本編
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あの男とのトラブルがあった次の日でも、ナナシちゃんはまた普通に郵便配達を行なった。僕のこともいつも通り迎えにきてくれる。ナナシちゃんが気にしないようにしているのだから、僕からも特に何か言ったりすることはできない。
あとから他の職員に聞いた話だと、やはりあの男はナナシちゃんの元彼で、2年前に別れたけれどギアステーションで見かけて声をかけたという。そうしたらナナシちゃんが予想以上に嫌がって騒動が大きくなり、取り押さえられたことにカッとなっていろいろと暴言を吐いたそうだ。その男の言うことがどこからどこまで本当なのかはわからない。しかし、ナナシちゃんの手首を思い切り掴んで赤い跡を残したこと、職員に取り押さえられたとき暴れて怪我をさせたことなどから傷害罪として捕まり、今後ギアステーションにも出入りできないよう措置を加えたそうだ。
「カズマサさん、明日でいいですよね。ライモンシティの中でもあまり人気の少なくて少し広めの場所があったんです」
「うん、大丈夫だよ! 待ち合わせはギアステーション前でいいかな?」
「カズマサさん、ちゃんとたどり着けるんですか?」
ナナシちゃんに冷たい目で見られた。
「だ、大丈夫だって」
「大丈夫な人だったら、毎日こうやって送り届けられたりしないと思うんですよね」
「それは、まあ、そうだけど……」
「道に迷ったら連絡くださいね……おはようございます。郵便でーす」
荷物を届け終わりサインを受け取ると、ナナシちゃんは振り返らずに次の配達地へと向かっていった。彼女がこちらに手を振るときと、振り返らずに行ってしまう基準はなんなのだろう。結構気ままな子だから、あまり深い意味はないのだろうか。
「ごめん、ナナシちゃん。道に迷った……」
『でしょうね。近くに何がありますか?』
「遊園地が見えるよ……」
『ギアステーションの目と鼻の先じゃないですか。迎えに行くので動かないでくださいね』
土曜日、約束の日。ライモンシティ内での待ち合わせだし、いつもナナシちゃんに送り届けてもらっているから流石に自分も道を覚えたらだろうと軽く考えていたけれど、やはりダメだったようで、子どもたちのワーワー騒ぐ声を聞きながらナナシちゃんに連絡を入れている。ナナシちゃんの方は、画面越しでもわかるくらいため息をついていて呆れているようだった。それでもしばらくしてローラーシューズを走らせたナナシちゃんが迎えにきてくれて、いつも通り腕を掴まれて人気の少ない場所へと向かっていった。
「ライモンシティにもこんなところあったんだね」
「わたしも配達途中で見つけたんです。公園だと子どもとかお父さんお母さんがいそうだから、こういう寂れたところがいいなと思って」
僕の腕を掴んでいた手を離すと、空き地の中心へとすうっと移動していき、少し恥ずかしそうに咳払いをした。雑誌を見た限りだと割とつい最近までコーディネーターとして活動していたようだけれど、こうして観客ひとり、しかも知人の前で見せる機会はなかなかなかっただろう。それでも心が落ち着いたのか、ローラーシューズでくるりと回ったあと、左手を胸に当て、右腕を広げながら丁寧にお辞儀をした。そして顔を上げると、いつもとは違う、元気一杯な笑顔を見せた。
「今日はわたしのコンテストバトルを観にきてくれてありがとう! 短い時間だけれど、みんなに夢を届けられるよう精一杯頑張るので、どうぞお付き合いください」
ぱちぱちぱち、と拍手を送る。
「まずはペリッパーさん、ギャラドス、ステージオン! ペリッパーさんは空に向かってみずのはどう! 続いてギャラドス、みずのはどうに向かってれいとうビーム!」
ペリッパーさんと、はじめて見るパートナーのギャラドスが登場する。モンスターボールにはシールが貼られているらしい。登場するときに、みずタイプらしいさわやかな色がペリッパーさんとギャラドスを飾った。
ペリッパーさんのみずのはどうは空へと送られ、その水が落ちてしまう前にギャラドスがれいとうビームで凍らせる。このままでは氷の塊が落ちてくるが、ナナシちゃんは3つめのボールに手をかけてそれを高く上げた。
