葉は、ほのかに進路のことを話す良いタイミングになったかもしれない。
これは確定した話なんだけれど。
春休み中、悩みに悩んで決めた進路のこと、大学のことを、さおりはまだほのかに話していなかった。このタイミングで打ち明けるべきか、ほんの少しだけ迷った。でも、さおりはそうすることにした。経営工学をやりたいから、ほのかと同じ大学の工学部を受けるんだ、と伝える。
そしたら、ウチと一緒に住めるね!
ほのかは前に定食屋さんで言ったみたいに、きっと何でも無さそうに言葉を紡いだだろう。
そうなったらどんなに良いか。さおりは心から思う。けれど同時に、本当にそうなるんだろうかと不安も感じた。二人の学力の問題だけでなく、さおりやほのかの気持ちの面も含めて。
少しもやもやしながら、さおりは「その前に勉強しないとね」と、わざと悪戯っぽく返事を返した。
春休み前の進路選択に関する焦燥は、取り敢えずの志望大学を決めることでほぼ解決した。好きなものや憧れているものを考えたら、恋人・滝川ほのかと何度も通っている、いつもの定食屋さんや、駅前の雑貨屋さんが頭に浮かんだ。どちらも品揃えが豊富で、店員さんも親切で、皆から愛されているお店だ。そんな素敵なお店作りを手伝いたい。だから県外の大学で経営工学を学んで、卒業後はコンサルタントになる。
まだ曖昧な部分はあるけれど、将来なりたいものはぼんやりと見えてきた。加えて言うなら、志望大学はほのかと同じだ。それは偶然だったけれど、嬉しい出来事だった。
では、さおりはどうしてこんなにも気落ちしているのか? それはひとえに、ほのかとクラスが離れてしまったからだ。
「仕方ないけれど……」
誰にも向けられない言葉を呟く。
文系のほのかと理系のさおりが同じクラスになる確率は元々高くなかった。昨年度、文理混合クラスになれたのが、あまりにも幸運すぎたのだ。クラスが離れてしまったことをとやかく言ってもどうしようもないけれど、そうは言ってもこれまで二年間、ほぼ毎日、そして中学時代も含めれば更に三年間、かなりの時間を共に過ごしていたので、今年はそれが無いというのがとても悲しく、切ないことのように思われる。
けれど、取り敢えずの志望大学が定まり、そこへ至るまでの距離も分かっている。ベッドでふてくされている場合ではないし、机に突っ伏してばかりでもいられない。だから、ぼんやり考え事をしながらも勉強をし、それに飽きたら読書をし、さおりはそんな風に一人の休日を過ごした。
ふと気が付けば夕方だ。窓の外にはオレンジ色の空が広がっている。あっという間に一日が去っていくなあと思っていると、階下からお風呂が沸いたよと呼ぶ声がした。さおりは先に入って良いよと返事をすると、傍らのスマートフォンに目をやった。丁度、特別な通知音がしたからだ。
「ほのかから……」
平日、休日を問わず、夕方以降は家族の面倒を見るのに忙しいほのかが、この時間にメッセージを送ってくるなんて珍しい。どうしたんだろうとアプリを開けば、暗くなり始めた空に浮かぶ下弦の月の写真が送られてきていた。
弟と妹とお弁当買い出しで順番待ちなうー!
月がきれいですね。って、何だったっけー?
陽気な文面は、さおりを幾分か元気付けた。
文豪が使ったっていう、愛の告白の婉曲表現だね。
淡々と返すと、ほのかは「なるほど」とスタンプを送ってきた。それで話は終わりかと思えば、ほのかは「さおりんの愛の告白はねえ、『仮定の話なんだけれど』だよ!」と明るい調子でメッセージを続けた。一昨年の秋のことを急に引き合いに出されて、さおりは何だか恥ずかしくなってきた。けれどその言葉は、ほのかに進路のことを話す良いタイミングになったかもしれない。
これは確定した話なんだけれど。
春休み中、悩みに悩んで決めた進路のこと、大学のことを、さおりはまだほのかに話していなかった。このタイミングで打ち明けるべきか、ほんの少しだけ迷った。でも、さおりはそうすることにした。経営工学をやりたいから、ほのかと同じ大学の工学部を受けるんだ、と伝える。
そしたら、ウチと一緒に住めるね!
ほのかは前に定食屋さんで言ったみたいに、きっと何でも無さそうに言葉を紡いだだろう。
そうなったらどんなに良いか。さおりは心から思う。けれど同時に、本当にそうなるんだろうかと不安も感じた。二人の学力の問題だけでなく、さおりやほのかの気持ちの面も含めて。
少しもやもやしながら、さおりは「その前に勉強しないとね」と、わざと悪戯っぽく返事を返した。