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十 まつとし聞かば

 新しい年度となってから一か月あまりが経過した。その日、野原さおりは家族で二泊三日の旅行に行くことになっていた。
 父の運転する車で観光地を巡り、秘湯の湧き出る温泉旅館でゆっくり時間を過ごす。普段は仕事で忙しい両親と三人で、家族団欒のひと時を満喫するという計画は、さおりにとって楽しみでもあり、どこか退屈な三日間になることも予想された。道中の車内は特に暇だ。スマホいじりくらいしかやることが無い。
「さおり、高校生活二年目はどうだ?」
 父・由良がサイドミラー越しにさおりを見て言う。
「特に変わりは無いけれど、親友とまた同じクラスになれて嬉しいかな」
 さおりが淡々と答えると、今度は母・ゆりが話し掛けてきた。
「親友って、滝川ほのかちゃんのこと? 良かったわねえ」
「うん。三月に家に遊びに来たでしょう。その時に美味しいごはんが食べられて嬉しかったって、今でも時々話題になるよ」
「とっても美味しそうに食べてたわよねえ。普段あんなに美味しい美味しいって言ってくれる人いないんだもの、また来て欲しいくらいだわあ」
 母は隣の運転席をちらりと見て、わざとらしく微笑んだ。確かに父は家事や料理のことであまり母を労わないなとさおりは思う。それを非難するつもりはないし、そんなことを言ったら、自分だって同じだ。
「母さんだって、俺が仕事で遅くなっても何も言わんだろう」
「貴方は仕事だけ。私は仕事プラス家事に、ちょっと昔は育児まであったんだからねえ」
「そう言われると反論出来んな」
「その分は家族サービスで挽回ねえ。今日から三日間、宜しく頼むわよ」
 和気藹々と話す二人の声を聞きながら、さおりは再びスマートフォンをいじり始めた。メッセージアプリを起動して、ほのかとの直近のやり取りをぼんやり眺める。
 両親には「親友」と言ったけれど、さおりはほのかと恋人同士だ。手を繋ぐくらいなら友達とでもするだろう。ハグだったら親友とならするかもしれない。けれど、さおりとほのかはそういう関係ではないのだ。人目を盗んで、あるいは二人きりの密室で、今までに何度唇を重ねたことか。数えるほどでしかないが、それ以上のこともしている。
 この前だって平日昼間、テスト終わりに、さおりの家で。
 ほのかのことを考えていると、それだけで温かな気持ちに満たされる。それなのに、この手は、身体は、もっと触れ合いたいと渇望している。コップに溢れるだけ水を入れたみたいに幸せなのに、まだ足りないのだ。
 自分はこんなに欲深かったか。さおりは大きく溜め息を吐いた。
「どうしたの、さおり。家族旅行はこれからよ」
 母が心配そうにこちらを見てきた。娘の思考内容なんて、絶対に当てられっこないだろう。依然としてほのかとのことを考えながら、さおりは冷静な声で応じた。
「ちょっと考え事」
「勉強のこと? それとも部活?」
「ううん」
「もしかして恋の悩み?」
「まあ、そんなところかな」
「私、相談に乗ろうかしら?」
「大丈夫」
「そうね、ほのかちゃんとかがいるものね」
「うん」
 さおりが適当に相槌を打っていると、父が二、三度咳払いをした。バックミラー越しの顔色は、少し動揺しているように見える。
「こ、恋か」
「あら貴方。さおりだってもう高校生なんだから恋の一つや二つくらいするでしょう」
「まあ、分からんでもないが……」
「さおり、いつか私達に紹介してくれたりする?」
 母の陽気な声に、さおりは「既に二人とも知っているよ」と言いたいのを堪えて、「どうだろう」と曖昧に笑ってみせた。
 こんな調子で、当たり障りの無いやり取りをしながら、このゴールデンウィークの旅は終わりへと向かってゆくのだろう。本当は毎日ほのかと過ごしたかったけれど、ほのかは家族の面倒を見なければならないのだと言っていた。連休が終わったら、図書室で二人、旅行のお土産を一緒に食べながら、楽しい話をしよう。そのためにも有意義な家族旅行にしなければ。
 スマートフォンに再び目を落とすと、ほのかからメッセージが来ていた。

  寂しい、待てない、今すぐ抱き締めたい。

 その文字列に、さおりは胸がきゅっと縮むような心地がした。

  わたしも同じ気持ち。

 返事を送ると、大きく瞬きする。そうしなければ、込み上げてきた感情が、涙になって零れてしまうような気がした。旅はまだ始まったばかりだというのに、待っていてくれる人のために、今すぐ帰りたくなっているのだった。
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