「最後に登場するのはヒトデマン! ステージオン!」
ヒトデマンのボールには星のシールを貼っていたようだ。きらきらとした色が舞っていく。
「ヒトデマン、氷の塊に向かってスピードスター! ペリッパーさん、それをバブルこうせんで包んで!」
ヒトデマンがスピードスターで氷の塊を砕き、ペリッパーさんのバブルこうせんで包むと、星のかけらと氷の粒でできたスノードームのようなものが空を泳ぎ、それは僕のところへも届いた。触るとふっと消えてしまう、とても儚いもの。
「みんなのところへ夢は届いたかな? それではこの技で終わりにしたいと思います! ペリッパーさん、ハイドロポンプ! ヒトデマンは水の上に乗って、ギャラドスはれいとうビームで氷のアーチを作って!」
ハイドロポンプでできた波にヒトデマンが乗る。その足元を凍らせると氷のアーチができてヒトデマンのステージのようになった。
「ヒトデマン、こうそくスピンをしながらスピードスター!」
くるくると回るヒトデマンの出すスピードスターで、空から星が降ってくる。そしてナナシちゃんは氷のアーチの前に立つと、最初と同じようにくるりと回り、それから丁寧なお辞儀を見せた。
ぱちぱちぱち、と拍手を送る。すると、僕以外の拍手も聞こえた。僕もナナシちゃんもその音のする方を向くと、いつからいたのかギャラリーができていた。
「すげー! 俺、はじめて観た!」
「もしかして、これが雑誌に載ってたコンテストバトルってやつ?」
ギャラリーが口々に言うのでナナシちゃんは、げっ、というような顔を見せるとポケモン全員をボールにしまい、僕の腕を掴んで全速力で走り出した。配達時よりも早く走るので、追いついていくのにとても辛い。けれどもここで置いていかれると僕も非常にまずいので必死に走る。
そろそろ撒けただろうか、というところでナナシちゃんは足を止めた。ゆっくりとローラシューズの動きが止まる。僕は膝に手をついてぜーぜー息を整えようと頑張っていると、近くのカフェでお茶でもしましょう、とナナシちゃんは言った。その表情は先ほどの元気一杯な笑顔ではなく、いつも通りの、少しだけ口角の上がった笑顔。
窓の外が見える席に腰を下ろす。カフェでコーヒーとココアを頼んだあと、まだ体力が回復していない僕はテーブルに突っ伏した。
「すみません、急に走り出して」
「いや、大丈夫……僕もあんなにギャラリーができてたとは気づかなくて、ごめん」
コンテストバトルというものをはじめて観たけれど、確かにナナシちゃんの言う通り夢を届ける仕事なのだなと思った。スノードームが僕のところへ届けられたとき、こんなにもワクワクするのかと驚いた。手紙を受け取って開封するときはまた違ったワクワク感。郵便配達をするときとはまた違ったナナシちゃんの生き生きとした表情。全てが新鮮だった。
「ナナシちゃんはあれを大勢の観客の前でやっていたんだね! スノードームが僕のところに届いたとき、とても嬉しかった。ナナシちゃんのライブひとりじめ……ってわけじゃなかったけれど、見せてくれてありがとう!」
途中からギャラリーが入ったためひとりコンテストライブではなかったけれど、今まで隠していた『夢を届ける仕事』を僕だけに見せようとしてくれたことが嬉しかった。けれども、ナナシちゃんの方は複雑な顔をしている。
「カズマサさんはコーディネーターのわたしと、郵便屋のわたし、どっちがいいと思いますか?」
「ん? どっちもいいと思うけど。それに、今のところ郵便屋さんを辞めるつもりはないんでしょ?」
「天然タラシ」
「なんでいきなり悪口言ったの!?」
褒めたつもりだったのに、ナナシちゃんは呆れたといった表情をしていた。それからテーブルの方へと視線を移す。
「みんなは」
「うん?」
「コーディネーターのわたしが好きなんであって、普段のわたしなんてどうでもいいんですよ」
一呼吸置いてからナナシちゃんはつぶやいた。スカートをぎゅっと握っているようで、肩に力が入り震えている。テーブルを見つめるように頭を下げている彼女は、とても悔しそうに顔を歪ませていた。
「だから、コーディネーターを辞めてこっちに来たんです。ホウエン地方から離れているし、コンテスト会場もないからわたしのことを知ってる人なんていないと思って」
「僕は郵便配達をするときの生き生きとした表情のナナシちゃんも、甘いものを食べて少し嬉しそうな表情のナナシちゃんも、気まぐれで急にそっけない態度になるナナシちゃんも好きだけどな」
「変な人」
「そうかな……」
さりげなく好意を伝えたつもりだったけれど、一蹴されてしまった。しばらくして、グラスの半分になったココアを見つめながら、寂しそうな目をしてナナシちゃんは口を開いた。
「みんな『コーディネーターのナナシ』が好きで、普段のわたしなんて、ただの幻滅の対象でしかなかった。だけど、あのときの自分はバカだったから、好きだよって言ってくれる人と付き合って、わたしがこういうつまらない人間だと知られると、『こんなやつだと思わなかった』と言われてポイ捨てされて、それの繰り返し。でもあの人は違うと思ってた。普段のわたしのことも好きなんだと思ってた。なのに、結局他の女の人のところへ行っちゃった。好きだとか、愛してるとか、大事な人だなんて、ただのハリボテでしかなかった。わたしなんて、ただのアクセサリーでしかなかった」
「……それでもやっぱり、あの人のことが忘れられない?」
ナナシちゃんは考えるように軽く目を瞑り、ゆっくりと首を横に振った。けれども、それは否定するときの動きではない。
「わかんない。腕を掴まれたとき、怖かった。なのに、寄りを戻そうと言われたとき、少しだけ、この人はまだわたしのことが必要なんだって思った。だけど、カズマサさんの姿を見たら急に苦しくなって……だからわたし、嫌な女だなって」
「誰だって突然そんな状況になったら混乱しちゃうだろうし、自分を責めないでほしいな」
僕が仮にナナシちゃんだったら、あの場面でどういう行動を取るだろう。いきなり腕を掴んできた相手が2年前に別れた彼という予想外の出会い。最初に込み上げてくる感情は、裏切られたという怒りだろうか。それでも今まで付き合った中で一番優しくて大好きだった彼。過去のことを謝罪する彼を信じるのか、そのあとに現れた男の方へ助けを求めるか。考えても、どれが正解なのか僕にはわからない。
ナナシちゃんは僕の目を見た。今にも涙がこぼれそうな目をしている。
「なんでカズマサさんはわたしに優しくするの?」
「ナナシちゃんと一緒にいると楽しいからかな!」
「嘘つきで、ただの郵便屋さんなのに?」
「嘘を吐かれたのは少し寂しかったけど、別に人を傷つけるようなものじゃないし、僕だって全く嘘を吐かないわけじゃないからさ。それにナナシちゃん、嘘つくの下手だったもんね! 必死に取り繕うとしてるところが、ちょっとかわいかった」
「嘘つかれてかわいいとか変な人」
理解できない、というように首を振る。
「何屋さんでも、僕はナナシちゃんのことを好きになったと思うよ。ナナシちゃんは僕のこと、どう思っているのかな」
「よく道に迷う人」
「えっ」
今までの一連のやり取りの中で、好きとか嫌いとかそういう答えが返ってくると思ったのに、よく道に迷う人、なんてその辺の石ころ程度の認識で少し悲しくなる。けれども、「よくわかんない」と言葉を付け足した。
「最初はただの気まぐれだった。急いでるのに声をかけられて、面倒だからさっさと済ませようと思って腕を引っ張って走らせて。でもそのうち迎えに行くのが楽しみになって、一緒に出かけられるときは嬉しくて。なのに、一緒にいると嘘がバレないか怖くて、あの人のことを見たら余計にわかんなくなって。だから、イエスともノーとも言えない」
「そっか、そうだよね。でもいつか、ナナシちゃんの答えが聞けたらいいな。あのさ、こんなときに誘うのもどうかなってちょっと思ったんだけど、今度、マリンチューブってところに行ってみない?」
「マリンチューブ?」
「サザナミタウンからセイガイハシティまでを繋ぐ、水族館みたいなものだよ! ナナシちゃん、みずタイプのポケモンが好きみたいだし、セイガイハシティ、本当は行ったことないでしょ?」
ナナシちゃんはまた考えるように目を瞑って、ゆっくりと目を開けると少し口角を上げた。そして、こくりと頷いた。
あとから他の職員に聞いた話だと、やはりあの男はナナシちゃんの元彼で、2年前に別れたけれどギアステーションで見かけて声をかけたという。そうしたらナナシちゃんが予想以上に嫌がって騒動が大きくなり、取り押さえられたことにカッとなっていろいろと暴言を吐いたそうだ。その男の言うことがどこからどこまで本当なのかはわからない。しかし、ナナシちゃんの手首を思い切り掴んで赤い跡を残したこと、職員に取り押さえられたとき暴れて怪我をさせたことなどから傷害罪として捕まり、今後ギアステーションにも出入りできないよう措置を加えたそうだ。
「カズマサさん、明日でいいですよね。ライモンシティの中でもあまり人気の少なくて少し広めの場所があったんです」
「うん、大丈夫だよ! 待ち合わせはギアステーション前でいいかな?」
「カズマサさん、ちゃんとたどり着けるんですか?」
ナナシちゃんに冷たい目で見られた。
「だ、大丈夫だって」
「大丈夫な人だったら、毎日こうやって送り届けられたりしないと思うんですよね」
「それは、まあ、そうだけど……」
「道に迷ったら連絡くださいね……おはようございます。郵便でーす」
荷物を届け終わりサインを受け取ると、ナナシちゃんは振り返らずに次の配達地へと向かっていった。彼女がこちらに手を振るときと、振り返らずに行ってしまう基準はなんなのだろう。結構気ままな子だから、あまり深い意味はないのだろうか。
「ごめん、ナナシちゃん。道に迷った……」
『でしょうね。近くに何がありますか?』
「遊園地が見えるよ……」
『ギアステーションの目と鼻の先じゃないですか。迎えに行くので動かないでくださいね』
土曜日、約束の日。ライモンシティ内での待ち合わせだし、いつもナナシちゃんに送り届けてもらっているから流石に自分も道を覚えたらだろうと軽く考えていたけれど、やはりダメだったようで、子どもたちのワーワー騒ぐ声を聞きながらナナシちゃんに連絡を入れている。ナナシちゃんの方は、画面越しでもわかるくらいため息をついていて呆れているようだった。それでもしばらくしてローラーシューズを走らせたナナシちゃんが迎えにきてくれて、いつも通り腕を掴まれて人気の少ない場所へと向かっていった。
「ライモンシティにもこんなところあったんだね」
「わたしも配達途中で見つけたんです。公園だと子どもとかお父さんお母さんがいそうだから、こういう寂れたところがいいなと思って」
僕の腕を掴んでいた手を離すと、空き地の中心へとすうっと移動していき、少し恥ずかしそうに咳払いをした。雑誌を見た限りだと割とつい最近までコーディネーターとして活動していたようだけれど、こうして観客ひとり、しかも知人の前で見せる機会はなかなかなかっただろう。それでも心が落ち着いたのか、ローラーシューズでくるりと回ったあと、左手を胸に当て、右腕を広げながら丁寧にお辞儀をした。そして顔を上げると、いつもとは違う、元気一杯な笑顔を見せた。
「今日はわたしのコンテストバトルを観にきてくれてありがとう! 短い時間だけれど、みんなに夢を届けられるよう精一杯頑張るので、どうぞお付き合いください」
ぱちぱちぱち、と拍手を送る。
「まずはペリッパーさん、ギャラドス、ステージオン! ペリッパーさんは空に向かってみずのはどう! 続いてギャラドス、みずのはどうに向かってれいとうビーム!」
ペリッパーさんと、はじめて見るパートナーのギャラドスが登場する。モンスターボールにはシールが貼られているらしい。登場するときに、みずタイプらしいさわやかな色がペリッパーさんとギャラドスを飾った。
ペリッパーさんのみずのはどうは空へと送られ、その水が落ちてしまう前にギャラドスがれいとうビームで凍らせる。このままでは氷の塊が落ちてくるが、ナナシちゃんは3つめのボールに手をかけてそれを高く上げた。
「最後に登場するのはヒトデマン! ステージオン!」
ヒトデマンのボールには星のシールを貼っていたようだ。きらきらとした色が舞っていく。
「ヒトデマン、氷の塊に向かってスピードスター! ペリッパーさん、それをバブルこうせんで包んで!」
ヒトデマンがスピードスターで氷の塊を砕き、ペリッパーさんのバブルこうせんで包むと、星のかけらと氷の粒でできたスノードームのようなものが空を泳ぎ、それは僕のところへも届いた。触るとふっと消えてしまう、とても儚いもの。
「みんなのところへ夢は届いたかな? それではこの技で終わりにしたいと思います! ペリッパーさん、ハイドロポンプ! ヒトデマンは水の上に乗って、ギャラドスはれいとうビームで氷のアーチを作って!」
ハイドロポンプでできた波にヒトデマンが乗る。その足元を凍らせると氷のアーチができてヒトデマンのステージのようになった。
「ヒトデマン、こうそくスピンをしながらスピードスター!」
くるくると回るヒトデマンの出すスピードスターで、空から星が降ってくる。そしてナナシちゃんは氷のアーチの前に立つと、最初と同じようにくるりと回り、それから丁寧なお辞儀を見せた。
ぱちぱちぱち、と拍手を送る。すると、僕以外の拍手も聞こえた。僕もナナシちゃんもその音のする方を向くと、いつからいたのかギャラリーができていた。
「すげー! 俺、はじめて観た!」
「もしかして、これが雑誌に載ってたコンテストバトルってやつ?」
ギャラリーが口々に言うのでナナシちゃんは、げっ、というような顔を見せるとポケモン全員をボールにしまい、僕の腕を掴んで全速力で走り出した。配達時よりも早く走るので、追いついていくのにとても辛い。けれどもここで置いていかれると僕も非常にまずいので必死に走る。
そろそろ撒けただろうか、というところでナナシちゃんは足を止めた。ゆっくりとローラシューズの動きが止まる。僕は膝に手をついてぜーぜー息を整えようと頑張っていると、近くのカフェでお茶でもしましょう、とナナシちゃんは言った。その表情は先ほどの元気一杯な笑顔ではなく、いつも通りの、少しだけ口角の上がった笑顔。
窓の外が見える席に腰を下ろす。カフェでコーヒーとココアを頼んだあと、まだ体力が回復していない僕はテーブルに突っ伏した。
「すみません、急に走り出して」
「いや、大丈夫……僕もあんなにギャラリーができてたとは気づかなくて、ごめん」
コンテストバトルというものをはじめて観たけれど、確かにナナシちゃんの言う通り夢を届ける仕事なのだなと思った。スノードームが僕のところへ届けられたとき、こんなにもワクワクするのかと驚いた。手紙を受け取って開封するときはまた違ったワクワク感。郵便配達をするときとはまた違ったナナシちゃんの生き生きとした表情。全てが新鮮だった。
「ナナシちゃんはあれを大勢の観客の前でやっていたんだね! スノードームが僕のところに届いたとき、とても嬉しかった。ナナシちゃんのライブひとりじめ……ってわけじゃなかったけれど、見せてくれてありがとう!」
途中からギャラリーが入ったためひとりコンテストライブではなかったけれど、今まで隠していた『夢を届ける仕事』を僕だけに見せようとしてくれたことが嬉しかった。けれども、ナナシちゃんの方は複雑な顔をしている。
「カズマサさんはコーディネーターのわたしと、郵便屋のわたし、どっちがいいと思いますか?」
「ん? どっちもいいと思うけど。それに、今のところ郵便屋さんを辞めるつもりはないんでしょ?」
「天然タラシ」
「なんでいきなり悪口言ったの!?」
褒めたつもりだったのに、ナナシちゃんは呆れたといった表情をしていた。それからテーブルの方へと視線を移す。
「みんなは」
「うん?」
「コーディネーターのわたしが好きなんであって、普段のわたしなんてどうでもいいんですよ」
一呼吸置いてからナナシちゃんはつぶやいた。スカートをぎゅっと握っているようで、肩に力が入り震えている。テーブルを見つめるように頭を下げている彼女は、とても悔しそうに顔を歪ませていた。
「だから、コーディネーターを辞めてこっちに来たんです。ホウエン地方から離れているし、コンテスト会場もないからわたしのことを知ってる人なんていないと思って」
「僕は郵便配達をするときの生き生きとした表情のナナシちゃんも、甘いものを食べて少し嬉しそうな表情のナナシちゃんも、気まぐれで急にそっけない態度になるナナシちゃんも好きだけどな」
「変な人」
「そうかな……」
さりげなく好意を伝えたつもりだったけれど、一蹴されてしまった。しばらくして、グラスの半分になったココアを見つめながら、寂しそうな目をしてナナシちゃんは口を開いた。
「みんな『コーディネーターのナナシ』が好きで、普段のわたしなんて、ただの幻滅の対象でしかなかった。だけど、あのときの自分はバカだったから、好きだよって言ってくれる人と付き合って、わたしがこういうつまらない人間だと知られると、『こんなやつだと思わなかった』と言われてポイ捨てされて、それの繰り返し。でもあの人は違うと思ってた。普段のわたしのことも好きなんだと思ってた。なのに、結局他の女の人のところへ行っちゃった。好きだとか、愛してるとか、大事な人だなんて、ただのハリボテでしかなかった。わたしなんて、ただのアクセサリーでしかなかった」
「……それでもやっぱり、あの人のことが忘れられない?」
ナナシちゃんは考えるように軽く目を瞑り、ゆっくりと首を横に振った。けれども、それは否定するときの動きではない。
「わかんない。腕を掴まれたとき、怖かった。なのに、寄りを戻そうと言われたとき、少しだけ、この人はまだわたしのことが必要なんだって思った。だけど、カズマサさんの姿を見たら急に苦しくなって……だからわたし、嫌な女だなって」
「誰だって突然そんな状況になったら混乱しちゃうだろうし、自分を責めないでほしいな」
僕が仮にナナシちゃんだったら、あの場面でどういう行動を取るだろう。いきなり腕を掴んできた相手が2年前に別れた彼という予想外の出会い。最初に込み上げてくる感情は、裏切られたという怒りだろうか。それでも今まで付き合った中で一番優しくて大好きだった彼。過去のことを謝罪する彼を信じるのか、そのあとに現れた男の方へ助けを求めるか。考えても、どれが正解なのか僕にはわからない。
ナナシちゃんは僕の目を見た。今にも涙がこぼれそうな目をしている。
「なんでカズマサさんはわたしに優しくするの?」
「ナナシちゃんと一緒にいると楽しいからかな!」
「嘘つきで、ただの郵便屋さんなのに?」
「嘘を吐かれたのは少し寂しかったけど、別に人を傷つけるようなものじゃないし、僕だって全く嘘を吐かないわけじゃないからさ。それにナナシちゃん、嘘つくの下手だったもんね! 必死に取り繕うとしてるところが、ちょっとかわいかった」
「嘘つかれてかわいいとか変な人」
理解できない、というように首を振る。
「何屋さんでも、僕はナナシちゃんのことを好きになったと思うよ。ナナシちゃんは僕のこと、どう思っているのかな」
「よく道に迷う人」
「えっ」
今までの一連のやり取りの中で、好きとか嫌いとかそういう答えが返ってくると思ったのに、よく道に迷う人、なんてその辺の石ころ程度の認識で少し悲しくなる。けれども、「よくわかんない」と言葉を付け足した。
「最初はただの気まぐれだった。急いでるのに声をかけられて、面倒だからさっさと済ませようと思って腕を引っ張って走らせて。でもそのうち迎えに行くのが楽しみになって、一緒に出かけられるときは嬉しくて。なのに、一緒にいると嘘がバレないか怖くて、あの人のことを見たら余計にわかんなくなって。だから、イエスともノーとも言えない」
「そっか、そうだよね。でもいつか、ナナシちゃんの答えが聞けたらいいな。あのさ、こんなときに誘うのもどうかなってちょっと思ったんだけど、今度、マリンチューブってところに行ってみない?」
「マリンチューブ?」
「サザナミタウンからセイガイハシティまでを繋ぐ、水族館みたいなものだよ! ナナシちゃん、みずタイプのポケモンが好きみたいだし、セイガイハシティ、本当は行ったことないでしょ?」
ナナシちゃんはまた考えるように目を瞑って、ゆっくりと目を開けると少し口角を上げた。そして、こくりと頷いた。